赤薔薇温泉殺人事件、死者抜きで

しぼりたて柑橘類

1話目:赤薔薇温泉に浮かぶ者

 「な、なんじゃこりゃああああ!」


 素っ裸の私は、素っ頓狂に叫んだ。


 目の前の露天風呂に、番頭の女がうつ伏せで浮かんでいたのだ。女は微動だにせず、赤い作務衣を着たまま水面に浮かんでいる。口の方から微かに気泡が出ているだけで、身動きひとつしない。


 しかし、それだけでは済まない。

 

 加えて女が浮かんでいる露天風呂が、真っ赤な『薔薇色』に染まっていた。泉質だとか、配管の汚れだとか、生易しい赤さではない。グロテスクなほど鮮やかな真紅の液体が、岩場を模した浴槽を満たしている。

 露天風呂周囲の床面はマットな黒で統一されているが、落ち着いた雰囲気を目に悪い赤がかき乱す。

 何より露天風呂の中心に力無く浮かんだ番頭が、とりわけ存在感を放っていた。辺りには微かに鉄臭い香りも漂っている。

 

 ここまでの物的証拠が揃っていれば、どんなひよっこ探偵でも疑いようが無い。


 「ち、血だ!血が出ているじゃないか!」

 

 目の前に広がるは、まさしく血の池地獄。他に言葉が見つからなかった。


 後方の脱衣場から慌ただしい足音が聞こえてくる。私の叫び声を聞いて、慌てて誰かが向かって来るようだ。

 私は薔薇風呂の中に入って、彼女を引きずり上げた。そして仰向けのまま床に転がして、全身を眺めた。


 季節は冬。このままでは低体温症まっしぐらな寒空である。


 

 ※


 

 東北地方の奥地に、知る人ぞ知る名湯『赤薔薇温泉旅館』はあった。江戸時代から代々続き、今の館長さんで10代目らしい。ネットには、若くも気品漂う女性の顔写真が載っていた。私と同じ歳幅らしいのに、大した眼力だ。


 赤薔薇温泉旅館の名物は、その名を冠する赤い温泉『赤薔薇の湯』。しかし実際にバラの花びらが浮かんでいる訳では無い。温泉に含まれる鉄分によって、赤錆のようなくすんだ赤になるのだとか。そして、結晶化した赤い湯の花がバラに例えられたという具合だ。なんとロマンチックなことだろう!


 その色の珍しさ、名前の話題性、腰痛・肩コリ・冷え性への効き目の強さから、山奥にもかかわらず観光客が多いらしい。


 かくいう私も、そのうちの一人。

 朝夕の寒さが骨身に沁みる頃、赤薔薇温泉旅館を知った。血行がみるみる良くなるとの口コミを目にしたのだ。中々面白そうだと思ったその折、さっさと有給を使えとの上司の言葉が頭を過ぎる。日々肩凝りと腰痛に悩む私は、わざわざ有給を取って1泊2日の弾丸旅行を画策した。


 赤薔薇温泉旅館は私の住んでいるところから、県を2つ超えた先にある。往復の交通費と宿泊費で五渋澤が飛んだが、日頃のデスクワークでこわばった体を労るには必要経費と割り切った。

 加えて人気の宿が一発で予約出来れば自然と浮き足立つというもの。旅立った高額紙幣たちのことなどとうに忘れ、私は浮き足立った。予約したその日、準備全て終えてしまったほどに。旅行自体久しぶりだったこともあり、この一週間の私は使い物にならないほど浮かれていたと思う。

 とにかく、上がり続ける期待感を胸に、悲鳴をあげる肩と腰に鞭打って一週間の労働を乗り切ったのだ。


 しかしボロボロの体を待っていたのは、極楽の温泉の前の移動地獄であった。赤薔薇温泉旅館は山を分け入った奥地に座しており、最寄りの駅からバスで山を一つ越える必要があった。

 移動にのべ5時間かかる上、山道は勾配が強く路面も悪い。

 ただでさえ電車を二本乗り継いだ私の尻は限界に近かったのだが、バスと悪路のダブルパンチによって粉々に破壊された。


 

