推し活をやめたら推しが家に突撃してきた
剃り残し@コミカライズ連載開始
第1話
夕焼けを見たのはいつぶりだろうかと考えながら会社からの帰路につく。
社会人2年目ながらも残業にまみれていて、家に帰るとすぐに寝て、起きて、また会社に向かう日々。
会社の最寄りのターミナル駅前にある広場は定時帰りの人でごった返していた。本来、この時間に帰るのがあるべき姿ということを思い出させる。
だが、集っている人が歩くでもなく自分の居場所を確保するように立っているためふと違和感を覚えて顔を上げる。
集まっている人の視線の先にはカラフルな衣装を着た女の子の集団が小高いステージになっている段差の上に立っていた。
「お仕事帰りの皆様ー! お疲れさまでーす! 華金の夜、皆さんのお時間をくださーい!」
透き通っているが芯のあるよく通る声でそう言ったのは緑色の衣装を着た女の子。スラッとした長身で、1年前に見た時よりも髪の毛が伸びていた。
「おっ……Peach Pouch《ピーチポーチ》がライブしてんのか!?」
「あー! セナちゃんのグループだろ? 結構有名なのに路上ライブとかするんだな……」
会社帰りの二人組の男が足を止めてそんな話をしているのが聞こえた。
まず、ピチポチことピーチポーチは七人組で一人一人の個性が立っている。断じてセナちゃんのワンマングループではない。だから『セナちゃんのグループ』なんて言われるのは心外だ。
ただ、セナちゃんの動画がバズった影響でセナちゃんと他のメンバー間の知名度には月とスッポンほどの開きがあるけれど、それは結果であってセナちゃんは悪くない。
それにセナちゃんは可愛らしいビジュアルと歌とダンスに秀でているだけじゃなくて、演技もできて女優としても活動しているし、バラエティに出れば芸人顔負けの大喜利も披露する。バズった後が続く程度には才能に溢れている人だ。
あと、セナちゃんの好物はパラパラのチャーハン。ただし具材のレタスは認めないタイプらしい。これをオタク向けのキャラ作りなんて言ってはいけない。
セナちゃんもピーチポーチも路上ライブをすると最早迷惑になるレベルの知名度だが、それでも初心を忘れないために定期的に路上ライブをするのが彼女たちの信条でもある。
そんなオタク知識をもって早口で訂正したくなる気持ちをぐっと堪えてステージを見つめる。
ピーチポーチが結成されて早五年。観客が10人に満たなかった頃からずっと応援し続けていた。学生の時は時間と体力は有り余っていたのでイベントやライブは欠かさず参加。グループの人気が出てきて遠征が増えても夜行バスを乗り継いで応援に駆けつけたことを思い出す。
「ここは通路でーす! 移動してくださーい!」
立ち見の人が多すぎたのか、警察が交通整備に駆けつけたらしい。
俺も人の波に押されながらステージの方へ寄っていく。
気づけばステージの左端を担当するセナちゃんの目の前にまで来ていた。
セナちゃんは俺と目が合うと、驚いた表情で大きく目を見開いた。1年ぶりの再開を噛みしめる時間もなく、すぐに懐かしい曲が流れ始めてセナちゃんもパフォーマンスモードに入る。
王道のコード進行に可愛らしいシンセの音が映える、ピーチポーチで一番有名な曲だ。
俺はふと、スマートフォンを取り出して動画撮影を始める。
1年前まではこれがルーチンワークだった。セナちゃんをカメラで撮り続け、セナちゃんもカメラ目線で笑顔をくれる。
俺が投稿したセナちゃんの動画がバズり、それがピーチポーチが世間に『見つかる』きっかけにもなった。
だが、セナちゃんは目を赤くして泣くのを必死に耐えていて、俺に限らずファンに視線を送る余裕がないようだった。
明らかに普段とは様子が違う。久しぶりの推しとの再開は感動的というよりはモヤモヤが残る形となった。
◆
『セナちゃん、路上ライブで泣いてたんだけど何かあったのかな?』
『ストレスか? 1人だけ仕事やり過ぎなんだよ』
『そりゃ1人だけ暖冬で人気だしなー』
『暖冬? 今は初夏ですが?』
『暖冬→ダントツ』
『ファンのツキちゃんも動画あげなくなったよな。なんかもう売れすぎて別世界の人だし気持ちわかるけど』
帰宅後に1年ぶりにセナちゃんの話題をSNSで検索すると、それなりの件数がヒットした。
『ツキちゃん』というのは俺が動画サイトに投稿する時の名前。ピーチポーチのファン界隈ではそれなりに有名という自負はあるけれど、それも1年前にひっそりと推し活を止めたタイミングで捨て去った。
