ご近所さん

霜月透子

台所にて

 まぁまぁ、そこに座ってよ。席なんかどこでもいいわよ、どうせ私しかいないんだから。このテーブルの席が四つとも埋まっていた時があったなんて信じられないわ。


 ええ、そうよ。娘と息子。


 さあねぇ、今はどうしてるんだか。娘は時々電話をかけてくるけど、そんだけ。息子なんてもう何年も会ってないわ。何の連絡もないから元気なんじゃないの?


 ううん、いいのよ。ほら、私もこの通り元気だし。あれはダメだの、これはダメだの言われる方がうっとおしいわ。連絡なくて清々するくらいよ。


 あら、違うわ。強がりなんかじゃないのよ。そりゃあねぇ、みんな娘は言うことが厳しいけど、息子の方が優しいから可愛いなんていうけどねぇ。私にとっては娘も息子もおんなじだわね。元気ならそれでいいのよ。きっとあっちもそう思っているんでしょ。お互いに放任主義なのよ。楽でいいわよ、楽で。


 普通のお茶でいい? ほうじ茶もあるわよ。紅茶も……あったと思うけど、いつのだかわからないわ。それでもよければ。


 ――そう? じゃあ普通のお茶にするわね。


 うん。緑茶? 番茶っていうのかしら? 安いお茶だからあまり味がしないのよ。どうせ私しか飲まないからちょっと色と香りがあればそれでいいかと思って。


 そうなのよ~。お客さんなんて久しぶりなの。よく来てくれたわね。水墨画のお教室以来かしら。あれっていつだったかしらね。


 え? 五年前? もうそんなになる? いやぁね、年とると時間の感覚がわからなくなるわ。


 またまた、そんな。あなたはまだお若いでしょう? 七十しちじゅうなんて若いわよ。私はもう八十よ。棺箱がんばこに片足突っ込んでるんだから。


 あら。お世辞でも嬉しいわ。でもそうね。同年代の人達と比べたら元気な方だわね。特に通っている病院もないし。


 薬? なにも飲んでないわよ? 


 ああ、そうよねぇ。みんな随分たくさんの薬を飲んでいるわよね。あれじゃあ薬でおなかいっぱいになっちゃうわよねぇ。


 さあ。なにが元気の秘訣なのかしら。自分じゃあわからないわ。でもほら、顔だって手だってこんなシミだらけでいやんなっちゃう。そりゃあねぇ、歳だからしょうがないっていえばしょうがないんだけど。でも気になるんだもの。


 ん? 手? この手がきれいだって言うの? 皺だらけじゃない。


 そう? 艶がある? それならきっと、あれだわ。糠漬け。毎日掻き回しているから。


 ええ、漬けているわよ。食べる? あなた入れ歯じゃないわよね? 前に近藤さんに勧めたら、入れ歯に挟まって痛いって言ってたから。


 そう、そうなのよ。先月だったかしらね、いなくなっちゃったのよ。


 やだ、違うのよ、亡くなったわけじゃないの。徘徊っていうの? あれなんじゃないかしら。出掛けたきり帰ってこなかったんですって。


 そうそう、金子さんもよ。福島さんも秋川さんも。


 うん、そう。みんな行方不明なの。


 違う違う。亡くなったんじゃないって。だって私、誰のお葬式も出ていないもの。みんな足腰は丈夫だったから、自分で歩いて行けちゃうのよね。


 え? なに? 薬飲み忘れてた? 持ってるの? じゃあ飲んじゃいなさいよ。はい、お水。水道のお水よ。お水なんて蛇口をひねれば出てくるのに、わざわざ買うなんてもったいない。それに重いじゃない? 


 あら、最近は届けてくれるの? でもそれ、あの、ぱそこん? すまほ? ああいうのが使えなきゃダメなんじゃないの? 


 ううん、いいわよ、そんなのできなくったって。


 ――飲んだ? お水足りた? 


 ――ん? そう? ああ、鉄くさいのはあれじゃない? ほら、うち古いから、水道管がプラスチックみたいなのじゃなくて金属なのよ。だからきっと鉄くさいのね。


 え? 赤っぽい? 錆が出ているのかしら? 毎朝、使い始めがそんな感じなんだけど、まだ臭う? うーん、私にはわからないわね。慣れちゃったのかしら。


 あ、そうそう。それで糠漬け。ここのね、床下収納に入れているのよ。ほら、梅干しの壺もあるでしょう。あ、梅干しも食べる? 


 そんなこと言わずにちょっと食べてみなさいよ。


 え~? 食紅なんか使ってないわよ。赤紫蘇の色でしょ。


 赤すぎる? そんなことないと思うけど。やだ。そんなものの色に譬えないでよ、食べにくくなるじゃないの。ほら、この小皿に出しておくから。お茶請けにでもしてよ。


 やっぱり赤い? そうかしら? そんなに嫌なら食べなくてもいいわよ。


 糠漬けはどうする? 


 あら、これなんだったかしらね? 大根……ではないし。いつ漬けたかしら。随分しなびてるわ。たくあんみたい。漬けてあるんだから変なものではないと思うけど、食べてみる?


 遠慮しなくていいのに。


 あ、そう? 梅干しだけでいいのね。だったらこれはまた糠床に戻しておくわ。


 あっ……。


 いいのよ、いいのよ。梅干しの種の一個や二個落としたって構わないわ。でもうまい具合に床穴に落ちたわね。


 平気よぉ。別に腐ったりしないでしょ。今までにもいろいろ落としているし。


 ええ、そうよ。昔から開いているの。節穴ってやつね。安い板を使っているのよ、ケチ臭いわよね。家の床なんだから、いい板を使えばいいのに。でも昔の家なんてそんなものなのかしら。


 あら、本当に気にしないでいいのよ。落ちたものは取れないわ。


 白いもの? 穴から見えるの? あなた、目がいいのね。それ、きっと歯だわ。


 やだ、怖いものじゃないわよ。娘と息子の乳歯。覚えてない? 昔は子供の歯が抜けると、下の歯は屋根の上に投げて、上の歯は縁の下に、って言ったじゃない。うちは上の歯が抜けるとこの節穴から床下に落としていたのよ。


 歯より大きそう? 骨みたい? その小さな穴からそんなによく見えるわけないじゃない。気のせいじゃないの? いやね、そんな床に這いつくばって。子供みたいよ。


 あー、はいはい。じゃあ鼠かなにかの骨なんじゃないの? 


 やだ、どうしたの? 急に帰るだなんて。いいじゃない、もう少しゆっくりしていきなさいよ。


 本当はね、私も寂しいのよ。一人でいるとね、こう、隙間風が吹くようなかんじがするのよ。娘や息子が離れていて清々するなんて見栄張っちゃったわ。おじいさんもいなくなってもうすぐ十年だし、やっぱり寂しいわよ。

 だからね、ご近所さんとは仲良くしたかったの。近藤さんや金子さんや福島さんや秋川さん……。よく遊びに来てくれたわ。ずっと一緒にいられたら寂しくないのにって思ったものよ。あなたといるのも楽しいわ。


 あら。苦しいの? ちょっと、大丈夫? やだわ、どうしたのかしら? 


 救急車? そんな大袈裟なことして、なんでもなかったら笑いものよ。少し休んでいきなさいよ。ほら、あっちの畳の上で横になって。お布団も敷いてあるから。


 ふふ。準備がいいでしょ。年とるとね、こういうこともあるかと思ってね。


 あらやだ。そんなところで寝ちゃったの? 運ぶの大変じゃない。

 でもまあいいわ。


 どうぞゆっくりしていってね。


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