『ゆめうつつ』

『雪』

『ゆめうつつ』

 仕事というのはどれだけ高尚な理念や信念を掲げたとしても、つまるところ『生きる為に必要なお金稼ぐ手段』という事でしかない。

 それが本人の希望に沿おうが沿うまいがそんな事はどうだっていい。この世界で文化的な生活を営むにあたってはお金は密に関わっているが故に、人々はどんな形であれ働くという事を選択するのだろう。




 口座アプリを確認して今月の収入を確認する。相も変わらず、雀の涙程度のお給料しか貰えていないけれど、こればっかりは仕方が無い。これが現在の実力、そして私という人間が浅はかにも選んでしまった仕事なのだ。ステッカーがベタベタと貼られた年季の入ったギターケースを背負い直し、私は先に出ていったメンバー達に倣うようにして、レンタルスタジオから帰路に着く。

 電車に揺られ辿り着いた最寄り駅から徒歩十分ちょっと歩けば見えてくるのは、コンクリートを打ちっぱなしにした無骨な外観。デザインマンションと言い張るにはあまりもセンスが無さ過ぎる重厚な威圧感を放つ防音マンションが現在の私達の住処である。 

 エントランスを通り、一機しかない古めかしいエレベーターに乗り込む。三階のボタンをタップしてすぐ、全身を押し付けられるような感覚に思わず顔を顰め、次に扉が開くのその時をじっと待つ。到着を知らせるアナウンスを聞き流し、エレベーターの扉が開くと同時に降りて、狭い渡り廊下を速足で歩く。

 渡り廊下の最も奥、非常階段から最も近い部屋のドアに鍵を差し込んで回す。滑り込むように玄関へと入ると、後ろ手に鍵を掛けて安物のスニーカーを脱いで壁際に揃える。そのまま洗面所に向かい、手洗いとうがいを済ませてから明かりの漏れるリビングへ。

 ただいま、と扉を開けばリビングの端、パーテーションで区切られたスペースから同居人が顔を覗かせる。濡羽色と表現するに相応しい艶のある黒髪を長めに伸ばし、野暮ったい黒縁眼鏡とヘアピンで目元に掛からないように止めている。長髪から覗く顔立ちは幼げで、実年齢より幾分か若く見える。


「おかえり、早かったね。こっちはもうちょっとだけ仕事があるからゆっくりしてて」


 彼はにこやかにそう告げると、再びパーテーションの奥に引っ込んでしまう。カチカチ、カタカタとキーボードとマウスが忙しなく動く音を聞きながら、真っ白な壁紙に掛けられた時計を確認する。もうすぐ時刻は六時を示そうとしていた。ゆっくりしてとは言われたが、晩ご飯の支度をするには丁度良いぐらいの時間だろう。

 そうと決まればリビングの一角に鎮座するギターラックにギターを置き、鞄もそのすぐ側に立て掛ける踵を返してとキッチンへ向かう。

 お米をさっと洗い、炊飯器へ投入。冷蔵庫の中身を確認して期限の近いものを並べる。使わなければならない具材でレパートリーから作れそうな料理をピックアップし、調理に取り掛かる。

 一人暮らしを始めて十年近くになるが、真っ当に自炊していたのは最初の頃と最近、彼と同棲を始めてからだ。最も基本的には彼の自炊の手伝いという形が多く、こうして一人で料理をするのは月に数回あるかないかくらいなものだが。

 コンソメ顆粒を溶かし、薄切りのベーコンを浮かせただけのお手軽スープと、炊き上げたお米と余り野菜で作ったケチャップライスの上に卵の膜を乗せたなっちゃってオムライス。カット野菜も使ってしまいたいとの事だったので、そのままサラダとして採用することにした。


「定・時・退・社! 本日はノー残業デー!」


 パーテーションの奥から明るい彼の声が聞こえる。私が覚えている限りノー残業デーでは無い日がなかったような気もするけれど、それで仕事が間に合っているなら何の問題も無いのだろう。

