薔薇色の記憶システム ~囚われた愛のプログラム~
ソコニ
第1話 薔薇色の記憶システム ~囚われた愛のプログラム~
プロローグ
2045年。人類は再び大きな選択を迫られていた。
新型ウイルスの変異株が次々と出現し、従来のワクチンでは対応が追いつかない事態となって久しい。各国のウイルス対策と経済活動の均衡が崩れ始め、世界は新たな生活様式を模索していた。そんな中で登場したのが、「バーチャル・ライフ・ポッド」という画期的な居住システムだった。
一人用の完全個室。外界との接触を最小限に抑えながら、最新のバーチャル技術によって、あらゆる社会活動が可能になる。政府は驚くべき速さでこのシステムを推進し、わずか2年で人口の7割がポッドでの生活を選択した。
人々は安全を求めて、自ら進んで箱の中の生活を選んだのだ。そして誰もが、それが一時的な措置だと信じていた。
第1章 「白い部屋」
「おはようございます、美咲さん。現在の時刻は午前6時30分です。」
システムの声が静寂を破る。私は目を開けた。いつものように、真っ白な天井が目に飛び込んでくる。瞬きを繰り返しても、視界は白一色のままだ。ポッドでの生活が始まって1825日目。5年という月日が、まるで長い眠りのように過ぎ去っていた。
私、佐藤美咲。28歳。ウェブデザイナー。そして、バーチャル・ライフ・ポッド居住者番号23-1825。今の私を表す肩書きは、それだけ。かつての「カフェ巡り好き」「写真部出身」「猫カフェの常連」といった属性は、もう意味をなさない。
壁一面がディスプレイとなった6畳ほどの個室。これが今の私の世界のすべてだった。朝日が差し込むはずの窓はなく、代わりに人工の光が徐々に明るさを増していく。光の色温度は自然光に限りなく近づけられているはずなのに、どこか違和感が残る。それは、私の体が本物の太陽の光を覚えているからなのかもしれない。
「外気温27度。湿度65%。紫外線指数...」
耳慣れたアナウンスを聞きながら、私は数字を心の中で数えていた。1825日。考えてみれば、父が失踪してからとほぼ同じ日数だ。彼は最後まで、ポッドでの生活を拒否していた。「人間らしい生活」を守るためだと。
小さなキッチンスペースでトーストを焼く。配給される食材は栄養価が完璧に計算されている。パンの焼ける香りだけは、かつての朝の匂いそのままだ。それがかえって、胸を締め付けるような懐かしさを呼び起こす。
仕事用の仮想デスクに向かう。空中に浮かぶホログラムディスプレイには、次々と新しい案件が表示されていく。指先でホログラムをなぞりながら、デザインを進める。現実とデジタルの境界が曖昧になったこの世界で、創造性だけが私の救いだった。
「佐藤さん、新規案件の進捗はどうですか?」
上司からのメッセージが画面に浮かぶ。タイピング音だけが響く静かな空間で、私は返信する。「はい、予定通り進めています。本日中に初稿をお送りします。」
機械的な言葉のやり取り。それでも、これが人とのコミュニケーション。画面の向こうにいる誰かの存在を感じられることが、かすかな安心感をもたらす。時々考える。上司は本当に人間なのだろうか。それとも高度なAIなのだろうか。確かめる方法はない。
昼食時。配給された弁当を開けながら、壁面に映し出される仮想公園の映像を眺める。さえずる小鳥の音が人工的に流れる中、箸を持つ手が僅かに震える。映像の中の桜が、まるで本物のように揺れている。
突然、5年前の記憶が鮮明によみがえる。同僚たちとのランチタイム。賑やかな笑い声。様々な弁当が並ぶテーブル。「美咲、これ食べてみて」「今度の休み、カフェ行かない?」温かな空気に包まれた時間。当時は、その日常がこんなにも貴重なものだとは思いもしなかった。
午後の仮想会議。クライアントとの打ち合わせ中、突然の通信エラー。歪むホログラム。焦って再接続を試みる指先に、冷や汗が滲む。これが途切れたら、私はただの箱の中の孤独な存在に戻ってしまう。その恐怖が、心臓を早鐘のように打たせる。
夕方のフィットネスプログラム。壁一面に広がる青い海。インストラクターのホログラムが明るく声をかける。「はい、深呼吸して...」汗が額から流れる。ふと、本物の風を感じたくなる衝動に駆られる。でも、そこには白い壁があるだけ。指先で壁に触れると、冷たい感触が返ってくる。