別に、売れたから興味が薄れたなんて思ったことはない。ただ、自分の生活が変わって、推し活との向き合い方も変化しただけ。
スマートフォンを持ち、投稿から数年が経ってもいまだに再生数が右肩上がりで増え続けている初めてバズったセナちゃんの動画を久しぶりに見る。
曲の終盤、大サビの前で伏し目がちにダンスをしている姿は横顔がよく見えて美しい。サビ前のブレイクで音が消え、セナちゃんが顔を勢いよく上げた。同時にカメラ目線で笑顔になり、カメラに向けて指ハートを作る。
主観視点で、誰が見てもアイドルが自分だけを見てくれている錯覚に陥る。完璧な動画だったと自画自賛してしまう程にいい映像だった。
社会人になって1年と少し。平日は残業、週末は資格の勉強と睡眠という生活を送っていてセナちゃんの動画を観る事自体が久しぶりだったことに気づく。
前は積極的に投稿していたSNSもログインしなくなって久しい。それでもセナちゃんの顔に見覚えがあるのは、電車の中吊り広告に複数社で起用されているからなんだろう。
家に帰ってスーツから着替えることなくベットに横たわりそんなことを考えていると、玄関のベルが鳴らされた。
木造のアパートなので玄関前に誰かが来ている。夜の八時なので遅めの配達かもしれないが、何かを頼んでいた記憶はないし、呼び鈴は鳴らさずに置き配で立ち去るはず。
そんなわけで少しばかり警戒心を持ってドアスコープから外を確認する。
そこに立っていたのは、ベンチコートを着たセナちゃん。
「はっ……せ、セナちゃん!?」
ドア1枚を隔てた向こうで、セナちゃんは首を傾げながらまた呼び鈴を押した。
慌てて扉を開けると、困り顔をしていたセナちゃんが俺を見て目を見開いた。照れくさそうに前髪を直しながら、さっきまでスマートフォンで見ていたとびきりのスマイルを俺に向けた。
「わ……本当にいた……久しぶりだね、ツキちゃん」
「あ……えぇと……」
「と、とりあえず中に入れてくれる? 玄関でいいから」
「あ……は、はい」
セナちゃんが駆け足で部屋に入ってきて、扉を閉めた。
気密性が高い部屋はないのだが、まったくの無音の空間になったような錯覚に陥る。
「な……ななな……なんでここに!?」
「や、久しぶり」
セナちゃんはステージ上とは打って変わりローテンション。会話の流れを全く気にせずに片手を振りながらマイペースに挨拶をしてきた。
「ひ、久しぶり……」
「ここに来れたのは……マネージャーにお願いして後をつけてもらったから」
「マネージャーをストーカーにジョブチェンジさせるんじゃないよ……」
セナちゃんはツボに入ったのか「ふふっ……」と下を向いて笑う。だが、次に顔を上げた瞬間、セナちゃんは険しい表情で俺を見てきた。
「ライブを見に来てくれたのっていつぶり?」
「最後は……い、1年以上前かと……」
「だよね。去年のゴールデンウィークにあった新潟のイベントが、私がツキちゃんを最後に客席で見つけた日だから」
セナちゃんは確信を持って頷くと、俺を壁際に押しやって手をついて下を向いた。
「なっ……何!?」
推しからの急な壁ドンに戸惑いながら尋ねるも、セナちゃんは何も言わない。
そのまま「い……」と声を漏らす。
「い……?」
「い、生きててよかったぁ……」
顔を上げたセナちゃんはボロボロと泣いていた。
「情緒おかしくない!? 大丈夫!?」
たかがファン1人と再会したくらいで大げさすぎやしないだろうか。
「それはこっちのセリフだよ! 何年間も休まず遠征についてきてくれてた最古参のファンが急にライブに来なくなるんだよ!? しかも何の前触れもなく! 病気したのかな? とか事故に遭ってないかな? とかすっごい心配してたんだから!」
「あ……ご、ごめん……」
「最後のイベントの日も普通にチェキ撮って帰ったじゃん? そのあとからぱったり来ないし音信不通だし動画も更新されないし……え? あ、もしかして彼女できたの? ってかツキちゃんって今何歳なの? 社会人?」
セナちゃんが矢継ぎ早に聞いてくる。会話が弾むとつい時計を気にして腕を見てしまう。セナちゃんは腕時計を隠すように手を重ねて笑った。
「今は『剥がし』はいないよ。ま、ツキちゃんはいつも時間を守ってくれてたけどさ」
「あ……う、うん……な、何から答えたら……?」
