雀たちのじゃれる声に、目を覚ました。重い掛け布団から出た顔は、皮膚が引き締まる冷気に晒されていた。

 ぼんやりと素っ気ない木の板の天井を眺める。障子戸から入る白い光が、朝を告げていた。鳥の囀りだけが響く静寂の中、寒さがしんしんと部屋の中に沈んでいる。布団から出るのは億劫だった。が、外がこれほど明るくなっているのであれば、起きなければならない。日々の生活のため、勤めに出なければならないのだ。たとえ、であろうとも。

 五年前に両親を亡くして以来、私は天涯孤独の身だった。両親の弔いを終えるなり故郷を出て、仕事を求めて町に上り。運良く職に就いてそれなりの生活をしていた。とはいえ、それは独りであるからして。他人を養う甲斐性などまるでないため、このまま寂しく暮らしていくことになるのだろう、と覚悟を決めていたのだが。

 どうやら私には、まだ妻を娶り家族を得たいという願望があったようだ。その相手が人ならざる蛇女じゃじょであろうとも。

 昨晩の夢は、その我が身にさえ知られざる願望が反映されたものなのだろう。

「まあ、確かに――」

 足先は布団に突っ込んだまま、上半身を冷気に晒して部屋を見渡した。六畳間の我が家は、物は少なくも、どことなく雑然としていて。空虚ながらも荒んだ生活が見て取れる。

「寂しくは、あるな」

 温もりが恋しかった。火のものではなく、生命の温もりが。

 冷えた飯を腹に突っ込み、外に出る。表通りを往く人は素っ気なく私のことを素通りする。町の人間は、誰に対しても皆そうだ。友でない限り居ないように振る舞うのが礼儀だと思っている節がある。私もそれに倣い、馴染んできたはずなのだけれど。

 誰にも、声一つかけられぬ。この冬一際凍てつく寒風よりも、今朝はそちらのほうが堪えた。独りという身の上がずっしりと背に伸し掛かる。

「犬猫でも飼うか……」

 少しは寂しさも紛れるやも。そんなことを考えながら横丁に入る。町を横切る運河、それに架かる橋が見えてくると、仕事場まであと少し。気を引き締め、習慣に従って道の脇に寄ろうとしたところで、また夢を思い出す。

 橋の手前には、祠があった。石を積んだだけの粗末な祠。この街を渡す運河が水難を引き起こさないように、ということで設けられたらしい。が、それは信仰ではなく慣習に従って設けられただけであり、誰も祠を意に介さない。供え物一つ、置かれることはなかった。

 唯一、私だけが祠を拝んでいた。大層な理由はない。仕事はじめの軽い儀式といったところだ。私が運河を仕事場にしていなければ、きっと足を止めることもなかっただろう。その程度の軽い気持ち……だったのだが。

 あろうことか、夢の中で、私はこの祠の主と名乗る者を〝妻〟としていた。果たしてここの祭神が本当に蛇なのかはさておき、私は彼女を勝手に連れ合いにした上、慰みものにもしていたのだ。それが――どうにも、気まずい。

 所詮我が夢のこと、とは思いつつも後ろめたく、私は仕事に遅れ焦っている体を装って、祠の側を通り過ぎた。手を合わせ拝むのを怠った。合わせる顔がない故のことだったが、これはこれで罪悪感がある。橋の横の階段を下りながら、私の背には冷や汗が滴った。

 私の職は、船頭である。階段を下りた私の目の前には、木板を打ち付けて作った古い舟着き場と、棺桶と揶揄されそうな舟がある。

 この町は、運河の町だ。至るところに、河が流れている。物流のため――すなわち、食物や反物などといった軽いものを大量に運ぶというのが、運河の主な用途であるが、いつの頃からか、人も移動手段に運河を用いるようになった。私はその人渡し用の舟を繰るのが仕事だ。

 運河は傍目には平坦で、流れなどないように見えるが、実はかなり緩やかな傾斜がある。舟を操る際はその傾斜の作る流れを読む必要があり、これが意外と難しい。気を抜けば舟の舳先は思わぬほうに向き、岸にぶつかることもある。さすれば舟が傷つくうえ、客の苦情もあり、と損害が生まれるので、注意深く舟を漕がなければならない。