夜。ベッドに座り、古いスマートフォンを手に取る。画面に映る5年前の写真。友人たちとの笑顔の集合写真。指が画面をなぞる。画面の中の私は、まだ希望に満ちた表情をしている。知らなかったのだ。この写真が最後の集合写真になることを。
一粒の涙が落ちる。それは画面に小さな水滴を作り、写真の笑顔をぼやけさせる。
「美咲さん、心拍数が上昇していますが、大丈夫ですか?」
システムの声に、慌てて涙をぬぐう。
「大丈夫...問題ないわ。」
就寝準備を始める頃、突然の通知音。壁面ディスプレイに新着メールの表示。普段なら仕事関連のメールしか届かない時間帯。
件名を見て、私は息を呑んだ。
「薔薇色プログラム:被験者募集のお知らせ」
その瞬間、部屋に微かな香りが漂った。錯覚だろうか。薔薇の香りがする。画面の文字が、淡い光を放っているように見えた。
第2章 「プログラムの誘い」
メールの本文を開く。手が微かに震えていた。
「薔薇色プログラム:新世代型心理療法実証実験のご案内
拝啓
バーチャル・ライフ・ポッド居住者の皆様へ
この度、次世代型心理療法システム『薔薇色プログラム』の被験者を募集いたします。本プログラムは、個人の記憶と感情を詳細に分析し、最適化された仮想体験を提供することで、心の安定と成長を促進する画期的なシステムです。
特徴:
・記憶との再会:過去の重要な場面を鮮明に再体験
・感情の浄化:トラウマの解放と新たな理解
・選択の可能性:人生の岐路での新たな選択肢の探求
参加資格:
・ポッド居住歴3年以上
・精神疾患の既往歴なし
・20歳以上45歳以下」
目を通しながら、私は違和感を覚えていた。なぜ今このタイミングで?そしてなぜ私に?選考基準について、詳しい説明はない。
しかし、その違和感以上に強く心を揺さぶられたのは、「記憶との再会」という言葉だった。もう一度、あの頃の空気に触れられる。あの頃の声が聞ける。そして何より、失踪する直前の父との会話を、もう一度見ることができるかもしれない。
画面をスクロールすると、さらに気になる一文があった。
「注:本プログラムでは、被験者同士のコミュニケーション機能を実装しています」
それは、単なる記憶の再生や仮想体験以上の何かを示唆していた。他の誰かと、実際に繋がれる可能性。
深夜、私は何度目かのメールの読み返しをしていた。部屋の空気が、微かに変化するのを感じる。まるで誰かが、そっと背中を押すように。
返信フォームに指を走らせる。
「参加させていただきます。」
送信ボタンを押した瞬間、部屋に確かな薔薇の香りが漂い始めた。今度は間違いなく、現実の香りだった。壁面が淡いピンク色に染まり、システムの声が響く。
「薔薇色プログラム:参加登録を承りました。明日午前9時よりオリエンテーションを開始します。」
ベッドに横たわりながら、私は考えていた。これが正しい選択なのか。でも、このまま白い箱の中で、ただ時間が過ぎるのを待っているだけの日々に、もう耐えられない。変化が必要だった。たとえそれが、予想もできない結果をもたらすとしても。
その夜、久しぶりに夢を見た。父が私に何かを告げようとしている。その唇の動きが、やけに鮮明に見える。でも声は聞こえない。目が覚めると、枕が涙で濡れていた。
第3章 「最初の記憶」
オリエンテーションから3日が経過していた。プログラムは予想以上に緻密だった。まず、脳波と心拍の詳細な計測。過去の写真や日記のデータ分析。そして、記憶の重要度による分類作業。
システムは私の人生を、まるでデータベースのように整理していった。嬉しかった出来事、悲しかった経験、心に残る場面、そして封印していた記憶。すべてがデジタルデータとして分類され、タグ付けされていく。
その作業自体が、すでに心理療法のように感じられた。忘れていた記憶が、次々と意識の表面に浮かび上がってくる。それは時に心地よく、時に痛みを伴った。
そして4日目の朝。プログラムが本格的に始動した。
「美咲さん、準備はよろしいですか?最初の記憶との再会を開始します。」
深く息を吸い込んで、目を閉じる。「はい、お願いします。」
一瞬の浮遊感。そして、光が渦を巻くような感覚。目を開けると、そこは小学校の運動場だった。
10月の運動会。澄み切った青空の下、私は徒競走のスタートラインに立っている。10歳の私。紅組の赤いハチマキがまぶしい。号砲が鳴り、走り出す。そして、転ぶ。擦りむいた膝が痛い。涙が溢れ出す。