 とまあ、様々な犠牲はありつつも私は今、その赤薔薇温泉旅館の前に到着した。


 「ここが、『赤薔薇温泉旅館』かぁ」


 しみじみ呟きながら、100メートルほど離れたバス停から旅館を見上げた。

 重々しい瓦に渋い色合いの木目、それに白い壁がよく映える。知識が無いので分からないが、漆喰ってやつだろうか。

 あとでかい。くそでかい。凄まじくでかい。冬の曇天に向かって、鬼瓦がそびえ立っているようだ。正面に生えた松の大木も堂々と天に向かってうねり、雄大さと歴史を示している。

 厳しい門構えに『赤薔薇温泉旅館』の横看板、軒下には大きな提灯が二つ下がっている。行書体の太字で『薔薇』と看板に書いてあるのが一周まわって柔和な感じがあった。


 しばらく荘厳な門構えを眺めていると、浴衣姿の女性がでてきた。柔らかな笑顔を浮かべていたが、心なしか目が鋭い。おもてなしへの心意気がそうさせるのだろうか。


 「ようこそお越しくださいました。お部屋までご案内いたします」


 恭しく一礼した彼女に着いていき、旅館の奥へと進んだ。

 板張りの廊下は側面がガラス張りになっていて、石庭風の中庭に繋がっている。思いのほかきちんと明るい。てっきり老舗旅館と言うくらいなのだから年季が入って然るべきだと思っていたが、どこの板も丹念に磨かれていてささくれのひとつもなかった。なんと手入れが行き届いた良い旅館だろう。


 「綺麗でしょう。今の館長が度々改築と修繕を行ったのですよ」


 内観に見蕩れていると、女将さんはそう教えてくれた。


 「そうだったのですか、かなりお若い方とお見受けしましたが」

 

 「ええ、維持に力を入れているのです。お部屋に到着されればきっと驚かれるでしょう」


 長い廊下をしばらく歩いた先、女将さんは静止して重々しいドアの前に立った。黒く光沢のないドアに無機質なドアノブとカードキーの挿入口が付いていた。急に近代的だ。


 「へぇ、これはカードキーなのですね」


 「はい。当旅館は様々な方がいらっしゃいますが、皆様にご安心してお寛ぎいただくために防犯は入念にしているのです」


 「なるほど。セキュリティは万全と……」


 ますます素晴らしい旅館じゃないか。これは金と時間をかけてやってきた甲斐があったというもの。多くの人が詰めかけるのも納得だ。

 

 「それでは、お客様のお部屋は『春光』の間でございます。ごゆっくりお過ごしください」


 私は女将から『春光』と書かれたカードキーを受け取ると、早速中に入った。

 玄関から部屋まで段差は無く、部屋の中は一面畳張り。白く艶やかに整えられた床面から、畳の青臭い匂いが香る。これは上等な畳なんじゃないだろうか。

 部屋自体も広々としていて、とても一人部屋とは思えない。中央の机にはお茶請け用のお菓子が備え付けられてあった。

 ふと、窓を開けると雪化粧をした山々の姿が見える。暖かい室内で、私が今雪国に来ていたことを思い出させてくれた。

 

 ああ、こんなにいいところならもう一泊予約すればよかった!

 

 しかし、後悔先に立たず。未練があるのなら、後でもう一度くれば良いのだ!広い部屋を一通り見て周り、荷物をまとめ、姿見で確認しながら備え付けの浴衣に着替える。浴衣は暗めのワントーンだが、帯と襟元の赤薔薇色が映える。ただ着ただけなのに結構格好がついた。


 さて、やることも済んで時刻は12時20分だ。昼食は同敷地内の食堂で提供されるが、12時から15時までとかなり提供時間に余裕がある。急いでいく必要も無いだろう。

 私は、机の上にあがった温泉まんじゅうを1つ手に取ってみる。温泉まんじゅうと言えば茶色のイメージがあったが、赤薔薇温泉のまんじゅうは鮮やかな赤。透明なビニールを取ると、薔薇の華やかな香りがする。ここまで徹底して薔薇を強調してくるとは、ブランディングに相当気合いを入れているらしい。

 試しに食べてみると、薔薇の匂いと比較的厚い生地のせいで、まんじゅうというよりケーキめいた甘さに感じる。かき氷のシロップも基本的な味は同じだと言うが、わかっていても騙されてしまう。これは中々面白い。

