サハラの黑いばら
鹿茸一間
黑い花
わたしはこの村でいちばん草花にくわしい。
だからお母さんもお姉ちゃんも、植物ハカセと呼んで褒めてくれる。お父さんは「役に立たないことを覚えて何になる」と呆れ顔だけれど、わたしは全然気にならない。
だってわたしの世界はこんなに楽しいもので溢れてる。緑や花や、木の葉の模様。なんで皆もっと知ろうとしないんだろう?
ひょっとしたら、わたしみたいに賢くないから、覚えたくても覚えられないのかも知れない。それなら、ちょっと、フビンってやつだ。わたしは一度聞いた植物の名前を忘れない。形を見れば、どんな花で、何に使えるのかすぐに分かっちゃうんだから。
この力が人の役に立ったこともある。砂漠で見つけた探検者さんに水をあげようとしたら家族にだめだと怒られたので、そこら辺に生えているロエを切って汁を絞り出してあげたのだ。出来たジュースはちょっと……どころじゃないくらい不味かったけれど、探検者さんはなんとか助かった。わたしの知恵の賜物だ。
まぁ、ロエが飲めることも、それがものすごーく苦いことも、ここでは皆知っているんだけれど。
わたしはある日、村長さんに呼び出されて黒い花を見に行った。あの花を見たときの感覚は、いまもはっきりと覚えている。思わず村長さんの袖をつかみ、
「わたし、いやだ」
と言ったのだ。
「ほう。やっぱり、
「ねぇ、あれは何。なんだか不気味だわ」
「そうだよ。神さんが宿っているからね」
わたしはきょとんとして、しわだらけの顔を見上げた。
「神さまはユイイツじゃないの?」
「そう教えられたかい? でもね、神さまは今この瞬間も生まれているんだ。ほら、そこや、ここに」
そう言って、村長さんは小枝のような指をわたしの胸に押し当てた。
「そしてこの花は、我々の守り神。しっかりお世話してあげんしゃい」
花のお世話! その言葉に胸が弾んだ。この砂漠では、草を見ることはあっても育てることは叶わない。植物のために何かしてあげようと思っても、水はないし肥料もないから、特に何もできないのだ。彼らが生きるか枯れるかは、しょせん天の思し召しなのである。だからわたしは首を傾げた。
「お世話って、何をしたらいいの?」
「見とったら分かるよ。この子が教えてくれるんだ」
「はぁ」
そう言うので、とりあえずカンサツしてみることにした。花びらは黒くて、祭りのときの衣装みたいにヒラヒラだ。それがいくつも重なり合って、踊るように活き活きしている。茎は硬いうえに棘があって、人にもラクダにも食べられそうにない。その代わり地中に埋まっている部分、キュウコンにはたくさんの栄養がたくわえてあって、いざという時はこれで飢えを凌げるらしい。村長さんも昔、この花に命を救われたことがあるそうだ。
「ふぅん。でも、どうしてわたしなの? お花が好きだから?」
カンサツを続けながら、ふと浮かんだギモンを口にした。深いイトは無かった。砂漠にイドが無いのと一緒で。
でも、村長さんの答えは湧いて出たように向こう
「お前が次の村長だからね」
……え? いや、冗談やめてよ。これって村長さんのアフリカンジョーク?
