紅葉と烏

ときの

紅葉と烏

 ひらり、ひらり。

 赤や黄色の葉が一枚、また一枚と舞い落ちる。

 いつだったか、これはある神の衣なのだ、と聞いたことがある。


 ふわりと落ちた一枚の艶やかな色は、音もなくただ、おれの忌々しき黒き身を哀れむように隠す。

 神の衣の向こう、空は次第に小さくなっていく。


 ――ああ、おれは


 あの青の風を羽根に受けることは、もうないのだ。



 *



 全身を黒で被い、空にまうもの。

 人間はおれたちのようなものをカラスと呼ぶらしい。


 生まれたときこそ兄弟たちと違わなかったおれは、巣を発つ頃には他の烏から「異質なもの」と見做されるようになった。

 何故そうなったのか、理由は今なお知れぬ。

 気付けば、親兄弟は大地に還り、かつてのねぐらも今はとうに崩れ去った。もはや欠片ほどの痕跡もない。


 幾年月いくとしつきを経て。

 つまりは、おれはそういう『もの』なのだ、と知った。




 天の黒い一点は、透くような色には如何様いかようにしても溶け込むことはできぬ。

 今日も在るを拒まぬ天に、ひと筋ばかり黒い羽音と残像を引く。


 畠の上から鼠どもの姿を見た。

 彼奴きゃつらは、はるか彼方のおれには気付かず、忙しげに冬ごもりの支度に勤しむ。喰われるとも知らぬその姿に、ちらりと哀れみを覚えた。

 ひとつ大きく羽ばたき、首を巡らせたその刹那。


 視界の隅に鈍色にびいろの何かが動くのを感じ、ゾワリと戦慄が走った。

 どん、と大気が揺れ、衝撃が我が身を穿うがつ。


 風を掴んでいた羽は突如として力を失う。

 ついには天地が逆になった。


 全身が大地に叩きつけられる。

 柔く生暖かな湿った腐葉と、命が漏れ出るような赤の臭いを感じた。


 身をよじるも、片羽は赤黒く滑る液体に濡れる。

 先程の衝撃によるだろう全身を貫く痛みに、次第に藻掻もがく気力もがれていく。


 恐らくおれは、人間どもの火を噴く黒い筒で撃ち落とされたのだ。

 それは田畑を荒らす、不吉な黒き身ゆえか。


 おれも鼠と何ら変わらぬわと己が滑稽こっけいさを自嘲する。

 仲間が居らば逃れることもできたやもしれぬ。だが独りきりのおれに、危険を知らせるものはない。

 落とすは、さぞ容易たやすかったであろう。


 ――仕方あるまい。


 今日落とされたのは、そういう定めだったのだ。


 先程までいた空が、赤や黄色を纏う木々の向こうに淡く儚く在った。


 空は、あれほどに遠くなってしまった。


 ひらり、ひらり。

 一枚、そしてまた一枚。

 赤や黄色の木の葉が、おれの黒い姿を覆い隠す。


 空は、もう見えない。



 *



 突如、ぐ、と羽が何かに持ち上げられ、羽を根元からがれるような痛みに襲われた。

 ギャアと絶叫が突き上がる。


「……ごめんねカラス君。こんな酷い傷じゃ痛いよね」


 人間の男の声が真上から聞こえる。

 羽を持ち上げているのは、……人間か!


 ――おれに触るな!


 混乱し、なんとか逃れようともがく。しかし、身体には殆ど力も入らず、無理に動かした羽は一層痛みを増した。

 人間め、まだおれをおとしめるか!


「ごめんね……本当にごめん」


 突然。

 胸の締め付けられるような、消え入りそうに細い人の声に動きが止まる。

 なぜこの忌まわしい烏にこの人間は罪悪感を抱く?