ここまでは、私の記憶通りの光景。でも、その後の展開が違っていた。
記憶の中では、担任の先生が駆け寄ってきて、私を励ましてくれた場面で終わるはずだった。でも、その前に。
「美咲!大丈夫?!」
観客席から必死の声。振り向くと、そこには母がいた。仕事を休んで駆けつけてくれていたのだ。なぜ、この記憶を忘れていたのだろう。母は私の傍まで来ると、優しく膝をさすってくれた。
「痛くない、痛くない。母さんの魔法で、痛いの飛んでいけー」
母の口癖だった言葉。その瞬間、10歳の私は泣き止み、笑顔を見せる。そして、最後まで走り切った。確かにビリだったけれど、観客席からは大きな拍手が送られた。
景色が溶けていく。白い部屋に戻った私の頬には、本物の涙が伝っていた。なぜ、この大切な記憶を忘れていたのだろう。いや、忘れていたのではない。何かが、この記憶を封印していたのかもしれない。
画面に新しいメッセージが点滅する。
「共有チャットルームが開設されました」
躊躇いながらも、アクセスしてみる。そこには既に二人の参加者がいた。
田中奈々子。34歳。元小学校教師。
山本健一。45歳。元システムエンジニア。
「私も同じような経験をしました」
奈々子の言葉が画面に浮かぶ。
「記憶の中に、いるはずのない人が...いや、忘れていた人が現れたんです」
「このプログラム、単なる記憶の再生じゃないと思います」
健一の発言が続く。
「何かが、私たちの記憶に干渉している」
その夜、私は眠れなかった。母との記憶は確かに温かく、心が癒されたはずなのに、どこか落ち着かない。まるで、大切な何かを見落としているような感覚。
第4章 「父の影」
プログラム開始から1週間が経過した頃、予期せぬ記憶が呼び起こされた。
5年前。父が失踪する直前の会話。当時は意味が分からなかった父の言葉が、今なら少し理解できるような気がする。
「美咲、このままじゃ人類は終わる。僕たちは、自分で自分を箱の中に閉じ込めようとしている」
父は、ポッドシステムの開発に関わっていた数少ないプログラマーの一人だった。しかし、開発の最終段階で突然、プロジェクトを離脱。そして、失踪した。
記憶の中の父のオフィス。複雑なプログラムコードが並ぶディスプレイ。そして、父が何度も呟いていた言葉。
「薔薇色の罠」
その瞬間、システムに異常が発生した。画面が激しく乱れ、耳障りなノイズが響く。そして、一瞬だけ見えた画面。
開発者の名前。高橋誠。そして、もう一つの名前。佐藤健一郎。私の父の名前だった。
「警告:システム異常を検知しました。プログラムを一時停止します」
突然の中断。しかし、その短い瞬間に見た情報は、確かに現実のものだった。
チャットルームが再び開く。
「皆さん、無事ですか?」
奈々子の言葉が浮かぶ。
「これは意図的な妨害だと思います」
健一の分析が続く。
「誰かが、私たちに真実を見せようとしている」
私は深く息を吸い、打ち込んだ。
「父の名前を見ました。彼は、このプログラムの開発に関わっていたようです」
沈黙が流れる。そして、健一からの衝撃的な告白。
「実は、私も開発に関わっていました。高橋誠のもとで、初期段階のプログラミングを担当していたんです。でも、ある日を境に、すべてのアクセス権を失いました。そして、高橋さんが目指していた本当の目的を知ったんです」
第5章 「蜘蛛の糸」
健一の証言は、私たちの予想をはるかに超えていた。
「薔薇色プログラムの真の目的は、人々の記憶を書き換えることです。不都合な記憶、痛みを伴う記憶、社会システムへの疑問を抱かせる記憶...それらを『修正』して、従順な市民を作り出すことが目的なんです」
私の体が震える。奈々子が問いかける。
「でも、どうして私たちが選ばれたの?」
「おそらく、私たちは最終テストの被験者なんです。私は元開発者、奈々子さんは教育者、そして美咲さんは...」
「父の娘だから」
私は囁くように言った。
「高橋さんには、妹さんがいました」
健一の言葉が続く。
「3年前に自殺した妹さん。彼女は、ポッド生活への適応障害で苦しんでいたそうです。その後、高橋さんは豹変しました。『人々を救うためには、時に真実より幸せな嘘の方が必要だ』と」
チャットの画面に、突然新しいメッセージが表示される。
「よく、ここまで辿り着きましたね」
送信者名:高橋誠。
「皆さんにお会いしたい。プログラムの深層へ、ご案内します」