 煎茶の代わりに置いてあったローズヒップティーを飲みながら寛いでいると、ふと思い至った。


 「そうだ、昼風呂をキメよう」


 ただ単に館内の素晴らしさと、まんじゅうの美味さの高揚感のみならず合理的な理由もある。

 何故なら今はランチアワー。いくら有名温泉とはいえ、露天風呂だろうと比較的空いている時間帯なはずだ。加えて今日は平日。さすがに真昼間から風呂に入ろうなどと考える、奇特な人間がそうそう他にいるはずも無い。絶対に空いているだろうと、私は確信しきっていた。


 意気揚々とカードキーを手にロビーに出ると、ちらほらと食堂に向かう人々の姿があった。そして、分かったことがもう一つ。温泉側に向かう人は誰一人としていないのだ。

 読みが当たった私は、密かに笑みを浮かべる。やはり人間、食欲には勝てないのだ。その点、先んじてまんじゅうを食っておいた私に死角はなかった。もはや口角が上がるのを堪えきれずに、口を手で覆う。我ながらなんと完璧な行程だろう。初回でここまで上手くいくのだから、旅行の天才を名乗っても恥じることはあるまいて。

 周りの番頭や旅行者から白い目で見られている気はしたが、私の目前には疑似貸切風呂があるので、全てが霞んで見える。

 私は、私だけが掴んでいる優越権を逃さないように、急がず、焦らず、騒ぎ立てずに逆方向へと向かった。


 さて、脱衣所に着けば、案の定人影は一切無し。それどころか荷物のひとつすらなく、今から風呂につかりに向かうのは私だけだとわかった。予想以上に読みが当たっていたのだ。一人二人は妙齢の方がいると思っていたが、これは嬉しい誤算。さっさと温泉に向かい、ゆっくりと湯あたりするほど浸かってやろうじゃないか。

 悠然と浴衣を脱ぎ、だだっ広い脱衣場をランウェイのように堂々歩く。多少肌寒いが、見ている人もどうせ居ないので気にならない。ここまで思うがままに上手くいっているのだから、全てが些事である。


 そして、脱衣場から浴場に向かおうとした時、ガラス戸の張り紙に気がついた。どうせ入浴中の注意喚起か何かだろう。チラリと横目にすると、信じられない文面が書いてあって、思わず顔が張り紙に吸い寄せられた。


 「じゅ、『12:00〜13:00は場内設備点検のため施錠をさせていただくことがあります』……だと?」


 張り紙を手に、目を凝らしながら一文を復唱する。それほどに信じ難い内容だったのだ。脱衣所の時計曰く、今が12時30分だから、ドンピシャじゃないか。


 頭から血の気が引く感覚があった。裸体の肌が、異様に寒く感じる。まさか今食堂に向かっている奴らは、この仕様を知っていた熟練旅行者だったというのか……!トントン拍子に進んでいただけに、衝撃も大きい。

 悔しいが、施錠されているのなら入りようもあるまい。大人しく飯を食ってから出直すか。

 

 肩を落としながら目を離したその瞬間、扉がきちんと閉まっていないことに気がついた。施錠するとか立派に書いてたのに、全然施錠されてないじゃないか。

 もう一度張り紙に目を落とすと、『(その日によってお時間は前後する場合がございます)』と小さく但し書きがある。つまり、今は大丈夫ってことか?


 実際、扉に手をかければさらりと開いて、浴場の熱気が私を包んだ。鳥肌が立って張りつめていた肌が湯気に少し綻ぶ。

 なんだ、ただの取り越し苦労じゃないか!今私が落胆したことに、なんの意味も存在しないじゃないか!というか、服脱いでからこんなもん見させるくらいなら脱衣所の外に貼っておけよ!

 私は若干憤慨しつつも調子を取り戻し、シャワーの方に向かった。


 そそくさと洗体を済ませると、真っ先に内風呂に浸かる。ゆっくりと足を伸ばして浸かり、腕を伸ばして壁面に背中を預けた。


 うん、良い湯な気がする。だが正直いってよく分からないのが本音だ。浴場の入口の張り紙に止められることなく、ここまでのトントン拍子を一切乱されずに期待感そのまま入っていたら、礼賛すべき名湯に感じていたかもしれない。しかし一度冷静になったせいか、今の私にはこの温泉がただの沸かした水にしか感じられないのだ。とろみを特段感じることもなければ、血行が著しく良くなっている気もしない。