 人の手が、ゆっくりとおれの背を撫でた。

 それは柔らかで優しく、親鳥の胸に抱かれたように温かく、ひどく懐かしい心地よさだった。


「私は、酷いことしないよ」


 混乱は鎮まり、身体から強張こわばりも痛みも遠のいていく。

 そこでようやく気付いた。


 ここは、どこだ。


 ――おれは、神の衣に覆い隠されたのではなかったか。あのまま朽ちるとばかり思っていたが。

 見まわせば、傷んだ板張りの狭く薄暗い場所。

 土間の真ん中に作られた囲いの中で、薪が赤々と燃え、煙の匂いが満ちている。板の隙間からは、細く宵闇の色が漏れていた。

 初めて見るが、もしやここは人間の住む小屋の中か。


「君は翼を鉄砲で撃たれたんだ。幸い弾は残ってないけど、傷が酷い。痛いだろうけれど、私に君の手当てをさせてほしい」


 再び降る声に、見上げれば人の顔があった。

 おれの目に映ったのは、揺れる火を映す深い黒瞳と、緑の黒髪と。声の響きは密やかにも穏やかで、花の頃の夜風を想わせる。

 人の顔が作る表情というものをおれは理解できないが、下げられたまなじりは敵意のない感情を表すものなのだろう。手当てする動きは丁寧で、爪の先ほどの害意も感じない。


 人間に撃ち落とされたおれを、なぜこの人間は助けた。

 人間にとってのおれは忌むべきものではないのか。


『なぜ、助けた』


 ガア、と呟くように鳴くと、人は首を微かにかしげた。


「……綺麗だったから、かな」


 人間はおれの羽に視線を向け、またゆっくりと背を撫でた。

 この人間はおれを……綺麗と言ってくれるのか。


 人は、ふふ、とたのしげな音を零す。

 そうして一つ息を吐き、ぽつんと答えた。


「――君の“帰りたい”って声が聞こえた。それだけだよ」


 ……そう、か。

 それで、おれは助けられたのか。


 人は、艾草ヨモギの匂いがする水で羽の傷を洗い、そこにヌトリとした獣脂らしきものを塗る。

 幾らか鈍くなったが、それでもまだ強い痛みに、せり上がってきた悲鳴を吐きかけ、ぐ、と飲み込む。

 都度つど、人のぬくい手は、背中をゆっくりと撫でてくれた。


「よく頑張ったね、これでもう大丈夫。また飛べるようになる」


 木切れを添えて羽に巻かれていく樹皮布に、一声、呟きを込めて鳴く。


『……おれは、空に帰れるのか』

「うん。すっかり傷が治って、飛ぶ練習をすれば、必ず」


 おれの音ではない言葉に、確かに人は答えた。


 今まで痛みや恐怖で気付かなかった。なぜ、この人間はおれの言葉に答えられる?

 恐る恐る、問うた。


『お前は、おれの言葉が何故分かる?』

「私は子供の頃から心あるものの声が聞こえるんだ。このあたりには、昔から時々こういう人間が現れる」

『そうか。そんな人間もおるのか』


 人は、それには答えなかった。


「――さあ、できた。あとはゆっくり休めばすぐに良くなるよ」


 目が、緩やかな弧を描いて細められる。

 

