エフ准教授の杞憂

舟津 湊

第1話

古生物学者のアール博士は、今日もデヴォン期の地層がむき出しになった海岸に化石の採掘に来ていた。


地球に生命が現れ、今日までの時間を一日とするとデヴォン期は「午前」にあたる。この時期は「魚の時代」と言われ、お魚様が地球上の海や川を君臨していた。


アール博士の夢は、デヴォン期にタイムスリップし、多彩な色かたちや大きさの魚が泳ぎ回るのを一望することにだった。


この日、その妄想が実現することになる。


普段あまり行かない岩場で採掘をしている時に、大波が博士を襲い、海の中に引きずり込まれてしまったのだ。


海中に潜っているのに、息が苦しくない。落ち着きを取り戻して周囲を見回すと、巨大魚、ダンクレオステウスやティタニクティスが悠々と泳ぎまわり、サンカスピスやカンベローダスの群れが博士の鼻面を横切る。


博士はこれらの魚との泳ぎを楽しんだ後、海岸に戻り、砂浜の乾いている地面まで移動し、腰掛けた。


僅かに陸地から風が吹き、夕陽が沈み始める。


それは、筆舌に尽くし難い光景だったが、博士はその感動を分かち合う人間が一人もいないことに気付き、急速かつ激しく孤独感が襲ってきた。


本能的にもう元の世界に戻れないと悟っている。


夢を果たした博士は、もう何も望みはないが、惜しむらくは、まだこの時代の魚を食べていない。


要は、お腹が空いたのだ。


あまりの空腹により、幻覚が起きているのか、神経が鋭敏に研ぎ澄まされているのか定かではないが、博士の鼻腔は、僅かに空気に漂う香ばしい匂いを嗅ぎとった。


腰を上げ、ふらふらと匂いの元を求めてさ迷う。砂浜から草地に入った所に赤い発光体が浮かんでいる。


それは、小さな一軒家に取り付けられた提灯だった。墨文字で『でぼん亭』と描いてある。


多分、これは幻覚なのだろう。でも、博士にとってはそんなことはどうでも良かった。ためらわずにドアを開け、中に入る。


「いらっしゃい。」


カウンターの向こうで、絣の着物を着た妙齢の女性が微笑む。


カウンターに座った博士にお絞りを渡し、「お酒はお燗で良かったかしら?」と尋ねる。


博士は首肯し、焼き物をお任せで頼む。


突き出しの、海草と貝のぬたで日本酒を楽しんでいると、目の前に焼き魚が載った大皿が置かれた。


「はい、お待たせ。今日は、サンカスピスのいい型が揚がったので。」


炭火て程よく焼かれたそれは、身の旨みといい、脂の載り具合といい、絶品だった。古生物学者の間では、この時代の魚が旨いか不味いか、しばしば飲みの場で論争になっていたが、おそらく人類でただ一人、それを身をもって体験している事になる。


博士は、現世に帰れないことに、微塵も未練はなかった。



アール博士が行方不明になった海岸で、不可解な化石を発見したのは、奇しくも彼の弟子、エフ准教授だ。


デヴォン期の地層から、人骨の化石が発掘されたのだ。学界では大論争になったが、科学的に何も根拠づけられなかったので、恐らく、地震で断層面が大き崩れた際に、別の時代の地層が崩れて入り込んだのではないかとの推論が大勢を占め、論争は幕引きとなった。


人骨の化石はいまでもその海岸近くの博物館で展示されている。一緒に採掘された魚の骨と徳利のような形状の器も展示され、人骨の右手の指には、お猪口のような器が握られている。


化石の発見者であるエフ准教授は展示の前に立ち、考えを巡らす。


人骨の大きさ、骨格は、アール博士のそれと似ている。


ひょっとしたら、師匠は夢に語っていたデヴォン期へのタイムトラベルを実現したのではないか。


弟子の准教授は、一つだけ心配していることがある。この時代の魚の脂(あぶら)は、現在のそれと違い、人間には消化ができないと言われている。


我が師匠は、お腹をこわさなかっただろうか?


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エフ准教授の杞憂 舟津 湊 @minatofunazu

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