身分も年齢も違う2人の一般男性。
共通項は「自分を持たない」ことだけ。
そんな彼らは近所でアマチュア格闘の場が開催されることを知る。
何気なく入った彼らが目の当たりにしたのは、すべてを暴力が支配する異常な光景であった。
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「外敵との戦いではなく、自身を賭ける戦いということだ――」
Fateという有名なゲーム作品の中で、泥臭い格闘戦を繰り広げる場面がある。
格好良い必殺技で相手を叩きのめすことが原則だった当作品において、あまりに地味なこの戦いはしかし、観たものの心を熱く震わせた。
この作品にはそのスピリットが感じられた。
他のレビュアーの方も述べられているように「アマチュア」であることが最大の特徴である。
無名の2人には、漫画やアニメに登場する有名キャラが持っている、信念もプライドもない。
ガクチカをはじめ、積み上げてきたものがその人を示すことは世間の常識である。
彼らにはその武器がない。これは格闘シーンにおいても克明に描かれている。
格闘技のプロは迅速に相手を無力化する術を持つ。
それは継続的な戦いを見据え、自分へのダメージを減らすためであり、相手を慮って最小限の衝撃で終わらせるためだ。
ここで、持たないアマチュア同士が向き合うとどうなるか。
次の試合はなく、相手の力量を見て加減することも(出来)ない。
全力と全力がぶつかり合う。目前の相手に自分の過程――重みを全て乗せるのだ。
言葉にならない衝動、絶叫が入り混じり、どちらが勝ち、どちらが負けているかの判別がつかない。
その試合描写の中に、彼らが得た「経験値」を見て取れるのが、ただ素晴らしい。
観客もまた、このリアリティショーに華を添えている。
それは言うならば、暴力の(他では代え難い)昂揚である。
誰かが誰かをぶちのめす。
好戦的な観客はそれ以外を認めない。
そんな光景が道徳規範で許されるはずはない。
しかし、観客の盛り上がりにつられて、こちらも昂ってくるのを感じる。
興味本位または嫌々で来たはずの読者も、読み終えた時には立派な観戦客となっている。
2人の人間的な成長と、動物的な闘争が入り交じった快作だった。
※読み合い企画からのレビューです
物語は非常にシンプルだ
映画好きの中年リーマンと、毒親持ちのチー牛が、素人同士の格闘大会で殴り合うだけ
にも関わらず、本作の熱気は異常であり、まるで目の前で二人が殴り合っているかのような臨場感がある
素人だから、技の冴えがあるわけではない
素人だから、スマートな試合になるわけでもない
だが、素人だからこそ、何が起こるかわからないドキドキ感に繋がっている
そして、主人公の二人にもそれぞれ魅力がある
「何かが足りない」と違和感を抱き生きていた中年サラリーマン
卑屈で下ばかり向いて生きてきたチー牛
特にチー牛のほうが、人生すべての鬱屈を怒りに変えて獣のように殴り掛かるシーンは圧巻だった
一瞬の火花のようにぶつかり合う二人
そして、試合の行方とは
素晴らしい作品なので、是非一読してほしい
読んですぐ
「これは日本版ファイトクラブだな」
と思った。
サラリーマンの映児が「僕」で、ニートの基久が「タイラー・ダーデン」であろうか。
あるいは映児も基久も社会からのプレッシャーで押しつぶされそうな自分を、血まみれになって殴り合うことでとりもどそうとする「僕」かもしれない。
映児の格闘技の知識がすべて映画で、勝負を終えた基久が手にするトロフィーが「ネットの仲間たちの賞賛」なのがリアルだった。
映画『ロッキー』で試合を終えたロッキーはタイトルは逃がすが、エイドリアンの愛を手に入れる。
それに比べると基久が手にしたものはみすぼらしく見えるが、そんなことはない。
ロッキーは「自分がただのチンピラではないことを証明したい」とリングに上がる。
それに対し映児と基久はそもそも【証明すべき自分がない】。
ロッキーよりもはるかに追い詰められた困難な場所から二人とも立ちあがりファイトした。
証明ではなく本来あるべき自分をとりもどすために。
たしかに戦い方はアマチュアだが、そんな二人のファイトに自分は感動した。
拍手を送りたい。
『ファイトクラブ』やアクション映画好きのかたにおすすめしたい逸品です。