 羽に巻いた布の端を解けぬように結んで、人はおれを膝の上から藁を敷いた箱の中に降ろした。


 温くやわい感触から離されたことを、残念に思った。

 いつだったかの……ねぐらと親鳥の温さ、あの匂いを、鼻のどこかに感じた気が、する。


 *



 両の羽が風を掴む。

 身体が大地を離れ、ぐん、と上昇する。

 眼前には透くような青だけが広がり、ごうと鳴る風のうなりもおれを高揚させた。


 戻ってきた。

 もう、戻れぬと諦めた空に。


 ばさりと羽ばたけば、この身はどこへでも行ける。

 おれを縛るものは、なにもない。

 天を往く力を、取り戻したのだ。


 の人の手篤てあつい治療の甲斐あって、おれの羽に空いた穴は風花かざはなが舞い始める頃には塞がった。

 傷んだ羽根がすっかり生え変わったのは、それから100程も朝日が昇るのを数えた頃だ。

 枯れ果てていた大地に緑が顔を覗かせ始めると、おれの羽も風を捉える方法を思い出した。


 そうして再び、おれは空に住まうものとなったが、けれどおれには、もう一つ居場所ができた。


 薄暗く、狭く、空も見えないが、雨風からは身を守ることができる場所。

 おれを助けた彼の人が住む小屋だ。


「ハヤテ!」


 彼の人のおれを呼ぶ声があり、応えて一鳴きする。

 決して大きな声ではない。

 だが、傷が癒えてからの風を再び掴む術を学ぶ間、何時いかほどに高く飛ぼうとも、この声は必ずおれに届いた。

 それがくすぐったくも快く、愉しかった。


 声のする方向へ、ぐるりと首を巡らせる。


 田畑が広がるなだらかな丘陵に、細く幾筋もの川がまだ弱くも穏やかな陽光をキラキラと遊ばせながら下っていく。

 そのうちの一筋の程近くに、彼の人の住まう小屋が見えた。

 地に引かれるよりも早く。

 一息に地上まで近付けば、小屋の前に立つ彼の人の姿もよく見えてくる。


 彼の人が楽しげに、もう一度「ハヤテ!」と呼び、右の手をこちらに向けて振った。


 ……人が顔の肉を動かして作ってみせる表情というものは、やはりおれにはまだ、今ひとつわからない。だが、声に乗る感情で人の喜ぶはわかるものだ。

 決して悪い気は、しなかった。


「おかえり、ハヤテ。高く飛ぶと、いいにおいがするね」

『におい?』


 奇妙なことを言われて首をかしぐおれに、彼の人は頷いた。


「胸がすくような心地好いにおいだ」


 そうして天を見上げて呟く。「きっとこれは、空の風のにおいなんだろうね」と。

 おれは彼の人の肩に留まり、同じく空を見上げた。



 空に戻ってからも、こうしておれは彼の人のそばにあるようになった。

 恩を感じたというのもあるが、なにより彼の人の傍は心地よい。

 けれど、それだけではなかった。


 彼の人は、他の人間どもとは異質だ。


 本人はなにも語らぬが、しばらく共に過ごすうち、周りの人間どもがこちらを遠巻きにして話すことを聞いて理解した。

 彼の人は「あれ」とか「それ」と呼ばれ、名は呼ばれぬ。


 人間どもは、彼の人を『サイノモノ』と言った。


 サイノモノは災い多きこの土地に、古来より時折あらわれるもので、常ならざる力を持つという。

 土地の穢れを引き寄せ、その身に取り込むのだとも。

 だが、サイノモノに触れれば、その穢れが「我が身に移る」と人間どもは信じている。


 人も鳥も、異質を畏れるは変わらぬのだろう。

 畏れられる異質同士、そばにあるも悪くない。


 そうして共に過ごすうちに、彼の人はおれにハヤテと名を付けた。だが、おれが幾度名を訊ねようとも、彼の人はかたくなに答えなかった。

「穢れた私を表す音も、口にすれば穢れてしまうから。だからなおのこと、ハヤテには言えない」と。


 病にかかるだの怪我をするだのと噂も聞きはしたが。

 ――名を口にすれば穢れが移る?

 馬鹿な。

 まったく、ただの一音にどれほど強い力があるというのか。

 現に、おれは彼の人に触れても何事もないではないか。


 けれども、渾名あだなも拒んだ彼の人はうつむく。

 『個を表す音は、個そのものと同質だ』と。

 彼の人も穢れを畏れているのだと、ようやくおれは理解した。


 小屋の前に立つ彼の人の肩から、田畑の向こうにある小さな村落を眺める。多少距離はあれど、人の姿が見える程度には近い場所に、彼の人は住まう。


 サイノモノは恐らく、人間どもには益のあるもの、なのだろう。

 そして彼の人も、それを承知している。

 彼の人が、この土地で無事に生きてきたことが、その証明だ。

 だがその穏やかで物静かな佇まいには、寂しさも感じた。

 だからおれは、彼の人と、ずっと共にあろうと思った。


 芽吹きに沸き立つなだらかな丘陵を、湿り気を帯びた強い風が、ざあ、と吹き抜けた。



 *



 おれが彼の人に助けられたのは、神の衣が鮮やかな色に染まる頃だ。

 それから、白の季節、花の季節、緑の季節が一つずつ過ぎた。


 この年は緑の頃から酷い雨が続き、本来なら炎天の季節ともいう時期に気温が上がらず、田や畑の作物が殆ど育たなかった。

 その上、度々の大風おおかぜで集落近くの川が氾濫はんらんし、田畑や橋、そして幾人もの人が濁流に消えた。


 人間どもは、どんよりとして雲垂れ込める空を見上げては眉間に深く皺を刻みつけ、湿った溜め息を吐く。

 口に上るは、かつて大翼で禍火かひを煽り、大地を灰燼かいじんと化した罪により、空から落とされたとされる神の名。


 『災の神サイノカミ』。


 鴇色の大翼をがれた神には天に戻る術もなく、身を焼く怒りと嘆きのあまり、この地に大火や山津波、なゐ地震など、多くの災いをもたらすようになったという。

 人間どもはおれを見れば噂し合った。


 ――この風雨は、災の神様のお嘆きだ。一体、我らが何をした?

