夫も片付け

中道 舞夜

第1話

リビングの窓から差し込む夕日が、部屋をオレンジ色に染めていた。

私は、ソファに座りテーブルに広げられた資格試験のテキストを眺めていた。分厚いテキストにはびっしりと専門用語が書き込まれている。これは、夫の慎吾が取得を目指している資格のテキストだ。


慎吾は、責任感が強い。それは彼の長所であると同時に彼を苦しめるものでもあった。苦手な仕事でも、会社から強制された興味のない資格取得でも彼はいつも一生懸命に取り組んでいた。まるで、重い荷物を背負いながらひたすら前を向いて歩いている旅人のようだ。


私は、そんな慎吾を応援していた。彼の努力を知っているから彼ならできると信じていた。「慎吾ならきっと大丈夫」「頑張って」と、いつも励ましの言葉をかけていた。彼の背中を押し、彼を支えているつもりだった。


しかし、ある日、慎吾の様子がおかしいことに気づいた。

以前は、職場のことを冗談も交えて話すことが多かったのに、最近は、口数が少なくなりため息ばかりつくようになった。顔色も悪く、時折ぼーと見えない何かを凝視しているような時もある。無表情、そんな表現がぴったりだった。


「どうかしたの?」

心配になって聞くと、彼は、力なく首を振った。

「なんでもない…ちょっと疲れてるだけだよ」

そう言うものの、彼の表情は明らかにおかしい。最近、お酒の量も増えた気がするし、朝も起きるのが遅くなっていた。


ある朝、慎吾は、会社を休むと言い出したのだ。

「ちょっと…もう無理かもしれない…」

彼は意を決したように口にした。そして、また見えない何かをじっと見るような顔をして静かに涙を流した。


私は、胸騒ぎを覚えた。彼は弱音を吐くタイプではない。


自分のせいで慎吾を追い込んでしまったのではないか、と、激しい後悔の念に襲われた。「頑張って」と励まし続けたことが、彼にとって、重荷になっていたのかもしれない。慎吾は真面目で責任感が強い人だ。言われたことは何としてでも応えなくては、と追い込む人だ。大学でも学部で何年も学ぶような専門分野を未経験で仕事の傍らで勉強して身に着けるのは相当な覚悟と時間がいる。その気持ちにもっとより添えていたら…。


一方、慎吾は、おかしくなった自分が社会人として失格だとひどく自分を責めていた。会社に行けなくなった自分は、もう役に立たない人間だと思い込んでいるようだった。


私は、ただただ慎吾のそばにいた。彼が話をしたくなることを待ち、自分から言及するのをやめた。しかし、彼の心の闇は深くなかなか光が差し込まない。


ある日、私は決意をもって慎吾に言った。

「私が大切なのは肩書きじゃない。あなた自身なの。あなたが生き生きとしていることが一番大切なの。…だから、無理して嫌なことをしなくていい。あなたはダメなんかじゃない。私はまっすぐなあなたを好きになってこれからも好きなの。無理しなくていい、仕事嫌だったら私も稼ぐから辞めてもいいんだよ」と。


私の言葉を聞いた慎吾は、静かに涙を流し始めた。それは、悲しみや苦しみだけでなく、安堵や解放感も混ざった、複雑な涙だった。私は、子どもを慰める母親のように自分の胸に慎吾を抱き寄せ頭を撫でた。


慎吾は声に出さず、震えて泣いている。もう無理しなくていい。いっぱい過度な期待をかけてしまった分、今度は私が支えるから…。

慎吾はためらいながらも、私に背中を押され嫌だった資格のテキストを捨てた。それは、過去の自分との決別であり、新しい自分への第一歩だった。



その日から、少しずつ、慎吾が変わっていった。。以前のように、笑顔を見せることも増えた。そして、ある日、彼は、私に言った。「紗枝、ありがとう。無理しなくていいって言葉、なんだか救われた」と。

涙が止まらなかった。


その後、慎吾は、自分の将来について考える時間を持つようになった。自分が本当にやりたいことは何なのか、どんな生き方をしたいのか。時間をかけて自分自身と向き合った。


そして、彼は、転職活動を始めた。今の業種とは全く違うIT部門だった。学生時代からプログラミングに興味があり自作のWEBサイトを作ったこともあるそうだ。IT部門は、労働時間が長く過酷なことから、夫婦や今後の家族の時間が減ってしまうことを恐れて気になっていたが言えなかったそうだ。私は、そんな慎吾を、心から応援した。彼の選択を尊重し、彼の背中を押した。そして、彼が自分の選んだ道で輝いている姿を見るのが何よりも嬉しかった。


あの日、私たちが捨てたのは資格のテキストだけではない。

私は、過度な期待を押し付ける心を、慎吾は、ここにしか自分の居場所はないと自分を低く評価する心を捨てたのだ。自分が自分らしく、相手が相手らしくいれること、そのためにお互い見守り支えること…。捨てたからこそ見えたこれからの夫婦の新しい形だ。




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