「じゃ……じゃあ彼女の有無!」
「いません」
セナちゃんは俺に背中を向けるように振り向いてガッツポーズをした。笑顔で振り向き「年齢」と言ってくる。
「同い年の23。普通の会社員」
「んー……え!? じゃ、じゃあ初めてライブに来てくれた時はまだ高校生!?」
「そうなるね」
「はえぇ……そりゃお互いに歳をとるわけだねぇ……」
「同い年なのにそんな年寄ムーブやめてよ……」
「彼女ができたわけでもなくて……健康で……あ、あれ!? じゃあなんで来なくなったの? せめて一言言ってよ……心配してたんだから」
「ファンがいちいち『もうこない』なんて言う必要ある? その方がよっぽど傷つくんじゃないの? 俺だって考えて……この離れ方が最良だって思ったんだよ」
セナちゃんからすれば何気ない質問だったのかもしれない。だけど、別に何も考えずにフェードアウトしたわけじゃない。
「……別に前みたいに毎回来てなんて言わない。けど、ライブの度に客席からツキちゃんをずっと探してる。毎回、いなかったって落ち込んでた」
「俺のためのアイドルじゃないでしょ」
「それは……そうだけど……や、本当にね。そうなんだよね。けど、探しちゃうんだ。みんなに平等にしなきゃって分かってるし表には出さないけど……ツキちゃんがいなくなって寂しかった」
セナちゃんは笑顔で俺の手を握ってくる。
「ね、また来てよ。またステージから探すから。見つけるから」
気持ちは嬉しい。推しに認知されて、ファンとして大切にされている。だけど、それが負担でもあった。
「……無理なんだ。前みたいに博多のライブに参加して、その足で夜行バスを乗り継いで翌日に福島までいって次のライブに参加して、なんてさ。学生の時だからできたこと。社会人になって時間がないんだ。資格の勉強もしなくちゃいけないし、毎日残業でくたくた。休みの日は寝ていたい。とてもじゃないけど、ライブにいって楽しむ余裕なんて……」
セナちゃんが俺の感情を強く押してきた反動で言葉が勢いよく飛び出してしまった。セナちゃんは真顔で「そっか」と呟くと俺の頭を何度も撫でてくれた。
「うんうん……ツキちゃん、そっか。大丈夫だよ」
感情を落ち着かせるためにセナちゃんが優しい声をかけてくれる。
「俺の方こそ……取り乱してごめんなさい」
「ん。謝れて偉い。けど……もう一回感情揺さぶってもいい?」
申し訳なさそうにセナちゃんが上目遣いで尋ねてくる。これは良くないニュースなんだろうと直感する。
だが、ここまで来たら聞くしかない。
「うん。いいよ」
「大切なお知らせがあるんだ。世界より1時間前倒しでツキちゃんだけにお伝えするね」
「え……た、大切なお知らせ!?」
「ん。大切なお知らせ」
「Youtuberならどうせ大した事ないってスルー出来るんだけど、現役アイドルのそれは聞きたくないよ……」
「サラッと毒を吐いたね……」
セナちゃんが苦笑いをしながら髪の毛を整える。
「私、ピーチポーチを脱退することにした」
「はっ……え!? おっ……ん!?」
完全に気持ちは『引退』の二文字を構えていた。芸能界からの引退ではないならまだ見ることはできるのか? 想定していた最悪よりは状況が良さそうなので感情が落ち切らずにふわふわとしてしまう。
「ギリギリ致命傷ってとこかな?」
セナちゃんが笑いながらそう言う。
「引退ではない……んだ?」
「ん。ピーチポーチは抜けてアイドル活動はやめる。他のやりたいことがたくさんあるから」
「そ、そういうことね……」
「理由は色々。ま、公式から出る建前は後で見といてよ」
「本音も聞けるの?」
セナちゃんはじっと俺の目を見て固まる。しばらく考えた後「いいよ」と言って頷いた。
「単純にやりたいことを優先したいのと、メンバーとの色んなバランスが取れなくなってるのもある」
一人だけずば抜けた人気を誇っているので、グループとしては痛手だろうけど、それに有り余るメリットがあっての決定だとはわかる。
「それ……本当に大丈夫なの?」
「や、むしろ私は追放された側」
「そうなの!?」
「皆さ、そんなに強くないんだ。モグラみたいな地下アイドルに地上は眩しすぎたんだよね。私がいると地下に潜れないんだってさ」
「そっか……」
「ま、それと、私個人の理由としては、やっぱりツキちゃんが大きかった」
「お、俺!?」