しかし村長さんは、ちょっと怖いぐらい真剣な表情で続けた。
「この花に選ばれたんだよ。お前が私の後継者だ」
あれから七十年。前村長さまが亡くなったあと、わたしはなんとか村長としての務めを果たし、この村を繁栄に導いてきた。砂漠で採れる岩塩を運び出し、様々な物品と交換して生計を立てる。この慎ましい暮らしが続けられるのも、あの花に宿る神さまのお陰だ。昔のわたしは少し、いやかなり疑っていたけれど、前村長さまの仰ることは真実だった。わたしも行き詰まったときはいつも花の声に耳を澄まし、やるべきことを決定してきたのだ。次の村長ももちろん、花の声が聞こえる者に託す……つもりだった。
しかしあの子は、もう居ない。聡明なあの子も、将来有望なあの子も、皆オロバの人々が連れ去ってしまった。村に残ったのは年寄りと赤ん坊、病人だけ。これでどうやって生きていけというのだ。皺の増えた身体に、さらに深い皺が刻まれていくのが分かる。喉が渇いた、お腹が空いた。助けを求めても、誰が助けてくれるでもない。わたしはやっと決心して、黒い花を収穫することに決めた。
一面黄土色の砂埃のなか、ひときわ目を引く黒い塊。わたしには見慣れた花畑だ。指先の震えを押さえつけながら、一本、また一本と硬い茎を刈り取っていく。残った根元から砂を掻きだして、膨らんだ球根を掘り起こすのだ。これはその前段階である。
黒い花は群生するので、遠くからでもよく目立つ。にもかかわらず、ほとんどの人は気付かず素通りしてしまう。それはこの砂漠があまりに広大すぎるせいでもあるし、花が自ら呼ぶ相手を選んでいるせいでもある。
「でもお陰で、今回も命拾いを――」
「あれあれ、なんだか良さげなものを隠しているじゃあないですか」
背筋に冷たいものが走った。そこら中ぎこぎこと軋む腰が、声にならない呻きを上げている。
「だめですねぇ、やっぱり、けちくさい連中は」
「わたしの息子たちをどうした」
「あなたには関係ありません」
「わたしの子だぞ」
「我々の商品です」
肌の白いオロバ人は、球根が埋まっている場所を踏み越え、わたしが束ねておいた花を持ち上げた。
「へぇ。薔薇に似ているけれど、こんな色は見たことがない。売れるかもしれないな」
「誰が渡すと?」
「あのねぇ。ご老体のあなたを殺すくらい、わけないんですよ。何か隠していそうだから泳がせただけで。もうあなたは必要ありません」
「渡すものか」
「うるさい」
彼は脚を思い切り振り上げ、砂を巻き上げた。ヴェールのように広がった砂塵はわたしの全身を覆い、身体中がチクチクと痛んだ。特に目に入った砂は刃物のように凶悪で、前を向けないほど激しい痛みが襲った。
「痛っ」
花の棘が指に刺さったらしく、彼は大袈裟に痛がって舌打ちをした。その腹いせのように残った花をあらかた摘み取り、すっかり禿げた砂の荒野をあとにした。
わたしは流れる涙もとどめ得ぬまま、ひとり嘆くほかなかった。
***
「……では前回の復習です。モノカルチャー経済とは何でしょう? 氷河さん」
げ。さっきまで遊んでいて席に着いたのもギリギリな私は、教科書さえろくに開いていない。今この授業が何なのかさえも定かではない。いや、社会の先生が教壇に立っているのだから、この時間が社会科であることぐらい分かるか。
「えーと、漫画とか、アニメとかですか?」
教室にクスクスと笑いが起こる。大爆笑でないということは、私のほかにも分からない人がいるということだ。よかった、セーフ。
「それはサブカルチャーですね」
先生は私の勘違いをさらっといなし、ページ数を教えてくれた。地理の教科書、アフリカ経済に関する項目。
「『単一商品に依存した経済体制のこと』」
「はい、そうですね。ありがとう」
本文を音読しただけで着席を許された。先生、まじ優しい。
「いちばん有名な例はアフリカのサハラローズですね。昔はチョコレートローズと呼ばれていましたが、近年その価値が見直され、観賞用ではなく産業用に輸入する国が増えました。現状、アフリカ西海岸は輸出の六十%強をこのサハラローズに頼っています」
先生の話を聞きながら、私は今週末どう過ごそう、ということばかり考えていた。
「ねぇ、あれって先生が言ってたやつじゃない?」