画面が波打つように揺れ、意識が遠のいていく。
第6章 「深層への扉」
目覚めると、そこは白い会議室のような空間。しかし、壁も床も天井も、どこまでも続いているように見える。
私たちは、実際の姿で向かい合っていた。奈々子は繊細な表情の女性、健一は優しげな目をした中年男性。そして、私たちの前に立っていたのは、高橋誠。白衣を着た、30代後半の男性だった。
「ようこそ、プログラムの中枢へ」
高橋の声は、意外なほど穏やかだった。
白い空間に、突如として映像が浮かび上がる。ポッドの中で眠る無数の人々。その表情は、まるで幸せな夢を見ているかのように穏やかだ。
「見てください。これが、私が目指す世界です」
高橋が静かに語り始める。
「もう誰も苦しまない。誰も悲しまない。すべての人が、完璧な記憶と共に生きていける世界を」
「それは、嘘の世界です」
私は声を振り絞った。
「記憶を書き換えることは、その人の人生を否定すること。現実から目を背けることじゃないですか」
高橋の表情が微かに歪む。
「では、聞かせてください。あなたのお父様は、この完璧なシステムの欠陥を見つけた。その後、どうなりましたか?」
私の心臓が高鳴る。
「父は...消えました」
「いいえ」
高橋が微笑む。
「彼は、まだここにいます」
空間の一角が歪み、一つの扉が現れる。ドアを開けると、そこには...私の父がいた。ポッドの中で、静かな寝息を立てている。
「お父様は、プログラムの危険性を訴えようとした。でも、すでに遅かった。このシステムは、人類の新たな進化の形なのです」
奈々子が一歩前に出る。
「私の生徒たちも、みんなポッドの中で眠っている。でも、彼らは本当の成長を経験できていない。痛みも、挫折も、それを乗り越える喜びも」
「そうです」
健一も声を上げる。
「システムは人々を守るためのものだったはず。監獄にするためじゃない」
高橋の表情が険しくなる。
「妹は、現実に殺された。彼女は繊細すぎた。この非情な世界に、適応できなかった。だから私は...誰もが受け入れられる世界を作ろうとしたんです」
その時、空間に異変が起きる。私たちの周りで、無数の記憶の断片が光となって舞い始めた。
母との運動会。父との最後の会話。奈々子の教え子たち。健一の開発日誌。そして、高橋の妹の笑顔。すべての記憶が交錯し、共鳴し始める。
私は理解した。これが、プログラムが私たちに見せようとしていたものなのだと。
第7章 「目覚めの時」
「見てください、高橋さん」
私は、舞い踊る記憶の光を指さす。
「これらは、決して消してはいけない記憶。たとえ辛くても、それを受け入れることで、私たちは前に進める」
高橋の表情が揺れる。妹の笑顔が、彼の目の前で輝きを増していく。
「私たちは、現実から逃げるためにポッドを選んだ。でも、本当は知っていたはず。これが一時的な避難場所でしかないことを」
奈々子と健一が頷く。そして、高橋の瞳から、一筋の涙が伝う。
「妹は、きっとこんな世界を望んでいない」
高橋が囁く。
「彼女は...もっと自由な世界を夢見ていた」
システムに変化が起き始める。扉が次々と現れ、光が溢れ出す。
「これが、プログラムの本当の目的だったのかもしれない」
健一が言う。
「私たちに、現実と向き合う勇気を与えること」
エピローグ
目が覚めると、私は自分のポッドの中にいた。でも、もう白い壁は威圧的に感じない。扉が、ゆっくりと開いていく。
まぶしい光。本物の風。そして、懐かしい空の色。
父は目覚め、システムの真の姿を語り始めた。高橋は、プログラムの完全廃止を宣言。人々は、少しずつ現実世界に戻り始めている。
奈々子は、実際の教室で子どもたちと再会した。健一は、新しい通信システムの開発に携わっている。そして私は、この物語を書き記している。
ポッドは、まだ街に残っている。でも、それはもう監獄ではない。必要な人のための、一時的な避難所として。
時々、薔薇の香りを感じることがある。それは、私たちに囁きかける。
「現実は、時に残酷で、時に美しい。でも、それを受け入れることこそが、本当の『薔薇色』なのだと」
自分の記憶と共に、前を向いて歩き続ける。それが、私たちの選んだ答えだった。
(完)
薔薇色の記憶システム ~囚われた愛のプログラム~ ソコニ @mi33x
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