2話目:ある旅行者の死。

 「赤薔薇温泉の秘密を覗こうとは、生かして帰さぬぞ。この産業スパイが……!」


 頭から温泉に浸かっていた作務衣の女は、夥しい赤い液体を頭から滴らせながら恨み言を放つ。乱れた髪が顔の前に張り付き、さながら生霊だ。

 そして私の手首を掴んだまま、おぞましい形相で私を睨むのだ。この切れ長の眼力には覚えがある。下調べの時に出てきた旅館長に間違いなかった。

 

 作務衣の旅館長は空いている方の手で桶を拾い上げると、強く握り締めた。


 「なに、少し忘れてもらうだけだ。あとは地域ぐるみで傷跡一つ残さず処分してやろう」


 桶で撲殺する気だと言うのに、どうやって痕を残さないつもりなのだろう。ろくな死に方は選べそうに無い。というか最悪すぎる地域ぐるみだ。この集落全体暗殺者なのだろうか。


 「く、来るな!この吸血鬼が!」


 叫びながら腕を振りまわすと、私の腕はするりと抜けた。薔薇色の湯のおかげだろうか。深くは考えずに一歩下がる。この女の力は強い。次掴まれたらきっと殺されてしまうだろう。正直言って腕に滴るドロドロした液体を洗い流したいが、背に腹はかえられない。このまま服だけ持って逃げるしか道は無い。


 「くそっ、なんでこんな所に旅行に来てしまったんだ!」


 私が捨て台詞を吐いてその場から逃げようとした時だ。


 「待って、まさか貴女……産業スパイじゃない……?」


 そう呼び止められた。

 振り返ると、赤い湯の中で館長が呆然と立ち尽くしている。

 どういうことだ?こいつは人間を殺して湯に血を混ぜて、赤薔薇風呂などと言っていたんじゃないのか?


 「ああ、私は『春光』の間に泊まりに来た旅行者だぞ吸血鬼。まさかお前が人殺しも辞さない女だったとは、まんまと騙されたわ」


 混乱しつつそう言うと、女は風呂からざばざばと上がり、流れるような速さで土下座した。石床に頭をぶつけんばかりの勢いだ。


 「お、お願いします!入浴剤を入れていたことだけは誰にも言わないでください!」


 桶も投げ捨ててそんなことを言うのだ。私は少し呆気にとられた。よく見ると、女が持っていた桶には赤い粉がまだ幾らか残っているのが見えた。私が見たのは、女が足を滑らせて入浴剤とともに温泉に浸かった瞬間だったのか。


 「つまり、この湯の赤薔薇色は、血でも温泉でもないのか?」


 「無論です。10年前に温泉は枯れ果て、それを隠蔽しつつ騙し騙し経営を続けておりました」


 「文字通り騙すことがあるか、不届き者」


 途端に肩の力が抜けた。私が抱いた温泉旅館への期待も、不穏さも、全ては幻想に過ぎなかったのだ。


 「はぁ、ほとほと呆れたわ。帰らせてもらおう」


 私がそう言って踵を返すと、女は裸の私の足にしがみついてきた。


 「お願いします。入浴剤を入れていることを絶対に口外しないでください。先祖代々受け継いできた温泉だったのです!私で絶やす訳にはいかなかった!」


 「ええい今更何を言うか。銭湯としてやり直すならまだしも、粉を溶かした湯を温泉と宣うなど恥を知れ。社会的制裁をふんだんに受けろ」


 「でしたら今日だけでも一芝居打っていただけませんか?来ているお客様をこんな湯に入れる訳にはいきません!」


 館長は頭を床にこすり付けた。もはや恥も外聞もないらしい。


 「保身のために私に嘘をつけだと?馬鹿も休み休み言え!」


 「どうかお許しを、お客様のお代は私の懐から出させていただきます!」


 「その程度で許される訳がなかろう!ここに来るまでどのくらいかけたと思っている!」


 「お客様のためにお土産もご用意させていただきます!」


 「もう一声!」


 「行き帰りの交通費も出させていただきます!」


 「よし、乗った!」



 ※



 と、いう経緯があり。


 「ち、血だ!血が出ているじゃないか!」


 私は素っ裸で三文芝居をすることになったのだ。

 

 シチュエーションは、『清掃作業中お湯を張って掃除していたら転倒して湯船で出血した館長と、時間を間違えて入湯し偶然居合わせた旅行客』。


 慌ててやってきた他の客と従業員によってその場は丸く収まり、赤薔薇温泉旅館の真相は湯けむりの中に消えた。 


 行きずりで他の旅行客と話をしたところ、「翌日の宿泊代を半値にする」と、館長が粋な計らいをしたのでもう一泊できると喜んでいた。薔薇色の幻想は未だに消えないらしい。純真に温泉を楽しみにしている彼らがこの後鉄粉混じりの入浴剤に浸かるのだと考えると、少し虚しい。


 しかし、館長の言い分も分からなくもない。あれだけ大層な旅館を構えるのには結局金がいる。従業員を抱え、100年以上続く旅館を終わらせるなど、そうそうできる決断では無い。温泉が枯れたショックで急死した先代を継ぎ、彼女はここまでやってきたのだ。徹底して改築を続けたのも、自ら入浴剤をお湯に入れたのも、妙に強い目力も、全て覚悟の現れだったのだろう。

 彼女の血のにじむような葛藤が、薔薇色の温泉郷を作り出しているのだろう。


 なんて綺麗にまとめてやろうとしたが、私はあのクソ女を当面許せそうにない。

 立派な詐欺にあった訳だし、有名観光地の重大な秘密を知りたくもないのに知ってしまったし、腰と肩の痛みは冷えと揺れで悪化したし。ことごとく私だけが損をしている気がする。

 騙されていた方が、まだ幸せだった。


 「はぁ」


 電車に揺られながら、ため息をつく。手にはお茶と赤薔薇色の温泉まんじゅう。

 

 長居する気になれなかった私は、お代とお土産だけもらってすぐ帰路についたのだ。

 香料のきつい温泉まんじゅう(12個入)を一気に食べるのは、精神的にも肉体的にも厳しい。しかし貰った温泉まんじゅうを、持ち帰る気にもなれなかった。

 どぎつい臭いのまんじゅうをお茶で流し込みながら、代わり映えしない車窓を眺める。


 「とても薔薇色では無いよな」


 遠景に白いハゲ山が寒々としている。部屋で見たそれと形が似ていた。


 薔薇色の幻想を抱く者を旅行者と呼ぶのなら、旅行者としての私はあの温泉で殺されたのだろう。

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赤薔薇温泉殺人事件、死者抜きで しぼりたて柑橘類 @siboritate-kankitsurui

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