薔薇のいろはうつりにけり
くじら(イトピナヨス)
薔薇のいろはうつりにけり
異国から渡ってきたその種は、暖かくなると花を咲かせた。幾重にも重なるそれは、うっとりするほど美しい。
私は絵にでもしてやろうと、縁側を立ち、それから戻ってきて――目を疑った。
薔薇の花は、その色を、すっかりと変えていた。
「おや、ほんとに変わってるよ。お前さん、これはなんちゅうからくりだい?」
晩酌に上がり込んだ隣の猪吉に、薔薇の鉢を見せてやった。猪吉は大きな瓢箪をこぼしながら、さっきまで赤かった薔薇をまじまじと見る。
「知らないよ、ソイツが勝手に変わるんだもの」
「ふうん」
神経がしめ縄で出来てるもんだから、猪吉は私とは違ってぜんぜん驚かなかった。やれやれとおちょこを呑む。
「そうだそうだ、ちとばかし肴持ってきてんだ。さっきそこで、振り売りに出くわしてよ……」
「ああ、あたしゃいいよ。ソイツのせいで、すっかり肝が縮んじまった……」
「ええ、なんだ勿体ねえ」と呟きながら、猪吉は竹皮のつつみを解いて、まだ少しぬくい天ぷらをつまみ始める。醤油ないか、と聞くのをシカトして、ふと、縁側を見た。
やっぱり薔薇の色は変わっていた。今度は山吹色だ。それに猪吉も気がつく。
「おや。……へえ、花のくせに飽きっぽいんだ」
「そういう話かねぇ……」
私はため息をつく。つぼみの時は、なんともなかったのに、まったく妙なものを育ててしまった。
日が登って、朝の支度を終えたころ、薔薇の鉢に水をやる。
本当を言えば、心底気味が悪かった。が、花がコロコロ色を変えるのは、実はお天道様や、仏様なんかの仕業かもしれない。万が一枯らして、バチでも当たったら。なんて思うと、水を切らす気にはとてもなれなかった。
柄杓の水と朝日を浴びて、桃色の花はキラキラと、宝石のように光った。桶の中をちらっと見ていただけで、この花は、また色を変えている。
「ああもう、これで満足かい」
桶に残った水をぱしゃっとかけると、私は花を睨みつけた。
日が暮れて、また登って、また暮れて……
半月が経った。向こうの河川敷では、桜の蕾がふっくらと太り、今にも咲こうとしている。
薔薇は、ずっと咲いていた。
蕾を作ったりもせず、ひとつの花を、ひたすらずっと保って咲かせていた。健気じゃないか、と猪吉は笑っていたが、こんなのは不気味でしかない。
猩々緋色の花弁は、毒々しいほど鮮やかに、ただの一度も散らないのだった。
私はとうとう、水をやるのをやめてしまった。
神や仏と畏れていたのが阿保らしい。壁と塀の隙間の、猫の通るような隙間に、鉢を押し込めて、それきり見向きもしなかった。
河川敷の桜が満開となった。どこか近所から、聴色の花弁が飛んできて、私の庭にも春を知らせた。薔薇のことは、半分忘れかけていた。
桜散る庭に、ふと、枯れ枝が落ちてるのを見つけた。怪訝にそれを辿って、壁と塀の隙間を覗き込む。
「ああっ――」
薔薇は、すっかり枯れていた。
萌える緑の葉は、縮んでひび割れ、今まさに朽ち果てようとしている。不気味に咲いていた花など、まるで拐われたように、跡形もなく消えていた。
そうして枝が、枝は……鉢から身を乗り出していた。隙間を抜け出て、庭の真ん中まで伸びていた。
やっぱり、妖怪の類だったのか。
弱々しく伸びた枝を、遠巻きに眺める。細く棘もつけずに、縁側の雨戸の隅に倒れている。よくよく見ると、先端に、小さな小さな蕾が、真っ黒になってついているのだった。
季節外れの焚き火を焚いて、肴に用意したイカを炙る。
「あっうまい。猪吉っつぁんもほら。烏賊が燻されて、薔薇の匂いがうっすら付くんだよ」
私はすっかり胸が晴れて、おちょこをくいくいと呑む。しかし猪吉は、どうも気が乗らないようだった。
「お前さんね、ちと薔薇が可哀想じゃないか?」
「ええ?何故だい。これは妖怪だったんだよ」
私は火をつつき、燃える枝をいじくった。
「あのまま咲かせといたら、ひょっとして私が食われてたかもしれないよ。そしたら今度は、猪吉っつぁん、お前さんの番だぜ。……おっと、そろそろだね」
火の中から、器用にとっくりを引っ張り出す。うまいことおちょこに熱燗をこぼすと、ふわっといいにおいがした。
「ああ、これこれ……」
熱々のとこを少し吹いて、くっとやる。うまい。
「けどなあ、お前さん……」猪吉は瓢箪を下ろして、縁側に腰掛ける。
「いや、おれもあんまし上手く言えねえけどよ。ちょっと前まで、その薔薇……眩しいほど真っ赤に咲いてただろ?なんというかなあ……」
「なんだいはっきりしないね。いいから言ってみなよ、そううだうだ言われると、酒も烏賊も不味くなっちまう」
猪吉は黙って、瓢箪をぐいっと呑む。
「おれはさ、あの薔薇が……お前さんを好いてたんじゃないかって……」
そんな気がする、と猪吉は、また瓢箪をぐいっと呑んだ。春風に吹かれて、焚き火がパチパチと音を立てる。その煙は、香水の如く香っていた。
「猪吉っつぁん、あんた……」
ぷっ、と思わず吹き出す。
「あんた、芝居の見過ぎだよ……あははは……!」
薔薇のいろはうつりにけり くじら(イトピナヨス) @kujira-itp74s
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