「うん。初めてのライブの時のことを思い出しちゃって。私はただの凡人で、不人気カラーの緑をあてがわれて狭いステージの端にいて、なんなら身体が半分幕で隠れてたまである」
「そうだったね」
「本当に辛くってさぁ……だけど、ステージの端にいる人が私を熱心に見てくれていた。初めて会った日は眼鏡をかけてたけど、その次からはコンタクトになってたかな? ま……その人のおかげで続けられた。何年も」
セナちゃんはこの数年を振り返るようにそう言って微笑む。
「俺以外のファンもいるじゃん」
「それはそう。けど……やっぱ違うんだ。産まれたての雛って初めてみた動物を母親って認識するらしいじゃん? それと同じ。スカスカのライブハウスでやったあの日、産まれたてのアイドルの私を見てくれていたのはツキちゃんだけだった。その次のライブも次の次のライブも。ツキちゃんがいなかったら多分心が折れてたよ」
「だから俺が来なくなって辞めたくなった?」
セナちゃんは目をつむり首を横に振る。
「ううん。気づいちゃったんだ」
「気づいた?」
「うん。いつの間にかツキちゃんに見てもらうのが目的になってた。他の誰でもなくて。それってもうアイドルじゃないじゃん?」
「なら……何なの?」
「うーん……うまく言えないけど……私は推される立場でもありながら、ツキちゃんを推しとしていた……? みたいな?」
「どういうこと!?」
アイドルに推されるファンってなんだ!?
「ふふっ……今は答えがない方がいいかも。で、これ。卒業ライブは来月にあるんだ。それが1時間後に発表されるんだけど……来てくれるかな?」
セナちゃんはポケットからチケットが入っていると思しき封筒を取り出して俺に渡してきた。
「それは……行くに決まってるじゃん」
それを受け取り、頷く。推しの最後のライブを見届けないわけにはいかない。
「よかった。後ね……あ、ペンある?」
「あるよ」
部屋に戻り、机からボールペンを取ってきて手渡す。
セナちゃんは封筒に何かのIDらしき文字列と電話番号を書いた。
「これ、私の連絡先。来月まではアイドルだから、それが終わったら……よかったら連絡して」
「それって……」
「と、友達としてね!? 私達、そこそこ仲良しじゃん!? 業界外の友達いないから欲しくて! そっ、それだけ! 下心とかないよ!? 本当に!」
セナちゃんは顔を赤くしてそう言う。
「な、なるほど……」
「ま……ぜ、ゼロではないかも」
セナちゃんは取り繕うようにそう言って補足してきた。
「友達の数?」
「下心の方」
セナちゃんはにやりと笑うと、呆然としている俺に対して「またね」と言って部屋から出ていった。
◆
1ヶ月後、渡されたチケットを使って久しぶりに最前列でピーチポーチのライブに参加した。
さすがに売れてきた後の曲はセナちゃんがセンターを務めることが増えたけれど、ピーチポーチが売れるきっかけになった曲はまだセナちゃんは端だ。
それをわかっていて、セナちゃんもステージ中央ではなく端側の席のチケットを俺に渡してきたらしい。
以前と同じように最後の曲は撮影が許可される。カメラを構えてセナちゃんに向けると、イントロの間、俺のカメラに向かってハートを作ってくれた。曲の最後にまた俺のカメラを見て可愛らしく頬を膨らませる。
ライブ終了後に電車の中でその動画を見返しながら、動画サイトにも久しぶりに投稿しようかと思いアップロードまで済ませる。
だが、これを公開したところで何になるんだろう。アイドルとしてのセナちゃんはもう見られないのだから。そっと投稿を取りやめ、その動画を以前教えてもらっていたセナちゃんの連絡先に送る。
ライブの直後なので見てはいないだろう。
そのまま帰宅して寝ようと思い始めた瞬間、メッセージが来た。
時間を見ると0時0分。ちょうど日付が変わった瞬間だ。
『フライングだよ、ツキちゃん』
セナちゃんから返事が来た。
『アイドル活動は昨日で休止?』
『ファンだった人と繋がっちゃってるからね』
『これからどうするの?』
『モデルや俳優のお仕事は続けるつもり。やりたいことはいっぱいあるんだ』
『そっか』
『ね、ツキちゃん。明日、暇? 日曜だけど家でゴロゴロする日?』
『そうかな』
『よかったら、ご飯を食べに行こう』
『お、俺と!?』
『うん。一番いい角度で笑顔を引き出してくれるカメラマンだから』
あれよあれよと言う間に明日の予定が決まってしまった。推しと食事だ。
◆