 客に求められるまま、町中のあらゆる運河を行ったり来たり。河辺は町の中でも特に寒い場所だが、利用客の多さで寒さを感じる暇なく、一日が過ぎていく。茜に染まった空が地平に太陽を隠した頃にようやく一息吐けた。昼飯もままならぬ忙しさ。空腹の切なさの中、鴉の鳴き声に耳を傾けて放心し、その余裕に安堵の息が漏れる。

 そろそろ店じまい、といつもの舟着き場へ向けて漕ぎ出そうとすると。

「もし」

 薄暗がりの背後から女の声が飛んできた。客か、と苦笑いしつつ振り返り、息を呑んだ。襟足で切り揃えた艷やかな黒髪。凛とした佇まい。切れ長の目の美人は、まさしく私が夢で見た〝妻〟だった。

「舟をお願いしたいのですが」

「は、はあ」

 女は行き先を告げた。それは、奇しくも私の拠点としている舟着き場――件の祠に近い場所だった。もう暗くなりかけており、河の流れは見づらくなっていたが、経験を頼りに舟を進める。

 女は、凛と背筋を伸ばし、黙したまま舳先を見つめていた。緊張と興奮に胸は激しく鼓動し、を握る手が強張る。干上がった喉が水を求めて上下する。偶然だ、と平静を心がけても、期待に胸を膨らませずには居られなかった。これを運命と呼ぶのでは、などと都合の良い妄想に取り憑かれそうになる。

 櫓が強く水を掻き混ぜる音がした。

「何故、今朝は来られなかったのですか?」

 唐突に女が喋った。背を伸ばし、顔を舳先に向けたまま。

「はい?」

 私は首を傾げた。

「ええと?」

「いつもは立ち寄ってくださるのに、今日に限って素通り。さすがに傷つきます」

 素通り、と聞いてどきりとしたのは、祠のことを思い出してのことだった。毎朝していたことだからこそ、怠ったことへの罪悪感が胸に引っかかっていた。実を言うと、仕事の合間もずっと心の中で詫びていたのだ。いくら後ろめたかったからといって、子どものようなことをした、と。

 だが、目の前の女には関係のないことだろう。すべて私の身の内のことであり――そもそも、彼女とは初対面のはず。

「……どなたかと勘違いしては?」

「まあ!」

 女が勢いよく振り返った。昨晩まじまじと見つめた気の強い顔で、舟漕ぐ私を睨み上げる。

「酷いわ。大事にすると、言ってくださったのに!」

 あまりの衝撃に、櫓から手を滑らせた。櫓足が水面から出たのか、大きな水音が耳に届く。慌てて両手で櫓を握り、立て直す。

「いや……あれは夢では」

「夢だからとなかったことにするおつもり!?」

 憤りのあまり立ち上がる女の顔を見ながら、私は夢現の境が曖昧になっていることに混乱した。確かなのは私が独り身であるという事実だが、もしかして私は我が家に入り込んだこの女を、勝手に妻と認識したのだろうか。

 酔っていたとはいえ、そんなことがあるものか?

 ぐらぐらと足元が揺れる。女が立ち上がり、私が持ち場を離れたことで、舟は左右に揺れた。このままでは転覆しかねない。冬の夜にずぶ濡れは御免被る。

「待て、待ってくれ!」

 瞳孔を細長くした女に向けて両手を突き出し、宥めることを試みる。

「とりあえず、岸へ! 落ち着いたところで話し合おうではないか!」

「ええ、そうですね」

 女は腕を組み、私を見下ろすように睥睨した。そういえばこの揺れる舟の上で、彼女の身体の軸はしかと定まっていた。

「逃しませんよ」

 櫓にしがみついた私に宣言し、彼女は再び背を向けて座り込む。安堵しつつも身震いしてしまうのは、何も夜風の所為ではないだろう。

 接岸した頃には空に星が光り、仕方なく私は女を長屋に連れ帰った。狭い部屋に向かい合い、彼女は一晩中、私を懇々と説き伏せた。

 その夜から、彼女は本当に私の妻になった。

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ほろ酔い幻想記 森陰五十鈴 @morisuzu

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