帰り道、一緒に歩いていた友達が黒い一帯を指さした。
「ああ、ローズプラント。最近よく見るよね」
正式名称は、サハラローズ計画栽培促進用地……だったっけ。元々田んぼだった場所が柵で囲われ、中に真っ黒い花が並んでいる。それは確かに花畑だけれど、綺麗というよりは陰鬱な、日照権を求めて住民運動をしている築三十年アパートみたいな雰囲気だ。
「エコだエコだって話題だけど、何がどう環境に良いんだろうね。見たところ、毒でもばら撒いてそうな感じだけど」
「なんかね、光合成が凄いんだって」
「光合成って、あの?」
さすがに私でも分かる。光のエネルギーを使って、水と二酸化炭素からデンプンと酸素を作る反応。
「そんなの、植物なら何でもやってるじゃん」
「ふっふっふ、氷河くん。緑色の植物は、緑色の光を反射してしまうのだよ」
「……?」
「全ての光を吸収できるのは黒、それも混じり気のない純黒だけだってこと。おまけに、サハラローズは周囲の熱も合成に利用できる。これで地球温暖化問題は一挙解決、いぇい」
突き出されたピースサインをはたき落として、私は眉間にしわを寄せた。
「理科の先生と付き合ってるって噂、本当じゃないでしょうね」
「まさか」
彼女はにっこり微笑んだ。
家に帰ると、テレビでサハラローズの討論会を行っていた。サハラローズは、現代の一大ブームと言っていい。渋谷や原宿を席巻してこそいないものの、テレビや新聞、ネットを開けばそこかしこで情報が出てくる。
番組タイトルは『激論! サハラローズは人類の救世主か?』。いつもはお昼のニュースを垂れ流している私の母も、珍しくテレビに釘付けだった。グレーのスーツに身を包んだ白髪混じりの男性が
「サハラローズに一切、害はありません。その点は各国政府が保証しています」
と言えば、頭の丸い偏屈そうなお爺さんが
「保証ったって、先のことは分からんだろう。長く観察してきたわけじゃあるまいし」
と応じる。
「数百年にわたって、観賞用に栽培されてきた歴史があります。サハラローズが家畜や人間に害を及ぼしたという記録は、今のところ見つかっていません」
「その程度で計り知れるか。地球は何年前に出来たと思う。四十六億だぞ。数百を何万倍したら届くのか、計算してみなさい」
「しかし、それならいつまで待てば良いのですか。早めに手を打たないから、環境問題は取り返しのつかない所まで来てしまった。その対策を一億年後に講じて、何の意味があるんです」
「すみません」
白熱した議論に、一人の若い男が水を差した。彼は長い髪を後ろで束ね、黒縁眼鏡をかけ、さらに白衣を羽織っている。うちの理科の先生と面影が似ているので、なんとなく嫌いだ。言うことがつまらなかったら部屋に戻ろうと決めたが、彼の次の発言に身体が固まった。
「観賞用に育てられていたサハラローズと、僕たちがよく目にするサハラローズは、遺伝子的に異なるものです」
「……どういうことです?」
「サハラローズは本来、砂漠でしか生育しない植物です。それを大航海時代、ヨーロッパ人が発見し持ち帰りました。しかし、ヨーロッパでの栽培は上手くいかなかったんです。結局彼らは、薔薇をもう一度砂漠へ運び、現地の労働力を使って栽培を始めました。現代のサハラローズは、これとは全く違いますよね?」
そうだ。私の知るサハラローズは、日が当たる場所ならどこでも育つ。近所の空き地やビルの屋上、果ては民家の屋根にまで。至るところに、砂漠の花は植わっている。
「遺伝子組み換えの成果ですよ。これが無ければ、日本でサハラローズが見られることはなかった。一方で、僕たちはこの『色違い』のサハラローズが与える影響を懸念しています。他の生物の遺伝子が乱されて、多様性が失われれば、本末転倒ですからね」
この発言に対し、別の参加者から反論の声が上がる。またそれに反対、反駁、反発。そのどれもぱっとしなくて、私はテレビの前に立ち尽くした。
この議論に感化されたわけではない。多感な女子中学生として遺憾なく所感を述べておくが、決して彼の意見に感銘を覚えた実感はない。それでも、ある文化人類学者のエッセイを読んだとき、私は思ったのだ。『色違い』でない、本物のサハラローズが見てみたい、と。