指定された店に一人で入ると、個室に案内された。個室に入るとセナちゃんは帽子、サングラス、マスクとすべての変装道具を取り外しておれに笑顔を向けてきた。
「や、ツキちゃん。悪いね。本当はもっと気楽なお店に行きたいんだけどさ」
「仕方ないよ。元アイドルで脱退直後に男と一緒にいるところを見られるのはね。友達かどうかなんて外野からは分かんないしね」
「ん。理解があって助かる」
2人でタブレットでメニューを選ぶ。セナちゃんは真っ先にチャーハンを選んだ。俺も同じものを注文する。
「ふふっ……せっかくだから高いものとか頼んでもいいのにね。2人して単品のチャーハンだってさ」
「エビチャーハンにすればよかったかなぁ……」
「あ! 私レタス抜きにしてもらうの忘れてた!」
「レタス嫌いなのってガチだったんだ……」
「アイドル向けのキャラ作りなんてしてないよ。しなびたレタスほど最悪なものはないよね」
セナちゃんが肩をすくめてそういう。
しばらくするとチャーハンとサービスの烏龍茶のポットが運ばれてきた。
ひとすくいして口に運ぶと上品な味がした。悪く言うなら薄味。そして、しっかりとレタスも入っている。
セナちゃんは真っ先にチャーハンからレタスを取り出してスプーンにまとめ、そのスプーンを俺の口に近づけてきた。
「ツキちゃん、あーん」
「レタスまみれだよ!?」
「うー……サラダを食べさせてもらっていると好意的に解釈をしてはくれんかね?」
「い、いただきます……」
しなびた生暖かいレタスが口の中でもちゃもちゃと噛み砕かれていく。これが嫌いな人がいるのか、と不思議に思う。
レタスが絶滅したチャーハンを安心しながら頬張ったセナちゃんが「ね、ツキちゃん」と声をかけてきた。
「なに?」
「普通さ、彼氏ってできるのにどれくらいかかるのかな?」
「ぶっ……急に何!?」
「や、だって標準がわかんなくて。一ヶ月で彼氏ができたら変?」
「え……で、できる予定が?」
「や、別にそういう人がいるわけじゃないよ」
セナちゃんは笑いながらそう言った。
「まぁ……いいなって思う人と出会って、何回かデートして……だと数ヶ月くらい?」
「ふぅん……そろそろ8月だから……クリスマスくらいかな。ちょうどいいじゃん。ツキちゃん、私言ったからね、覚えといてよ」
「何を?」
「クリスマスまでは彼氏を作らない。クリスマスくらいになったら恋愛解禁します!」
「う、うん……そっかー。がんばれー」
俺が薄味な対応をすると
「あ……あれ? テンションとチャーハンの味の濃さって比例するの? もっとこう……『うおおおおおお!』みたいなのは?」
「個室で味の薄いチャーハンを食べながら元推しアイドルに数カ月後に彼氏を作る宣言されてテンションが上がるわけないよね!?」
いくらなんでも、俺がセナちゃんと付き合えるなんて発想は思い上がりも甚だしい。だから、恋愛解禁だろうとなんだろうと別に嬉しい話ではない。
「おっと……ニブニブの実の能力者か……」
セナちゃんが顎に手を当てて探偵のように考え込む。
「ん? なにが?」
「いやいや、ま、それならそれで。仲良くしようね」
まさか……俺のことが? いやいや……さすがに俺はないでしょう。
セナちゃんは思い出したように「あ、ツキちゃん。そういえばさ」と切り出した。
「名前、何?」
セナちゃんは笑いをこらえながらそう言った。確かに、お互いに本名は知らない。そのことに今更気づいて笑ってしまう。
「確かに。俺もセナちゃんの本名知らないや」
「あ……確かに。本名公開してなかった」
「俺もハンドルネームしか伝えてなかったからね。
ペコリと頭を下げて会釈をする。
「や、これはこれはどうも。
星菜もぺこりと会釈をした。
「……なんで敬語?」
「ぷぷっ……確かに。変だったね。けど名前を言うときって『です』で終わらせたくならない? 名前だけで終わるのは微妙だし、『だよ』はちょっと幼い」
「うーん……『じゃよ』?」
「老人じゃ〜ん」
2人でケラケラと笑う。今は推しとアイドルじゃなく、友人同士なんだと実感し始めたのだった。
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推し活をやめたら推しが家に突撃してきた 剃り残し@コミカライズ連載開始 @nuttai
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