 ――菜も芋も蕪も育っておらん。このままでは皆、飢える!

 ――おお、不吉だ。「あれ」の家にカラスが居着いた。あれは災の神様の使いであろうよ。

 ――近く、寄合があるというぞ

 ――あれもカラスも、ああ、おそろしい! 名主様はなぜまだ「あれ」を村に置く?


 ――此度こそは「あれ」に役を果たしてもらわねばならぬ。災の神様もきっと御心を鎮めてくださる。


 ……たかが噂、おれなど奴らにすれば見分けも付かぬ烏の一羽にすぎぬ。気にはすまい。

 だがその不穏な話は、腹の底を撫でられるようにゾワゾワと落ち着かなかった。

 優しき彼の人の身に、何か取り返しの付かぬものが迫っているように感じたのだ。



 ある日の黄昏たそがれ時。

 鬱々うつうつと降りしきる雨音に混じり、ぐしゃりぐしゃりと泥濘ぬかるみを踏みしめる、幾人分もの足音が聞こえた。集落の方から、この小屋に向かってくる。

 その不気味な気配に彼の人は、おれに「急いではりの裏へ隠れ、そこから動かぬように」と言った。


 程なく、どんどんと戸板が叩かれた。

 梁からのぞき見れば、そこには泥に汚れる雨具を着けた集落の者らが立っており、その先頭にあった者が、話があると彼の人に告げる。

 彼の人は一瞬動きを止め、目を見開いた。

 そして何も言わぬまま小さく頷くと、彼らを狭い小屋に上げた。

 集落の者らのどんよりと重く濁る気配と、ムンとした人いきれに息が詰まる。丸めた背中が彼の人を囲み並ぶ様は、異様であった。


 彼の人の正面に座る中心人物らしき者が、錆び付いたようなしわがれ声で切り出す。


「災の神様のお嘆きを、『災の者サイノモノ』であるおまえは気付いておろう」

「はい。災の神様は空が汚されることを嘆いておいでです」

「空?」

「空に棲まうものを、多く在村鉄砲で落としているでしょう」


 彼の人の答えに、集落の者たちがザワリと殺気立つ。

 領主様から御拝借ごはいしゃくした預鉄砲あずかりてっぽうで鳥や獣を撃つは、田畑のために必要である、と。

 撃たねば只でさえ実りの悪い作物を守れぬ、と。

 湧き上がる怒号、絶叫、土間を殴る音。子らに飢えろというのか、とすすり泣く声。


 人間にしてみれば、それは正しかろう。

 だが災の神は、その人の勝手に嘆いている。

 彼の人に訴えるなど、なんの意味があるのだ。


 「領主様は許そうと、『災の神』様はそれを良しとされぬのです」と彼の人はピシリと答えた。

 シン、と水を打ったように静まる小屋に、耳に障る嗄れ声は泥濘でいねいのように広がる。


「しかし、我らとて食わねばならぬ。わずかばかりの実りをれてやるわけにはいかぬのだ」

「そう、ですね」


 すっと目を伏せ、彼の人は静かに頷いた。

 刹那、雨音が遠のくように感じた。


「名主様。私をこれまでここに置いてくださったこと、感謝しております」


 名主と呼ばれた者がビクリと身を震わせた。

 そして僅かな間ののち、ゆっくり両手を前に突くと、彼の人に向かって深々と頭を下げる。

 誰かが呻く。空気がザワリと揺れる。

 畏れか、憎しみか、あるいは安堵だろうか。

 集落の者たちは、握りしめた拳を前に揃え、ひとり、またひとりと名主に倣った。


 全身の血が沸騰する。

 ――奴らの彼の人への願いは、これか!


 なんと、勝手な……。

 なんと身勝手な!