 というかだ。この温泉、予想以上に透明度が高い。いや、正確に言えば『彩度』が薄い。赤と言うには烏滸がましいほど、色味が足りない気がするのだ。

 試しに手で掬って見ても、私の手のひらの肌色を一切変色させることも無い。しっかりと使っている足先、床面に至ってもきちんと視認できる。にごる事無く透明だし、なんなら赤褐色がどこにも感じられない。写真ではあんなに魅惑を放つ赤い色だったというのに、評判だった鉄臭さも感じられない。


 私の目と鼻がおかしくなったのだろうかと、えも言われぬ不安に駆られる。言われてみれば温泉の由来となったはずの湯の花のひとつも無い。綺麗に洗浄している証左とはいえ、ある程度色味は残しておくものじゃないのか?普通の温泉でもある程度残しているだろうに、由来になった湯の花を綺麗さっぱり除いてしまうのは一体どういう了見だ?


 まさかだが、私が調べてきた『赤薔薇温泉旅館』は幻想に近いものだったのか?


 いやいや、と首を振って疑念を払う。ここまで受けてきた質の良いサービスは至上の温泉旅館その物だったじゃないか。どんなに温泉が拍子抜けだったとして旅館そのものに変わりはない。むしろ温泉旅館は温泉が主軸なのだから、どれほど旅館が素晴らしかろうと温泉なしには成り立たないはずだ。あれほど名高い温泉旅館が実は拍子抜けだったなどと信じたくはない。


 そうだ、露天風呂に行こう。私はざばりと内風呂から上がった。

 この温泉が透明に見えるのも、効能が感じられないのも、全て内風呂だからだ。温泉の目玉は外の露天風呂にある。私のこれまでの経験がそれを物語っている。だからきっとこの先には素晴らしき赤い温泉が待ち構えているに違いないのだ。


 祈るように露天風呂に向かった私を待ち構えていたのは、これ以上ないほど赤い温泉だった。


 扉一枚隔てた先にある、岩場を模した露天風呂。その中はドス黒い程の赤に染まっていた。底が見えないほど、絵の具を搾ったかのような、巨大な赤薔薇の花弁を沈めているだけのようにすら見えるほど吸い込まれる赤。ある意味想像以上の『赤薔薇温泉』だ。


 露天風呂の中で誰かが浮かんでいることを除けば。


 「──なっ」


 思わず声が漏れたが、その先を語り尽くせるほど私は冷静でいられなかった。風呂一面には形容しがたい赤と鉄の匂いが漂う。赤い湯面に浮かんでいるのはうつ伏せの女。赤い作務衣を着た従業員だ。手元に桶を浮かばせたまま、一つ結にした髪の毛先だけを濡らしている。赤薔薇温泉は血の池地獄に変わり果てた。


 まさか、赤薔薇温泉の赤色とは、鉄由来の臭いとは、血流の良くなる効能の由来とは。人間の血なのではないだろうか。血の風呂に入ったという『カーミラ』の名を思い出し、途端に腹の底から寒くなった。


 為す術もなく立ちすくんでいると、僅かだが、従業員の口元から息が漏れていることに気がついた。まさか生きているのか?どう見たって死んでいるような血の量だが……。だとすれば、一体この血は誰の血なんだ?

 

 どうしようもなく好奇心に駆られた私は風呂に入ることすら忘れて、露天風呂に向かって行ってしまうのだ。


 静かに寄っていき、ゆっくりと湯面に手を近づける。

 

 いきなり私の手首は、掴まれた。


 「ぎゃあっ」


 慌てて身を引いたが、掴んできた何かを振り解けない。予想よりずっと強い力で、私の手首に絡みついている。


 さらに焦った私が腕を振り上げると、真っ赤な水面から白い手が伸びて私の手首を掴んでいるのが見えた。力は強いが、腕をさほど上げられなかったため、引っ張っているところも近いらしい。


 ゆっくりとその手の先を目で辿ると、赤い作務衣の女に繋がった。

 驚いたのもつかの間、女は私を睨みながら立ち上がる。作務衣から滴る赤い湯は、さながら返り血のように見えた。


 「赤薔薇温泉の秘密を覗こうとは、生かして帰さぬぞ。この産業スパイが……!」


 女は歯を剥き出し、身震いする程の憎悪を私に向けた。

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