それから勉強に精を出し、大学院にまで進学。イヤというほどワクチンを流し込まれた二三歳の春、私は初めてアフリカ大陸に渡航した。
***
「答えろ。お前は一体何をした?」
「わたしは何もしていない。ただ、言われた通り遺伝子をいじくっただけだ」
「それならこのデータはなんだ!」
「天罰だよ」
俺はふざけた科学者の間近で机を殴った。奴は一瞬怯んだが、なお落ち窪んだ目を見開いて続けた。
「……天罰だ。わたしたちは、触れてはいけないものに手を出したんだよ」
俺は舌打ちをして、部下に「連れて行け」と命令した。
***
私が日本に帰ったのは、冬の平均気温が2℃の故郷で、観測史上初めて氷点下23℃を記録した、記念すべき一日だった。着ていたコートを首元まで引き上げても風は冷たく、衣服のあらゆる隙間から冷気が滑り込んでくる。白い息を吐きながら改札を出ると、高校生の妹が大きく手を振っていた。こんなに寒い中、わざわざ迎えに来てくれたのだ。
一緒に家まで歩く道中、私は左手に『色違い』のサハラローズ畑を目にした。ローズプラントではない。この地域では、サハラローズがもはや野生化しているのだ。
「外国はどうだった?」
「新鮮だったよ。予習はしたつもりでも、やっぱり現地でしか分からないことが多くて」
貧困の実態や、アフリカでのサハラローズ栽培の現状、苦しい生活の中でも笑って日々を送る人々の姿。中でも、目的の一つであった本物のサハラローズは圧巻だった。絵に描いたような砂漠の中に、コールタールよりも黒い薔薇畑が佇む。サハラローズは光を全て吸い込んでしまうので、それは地球を削ってできた深淵、いや、宇宙を抉ってできたブラックホールのように見えた。
現地の言い伝えも興味深い。サハラローズを持って三日三晩祈ると雨を降らせてくれるとか、よそ者にはその姿を現さないとか、信仰に近いレベルで神秘的な力が認められている。やっぱり、私の町を埋め尽くさんとするサハラローズは
この花を、サハラ以外で咲かせてはならない。
私の主張は理屈じゃなくて感情だ。
でも、それを伝えるために、私は祖国日本に帰ってきた。
「私、国家公務員になる」
実家に帰るや否やそう宣言すると、家族はいたく喜んでくれた。堅実を好む両親は、前々から私に公務員を勧めてくれていたのだ。私は安定から程遠い道を歩もうとしているから、動機は食い違っている、どころか正反対だけれど、ともかく私と家族の利害は一致した。私は公務員試験の勉強をはじめた。
試験に合格し、満足な地位を得るまでは、歯痒い思いの連続だった。ブームの収束とともに表舞台から姿を消したサハラローズが、再び論じられるようになった。にもかかわらず、私は携わらせてもらえない。関係各所に顔を出し、アフリカでの経験をプレゼンして回ったものの、誰一人取り合ってはくれなかった。オカルト話など役に立たないと、面と向かって言われたこともある。
こうしている間にも、サハラローズは世界中に分布を広げている。
ある観測結果が出された。地表の多くがサハラローズで覆われている地域ほど、ここ二十年の気温低下が顕著であるという話だった。
ある試算が行われた。このペースで寒冷化が進むと、二一〇〇年には地球の平均気温が6℃低下するということだった。
サハラローズは光エネルギーを百%利用するだけでなく、温室効果ガスである二酸化炭素を大量に吸収し、なおかつ周辺の熱をも奪う。だから栄養に乏しい砂漠でも、圧倒的なエネルギーを球根に蓄えることが出来たのだ。地球温暖化対策、さらには食糧難対策にも望ましいと思われていたこの性質が、かえって私たちの首を絞めはじめた。まとめてしまうと滑稽話のようだけれど、当事者になると笑えない。サハラローズの光合成は、
そんなある日、私のもとに一本の電話がかかってきた。どこかで聞き覚えのある声だが、いつ聞いたのか思い出せない。しかし彼の名前と所属する機関名を聞いたとき、バラバラの記憶が線になって繋がった。あの日、テレビの討論会で遺伝子について論じていた男だ。
「これを送りつけていたのは君だね」
研究室に入ると、彼は封筒の束を机の上に放り投げた。彼は十年前からちっとも変わっていない。低いところで結んだポニーテイルに、黒縁眼鏡。ただ、今日は白衣ではなく黒のベストを着用していて、以前よりは教授らしい威厳が増したように見える。