 手伝いに来ました、とキッチンにやってきた彼に料理を手渡し、配膳するようにお願いすると心良く引き受けてくれる。簡単にキッチンを片付けて、夕食を共にする。久しぶりの自作料理の味に関してはまぁ良くも悪くも家の味だなという感想を抱いたのだが、一方で彼は手放しでべた褒めしてくるので、無邪気な賞賛が少しばかり居心地の悪さを覚えた。

 後片付けは彼がやってくれるということだったので、お言葉に甘えてリビングのソファーで少しだけギターを触る事にする。チューニングとクロマチックトレーニングと呼ばれる指の基本動作トレーニングを行い、現在練習中の新曲のソロパートを通しで弾いてみる。

 私が所属しているバンドにしては珍しいローテンポなバラード系の曲調で、曲自体にそこまでの難易度は求められないものの普段とはかなり毛色が違う為か音のバランスが難しい。何度か流しながら噛み合う音を探して、ピックを用いて弦を弾く。


「新しい曲の練習?」


洗い物は終わったらしく、彼はそんな風に声を掛けてくる。


「そうだよ、あんまり難しくは無いけど。納得いくまでは練習したくて」


「ツカサさんは偉いですねぇ」


彼の大きな手が伸びて私の頭に触れる。そのまま、髪を解くような優しさでゆっくりと頭を撫でる。


「うーん、偉いかは分からないですけど……」


「僕は常日頃からお給料以上の仕事は絶対にしたく無いと思ってますし、残業なんてもっての他です。ツカサさんみたいに仕事に対して真摯に向き合えるのは偉い事だと思いますよ」


 屈託のない笑みでそう告げられると、だと良いんですけどね、なんてとてもではないが言えそうにはなくて、私は再び練習に戻る。

 私がこうして、好きな事を無理のない形で仕事に出来ているのは彼の理解があるという事が何より大きい。アルバイト程度のお金しか稼げないのに、しっかりとした防音性の高いマンションを借りて、炊事洗濯などの家事の半分以上を彼が負担してくれているからだ。

 お金にしたって私は自分の稼ぎの殆どを音楽や楽器に回している。無論、最初に話し合って決めた最低限の金額は納めているが全体の生活費で見れば焼け石に水程度のお金しか払ってはいない。

 先の会話でも告げていたように彼は数あった内定の中から現在の仕事を選んだが、それはお金を稼ぐ手段としてであり、それ以外は何も考慮していなかったと言う。業界自体も始めて、パソコンのプログラミングどころか何をするのかすら分からなかったらしい。まぁ、それでも在宅勤務が認められているどころか、人並み以上の給料を貰えるに至るまで成長しているので凄い話だが。

 それに比べ、私はと言えば高校からの夢の延長でこんな所まで来てしまった。先立つものも無く、今を生きる為にアルバイトと並行してまで、未だ夢を追い続けている。好きなことを仕事にする、その意味も覚悟も私にはきっと在りはしない。好いてくれる恋人に甘え、いつか夢から覚めるその時まで私はきっとこのままなのだろう。


 皿洗いの後に溜めてくれていたお風呂に彼と一緒に入り、いつもより少し早いけれど私達は床に就いた。

 殆ど明かりの無い室内で、何となくまだ眠たくなくてお互いの指を絡めたり、少し抱き着いてみたりと、恋人同士の軽いスキンシップを楽しむ。

 弦楽器はその特性上、指先が常人のソレと比較にならない程固くなる。ギターで考えるなら金属の振動する弦を指でずっと抑えつけているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、普通の女の子らしくもないこの可愛げの無い指先が彼のお好みらしい。

 私自身、あまり彼の事とやかく言えた立場では無いけれど、彼の趣味は少しばかり変わっているように思う。その変わった趣味のお陰で今の私があるのだと思うと、感謝するべきか、それとも同情するべきか。

 少しずつ私達の意識は微睡み、やがて深い闇に落ちていく。意識が途切れる直前、私の耳元で囁かれる愛の言葉。それに答えるように私もその言葉を口にして、今度こそ私達の意識は途絶えた。

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『ゆめうつつ』 『雪』 @snow_03

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