 狭い小屋の中で、湧き立つ衣擦きぬずれのザザという音と共に、ひしめく背中が敷物のようになった。

 彼の人が黒い沼に飲まれるように見え、身体の羽毛がゾワリと逆立つ。

 名主はゆっくりと顔を上げると、彼の人と真正面に向き合った。


「本当に……すまぬ……」


 顔は急激に年老いたように見え、その声は更に枯れて雨音に隠れるほどに細くなった。

 彼の人は、また静かに頷く。

 雨音が息を詰めるようにハタリと止んだ。


「明日、私は災の神様の元へ参ります。皆様にはどうかご準備を願います」

「……たまわった」


 再び戻って来た雨音にかき消えぬよう、精一杯に背を伸ばし声を張った名主の、乾いて血の気の失せた唇はわなわなと震えていた。


「村のためとはいえ……おまえ一人にこのような役を背負わせるを、儂は本当に申し訳なく思うておる」

「いいえ。名主様は私によくしてくださいました。やっとこの私も、名主様のお役に立てる時が来たと喜んでおります」


 彼の人はただ穏やかに答える。

 その声はどこまでも曇りなく、遠く透く空のようだった。

 そんな者共のために、なぜだ。

 なぜに、そんな様子でいられる?


 視線を集落の者に向けると、その様子はさまざまであった。

 床を見つめたまま身動きせぬもの、子を想うてか目元を拭うもの、青ざめガクガクと震えるもの、目を見開き、彼の人を睨むもの。口の端を吊り上げるものもあった。

 見覚えのある者もある。

 おれに向けて、石を投げた男がいる。

 彼の人に「人の心を盗み見る」だの「穀潰ごくつぶし」だのと吐いた者も幾つか。


 この期に及んでまだ彼の人を憎むか。

 その怒りは畏れ故か、おぞましくも哀れな、心か弱き者どもよ。

 いずれ彼の人に頼らねばならぬと知りながら。その寛容に生かされると知りながら。

 ああ、己が身をこそ穢れと思わぬのか。

 おれには、奴らが、歪み醜き化け物にしか見えぬ。


 名主は、震える声で「明日、迎えに来る」と言うと、ノロノロと立ち上がる。そして幾人かの集落の者に支えられながら、一際強くなった雨の中を引き上げていった。


「ハヤテ、ごめんね。もう大丈夫」


 人間どもが去ると、彼の人は梁の裏のおれに声をかけた。

 ようやく人と泥の臭気が薄らいだ部屋に降りると、彼の人はおれの背を撫でる。


『なにを謝る。人など飽きるほど見ておるぞ』

「ふふ、そうだよね」


 彼の人はゆっくりと頷き、そしておれに告げた。


「ハヤテ。私は明日、災の神様のところに行くよ」


 それは抜けるような天の青を思わせる、胸が痛くなるほどに晴れやかな声だった。


 嘘であって欲しかった。

 そこに行けば死ぬのだぞ? なのに何故だ。

 何故、あんな者たちのためにお前が行かねばならぬのか。


『――それは、お前が望むことか』

「それが災の者である私の、存在する意味で、……望みでもある。だからずっと、行けるならいつでも行きたいと思っていた」


 彼の人の声は、まるで晴天の驟雨しゅううのように、高揚しているようで諦めのようでもあった。

 奇妙な感情に、ますます訳が分からなくなる。

 だが、彼の人はポツリと零した。


「けど……今は、もう少しだけここにいたいな、と思うよ」


 そうしておれの背を撫で、「ハヤテが、いてくれたからね」と、宵闇のような瞳を微かに揺らし、呟いた。


 このおれが、……か?

 ……そうか。そう、だったか。



 ――それは、かった。



 この土地にある、『災の神サイノカミ』。

 彼の人は『災の者』、つまりは災の神への供物だ。

 災の者は土地に溜まる穢れを祓って災の神の元へと至り、かの神を慰めるのだという。

 おれは、彼の人を慰めることが、できたのだろうか。


「さあ、それじゃ夕餉ゆうげにしようか」


 集落の者たちが帰った後、気付けば置いてあった籠の中には、今は貴重であろう肉や菜、芋が納められていた。これは奴らの僅かばかりの良心か、それとも餞別せんべつであろうか。