「……はい」
彼には駄目元で、アフリカで蒐集した民話を手紙に書いて送っていた。私が公務員であることは伏せて、いち社会人として意見を述べたのだ。確かに電話番号も付記したが、まさか本当にかかってくるとは思わなかった。大学まで呼ばれて対面で怒られることになるとも、当然思っていなかった。
そりゃあ、迷惑だったろう。中学生の頃テレビで見ていた有名人と同じ土俵で渡り合えるなど、思い上がりも甚だしい。旅行気分で世界を旅したって、公務員試験を一発で合格したって、偉くなれるわけじゃない。凡人は凡人のままだ。どれだけ頑張ったって、私の声が世界に届くはずがないのに。無理なのに。馬鹿だな、私。
「実に面白かった」
泣きそうになって目を伏せる私の耳に、信じられない言葉が聞こえた。
「研究者が化学的な観点からサハラローズを批判する中で、君は地域の伝承からこの結論を導いた。そうだ、全ての生命はそれ単体で存在するのではない。人々の暮らしの中から、記憶の中から見出せるものだ。君の視点から、僕の研究への意見が欲しい。頼まれてくれるだろうか」
ほろほろと涙が流れるのを、自分ではどうすることもできなかった。彼の言葉はいつも、私の心の深いところに食い込んでくる。あの日も今日も、私の脳は麻痺するばかり。
その日、私たちは夜が明けるまで語り合った。私も職業や立場を明かし、これまでに行ってきたこと、それらが一つも報われなかったことを話した。彼は「そいつらは馬鹿だ」と一蹴し、彼の知見や研究成果を話してくれた。
「やはり、遺伝子組み換えのせいで光合成が強くなってしまったのでしょうか?」
私が以前から抱いていた問いを口にすると、彼はうーんと唸ってこう言った。
「恐らくそうじゃない。光を反射しないのはオリジナルも同じだし、熱を吸収するのも共通している」
「誰かが調べたんですか?」
「君の手紙にあったじゃないか。サハラローズの群生地が避暑地に使われていた例や、雨乞い伝説といった逸話が。雨乞いのときは、サハラローズを摘むんだろう? 仮に村人が一人一本ずつ花を持つとしたら、気温が多少なりとも変化し、雨が降った可能性は否定できない」
「じゃあどうしてこんなことに?」
「サハラローズが増えすぎたんだ」
「計画ミスですか?」
「いや、政府だって能無しじゃない。こうなるリスクは考えていたさ。だが問題は、サハラローズの球根だった」
「球根?」
「安くて、栄養豊富で、美味しい。遺伝子組み換えで育てやすくなったサハラローズは、放っておくだけで勝手に増えていってくれる。こんな便利なものを、庶民が活用しないはずがないだろう?」
「あ」
すっかり忘れていた。私の町では、サハラローズを育てているという噂のある家が何軒かあった。たぶん、豆苗を育てているような感覚だったのだろう。ローズプラントに無断で立ち入ることはかたく禁止されていたけれど、花の流通を監視する仕組みは充分とは言い難かった。田舎で野菜の扱いに慣れている人ならなおさら、むしろ社会貢献ぐらいのつもりで、サハラローズを栽培していたのではないだろうか。
「今度国連で緊急会議がある。君も助手としてついてきてくれ」
「え、でも、それを担当する職員は他に……」
「僕が口利きをする。君が公務員で良かった。そこら辺の一般人を連れて行くより好都合だ」
「いいんですか……?」
「何を言ってる。今は一人でも、有識者の意見が惜しい」
有識者なんて……、と謙遜しようとしたそばから、誇らしい気持ちがムクムクと胸に膨らんでくる。そうだ、私はもう、何も知らなかったあの頃の私じゃない。変わるんだ。この世界を、変えるんだ。
「……つまり我々は、人々の生活を甘く見ていたわけです。好きなものは増やす、欲しいものは奪う、金になるものは売りさばく。管理から外れたこれらの動きをトレースしない限り、現在の世界を正しく把握することはできません」
彼が発表を終えたとき、立ち上がって拍手したのは私だけだった。赤面しながら腰を落ち着けると、方々から疑問の声があがった。
「それで、具体的な対策は?」
「原因究明は喫緊の課題だが、それだけでは埒があくまい」
「サハラローズが増えれば増えるほど良いと考え、違法売買を黙認していたのも事実だ」
