金木犀の黙祷
ナナ
金木犀の黙祷
「ただいま」
アンディが玄関先で声をかけると、家族は目に涙を浮かべて彼の無事を祝った。
三年にわたる冷たき戦争が終結した。アンディは戦線の要員として十六歳で徴兵され、爆弾で左腕を失ったものの、無事に故郷へと帰ってきた。
故郷では村の人間総出でアンディの無事を祝った。少ない備蓄をどうにかやりくりして、パンや鴨肉、村の特産品であるワインが振る舞われたりした。他にも徴兵された同じ村出身の男は大勢いたが、皆、戦死した。帰ってきたのはアンディただ一人だけだった。
そうしてにぎやかな祭りは終わりを迎える。
アンディは祭りの翌日の早朝に、散歩へと出かけた。
村ではちょうど、秋の気配が近づいている頃だった。村のもう一つの特産品である金木犀がそこら中で花を咲かせており、凄まじい芳香で溢れ返っていた。戦線で飽きるほど嗅いだ死臭など忘れてしまえるくらいの芳醇な香りだった。
あまりにも見事なものだったので、アンディは金木犀の並木を歩きながら眺めていた。花は小さくて可憐で、見ていると癒されたのだ。幼少期、金木犀の花を拾い集め、砂糖漬けにして家族と食べたのを思い出した。
そうしてゆったりと歩いていると、金木犀の木の下に、一人の少女を見つけた。粗末な風体のその少女は何やら、骨ばった両手を胸の前で組んで、祈るような恰好をしていた。
アンディは不思議に思い、少女へと声を掛けた。
「ここで何をしているのですか」
少女は振り返ると、アンディに気付いて恭しく頭を下げた。少女との面識はないが、戦争での唯一の生き残りということは十分に知れ渡っているのだとアンディは心の内で思った。
少女は頭を上げると、血色のない唇を開いた。
「黙祷していたのです。戦争の犠牲者となった者たちに」
アンディは首をかしげた。
「戦死者の墓地ではなく、わざわざこんなところで黙祷していたのは、何か理由があるのですか」
アンディが見たところ、少女の周りには墓石も土葬された形跡もないように思えた。
すると、少女は目を見開き、また唇を震わせた。
「知りたいのですか?」
アンディが頷くと、少女は半歩下がり、金木犀の下の土を指差した。
「金木犀の下には、小さな秘密が眠っているのです。きっと、誰に暴かれることも許されない秘密が」
少女はそういうと、アンディに向き直った。
「気になるなら、ご自身で掘ってみたらどうですか?きっと、咎める者は誰もいませんよ」
アンディは少し迷ったが、金木犀の下に腰を下ろし、残った右腕を懸命に動かして土を掘った。そして。
──人の頭が見えた。
出てきたもの、それが人間の死体であるとアンディは理解した。
少女は言った。
「皆、軍の下で働いていた慰安婦の女性です。不幸にも虐殺され、ここに埋められました」
アンディは疑問に思った事を素直に言う。
「なぜ、ここに埋められたのですか」
少女は俯いたまま言った。
「慰安婦の女性たちには、居場所がありませんでした。それは死んでからも同じです。故郷に帰っても慰安婦だったというだけで差別され、行き場もなく彷徨う。最終的に待っているのは死だけでした」
少女は言葉を続ける。
「女性達がここに埋められたのは、金木犀の香りで死臭を隠すためです。この方が、とても理にかなったやり方なのです」
「だから、ここに埋められたのですか」
少女はその言葉には答えない。代わりに、自罰的な笑みを浮かべた。
「私の姉も、二十歳で慰安婦として軍に強制動員されました。帰ってきたのは見るも無残な遺体でした。遺体が帰ってきただけでも、良かったのかもしれません」
少女は足元に落ちていた金木犀の花を拾った。
「姉は、故郷のこの花が好きだった」
少女は金木犀の気に近づいた。手には、マッチが握られていた。
彼女は軽やかな動作で火をつけ、それを木の根元に転がした。マッチは、虚しくも木にはさほど大きな影響を与えず、ただその場で燃えるだけであった。
アンディは尋ねた。
「なぜ、火をつけたのですか」
少女は簡潔に答える。
「鎮魂の証です。私には、花も供え物もありませんので」
少女はしばらく、小さく燃えるマッチを見つめていたが、やがてアンディに向き直った。
「アンディさん」
名前を呼ばれ、アンディは軍に身を置いていた頃を思い出して姿勢を正した。
「はい。なんでしょう」
「もし私がどこかで餓死していたら、姉と同じ、この金木犀の木の下に埋めてください。私には、もう生きた家族がおりませんから」
アンディは驚いた。
「なぜ、僕に頼むのですか」
少女は真っ直ぐに言う。
「私の話を聞いてくれたのは、あなたが初めてだからです」
そうしてまた、似合わない笑みを浮かべるのだった。
アンディはそれがとても堪らなかった。なので、思わず口走った。
「あなたは餓死しません。僕の家で、温かいスープとパンが待っているからです。一緒に帰りましょう」
少女は目を見開いた。アンディには、それが悪くない顔に思えた。
驚きで固まっている少女に、アンディは何度目か分からない疑問を投げかける。
「君の、名前は」
少女は小さく笑って、答えた。
「──シレネ」
金木犀の黙祷 ナナ @Nana125
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