 集落の習いなのだろうが、釈然としなかった。


『……お前、生きたいんじゃないのか』


 おれの言葉に、彼の人は小さく首を傾げ、微笑んで見せた。

 それはどんな意味だったのか。

 結局おれにはわからず終いだ。



 翌日。


 長く空を隠した重く淀む雲は去り、天は染み入るように深い青であった。


 彼の人は、昼を跨ぐ頃に迎えに来た人間どもに連れて行かれ、それきり帰ってこなかった。


 家を出るときの彼の人は、神の衣に似た鮮やかな紅の装束を纏い、烏の濡れ羽色とも呼ばれよう艶やかな黒髪を背に流していた。

 それは、このおれにも分かるほどに美しかった。


ハヤテ


 彼の人がおれの名を、呼ぶ。


 その呼びかけに、おれは名を呼び返すことができなかった。

 かわりに、誓う。


 その姿を。

 その声を。

 その手の温かさを。


『おれは、お前を決して忘れぬ』

「うん。――ありがとう」


 颯々と吹く風に、鳥の羽のように黒髪が舞った。


 抜けるような青空と、その衣の色と同じに色づき始めた山々を背景に、彼の人は心地良さそうに大きく胸を広げる。

 そして晴れやかに笑ったのだ。

 その表情は、おれにもはっきりと理解できた。


 彼の人は、自由になる。

 己が生きた理由、その役目を果たせるのだと信じる、純粋な、だが歪んだ幸福感。


 あるいは思い上がりだろうか。

 最後の一年、ハヤテと過ごせてよかった、と。

 そう言われたようにも、思えたのだ。





 ***





 焼き芋屋の車が来ているから、と妖怪猫クーに誘われ公園に出かける。

 公園中央にある池の周りを、ぐるりと覆い被さるように枝を広げる木々の葉は、赤や黄色の艶やかさを纏っていた。

 公園の中を満たす香りの発生源で芋を買い、池のほとりに置かれたベンチに並んで腰掛けた人の姿のおれとクーは、焼き芋とペットボトルの緑茶を手に、木立をさわさわと揺らす心地よい秋風に吹かれている。

 クーは時折涙目になりながら、緑茶をすすり、ウマウマと焼き立ての芋を頬張っている。

 猫舌を忘れる程に、妖怪猫も焼き芋は美味いらしい。


 その妖怪猫が、ここに来るなり芋を抱きかかえたまま語りだしたのは、『サイノカミ』の昔話だった。


「にゃんでも、どっかの地方には『サイノカミ』っていう黒髪の神様がいるんだって。それはそれは美しい神様で、でっかい翼で風を起こして穢れを祓い、村をいろんにゃ災いから守ってるんだって。その辺りじゃ、今も紅葉を『サイノカミ』の衣替えっていうんだってさ」


 目の前に広がる公園の紅葉に、たまたま思い出しただけだったのだろう。サイノカミの伝承を。


 ザァと吹き抜ける風に、枝から離れた幾枚かの赤が目の前を過った。

 ――神の衣が、舞う。


ハヤテ


 声が聞こえた。

 透くような、晴れやかな笑みが見えた。

 艶やかな赤の衣を纏う、鴇色の大翼ある彼の人の姿が、……ほんの一瞬ではあったが、確かにあった。


 おれは。

 今も、忘れてはおらぬよ。


 そうして、まるでせきを切ったように。

 おれは妖怪猫を相手に、誰にも語ったことのなかった昔話を一息に語った。


 肺腑の空気がすべて抜けたように身体から力が抜け、無意識のうちに空を見上げる。

 あの日の空と同じ、落ちていきそうなほどに深い青が、紅葉の向こうに広がっている。

 普段のぼんやりとした顔をさらに呆けさせたクーも、おれと同じように空を見上げていた。

 気が付けば手の中にあった、焼き芋の熱さも感じなかった。


「人に歴史あり、妖怪烏にも歴史ありだにゃあ。今までそんな話きいたことにゃかったけど……どうしたの」

「ぬしの話で、急に思い出したのでな。……なに、供養のようなものだ」

「ふぅん」


 あの地では、その後不思議と大きな災いは起こらなくなった。それゆえか『サイノカミ』という名は、後に『幸ノ神』と書かれるようになった。

 捧げられた名もなきにえが災の神を慰めたのだと、集落の人間たちの間には伝えられている。


「ハヤテのその姿、気に入った人のものだって随分前に聞いたけど」

「気に入った人間の姿なのは間違いない」


 妖怪猫は暫し黙る。

 手元に残っていた芋を全て口に押し込んでゴクリとやったあと、残り僅かだったペットボトルの緑茶を一気に流し込んだ。

 ようやく口の中がからになると、ふう、と小さく息を吐き、それからポソリと呟く。


「名前の代わりに覚えてるんだにゃ」

「……そうだな」

「俺も、アイツの姿を借りることにするか」

「それもよかろうよ。なあ、クーよ」


 ひらり、ひらりと。

 人の形をしたおれの掌に、サイノカミの衣が、一枚。

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紅葉と烏 ときの @TokinoEi

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