私は何も言い返せそうにない。先生の予想はここにいる誰よりも真相に漸近していると思う一方、それはやはり学術的な意味合いにおいてだ。政策への応用や具体策となると、途端に立場が危うくなってしまう。
「簡単だろう」
ギャング映画で葉巻を吸って部下をはべらせていそうな、オールバックが場を制した。
「また地球を温めればいい。工場の稼働を促し、化石燃料を燃やす。ついでにサハラローズの畑も焼き払えば、肥料になって穀物もよく育つ。サハラローズの闇取引も多少は沈静化するだろうさ」
「そうやって、また過ちを繰り返すつもりか!」
叫んだのは丸眼鏡の温厚そうなお爺さん。見た目に反して声が野太い。
「俺が言ってるのは、小学生でも分かることだ。足し引きすれば合計はゼロ。全てはあるべき姿に戻る」
「この会議は希望的観測を述べる場のようだから、私からも希望的観測を述べさせてもらおう。何らかの対策を講じて何らかの奇跡が重なれば、我々はあと六十年は生きられる。だがその先は地獄だ。地球はただの雪球になる。あるいは熱球か」
「おっさん、それは絶望的観測って言うんだぜ」
「分からんのか。お前の言う希望が、我々を殺すんだ」
「僭越ながら、僕からも希望的観測を一つ、述べさせていただいてもよろしいでしょうか」
ここまで口を閉ざしていた先生が、満を持して手を挙げた。
そう、先生の発表はまだ終わっていない。
私たち二人で導いた、一か八かのアイデアが残っている。
「現在、世界中に広がっているサハラローズは遺伝子組み換えです。もしもゲノム編集の過程で、それらに決定的な弱点が生じていれば」
――僕たちは、あの希望の花を一網打尽にできるかも知れない。
会議では大いに笑われた。そんなことがあるわけがない、お前たちは何も分かっていない。人が操作すると言っても、手動でやるわけじゃない。機械にプログラムして、正確無比に遺伝子を書き換える。その過程でヒューマンエラーなど起こるはずがない。
確かにその通りだ。だから私たちの希望的観測は、極小の砂粒よりも小さい。
だが、今も世界では様々な問題が起こっている。例外的な寒さが冷害を引き起こし、野菜が穫れない。魚が赤道のほうへ移動し、熱帯魚は死滅しつつある。ヨーロッパでは記録的な大雪が降り続き、多くの民家が白い砂に沈んだ。藁にもすがる思いで、私たちは人探しを進めた。
男は、アメリカ合衆国の刑務所にいた。これほど世間を席巻する偽サハラローズを創りだし、本国からテロの容疑をかけられているのは、まったく著名でない、研究機関のいち職員であった。
「あるわけないだろう、ミスなんて」
彼は言った。
「私は自分の仕事をやり遂げた。完璧にね。なのにこの仕打ちとは、随分だと思わないか?」
「まったくです。でも僕はこう訊いたんですよ。『サハラローズに弱点はあるか』と。あなたに落ち度があったかどうかなんて、興味が無い」
「どういう意味だ?」
「分かりませんか? あなたは、ミスでなく、意図的に弱点を仕込んだのではないか。僕と彼女はそう予想しているんです」
それこそ、値千金の発見だ。砂金を拾うような幸運だ。こんなことを言えば、あの会議で誰かに笑い死なれていただろう。でも、賭けるならここしかない。
果たして。
「仕込んだよ」
男は言った。
「特定の化学物質と結合したとき、花が自壊する自滅コードを」
膝から、力が抜けていくのが分かった。
「だがもう手遅れだ」
「……やらないよりましです」
化学物質の合成方法を聞き出したあと、彼の呟いた言葉が私の耳から離れない。
――君たちは、もう滅びたいのかと思ったよ。
この冷え切った世界で、私たちはどう生きればいいのだろう。
薔薇色になるはずだった、私たちの未来はどこへいってしまったのか。
風が吹けば舞い、雨が降れば流れる、砂粒のように小さな私たち。
でも、生きることが、受け継ぐことが、無意味であるとは思いたくない。
だってほら、地層はいつも私たちのうえに。
化学物質を空から噴霧する。作戦は実行に移された。
サハラの黑いばら 鹿茸一間 @rokujo-hitoma
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