さよなら紙飛行機

武市真広

さよなら紙飛行機


 紙飛行機を勢いよく飛ばす。風に乗って少しずつ上昇していく。僕はそれを小走りで追いかけた。風に揺られながら真っ直ぐ飛んでいく僕の紙飛行機。

 こうやって遊ぶのがたまらなく楽しい。学校を終えると、僕は真っ直ぐ家へ帰る。プラモデルを作る日もあれば、ラジコンで遊ぶ日もあるし、紙飛行機を飛ばす日もある。友達と遊ぶより、一人で遊ぶ方がずっと楽しかった。

 空気の抵抗や重力のために紙飛行機は高度を落とし、とうとう地面に音もなく落ちた。飛ばす時と落ちる時が好きだった。どんな物体も永遠に飛び続けることはできない。そのことを紙飛行機を通じて僕は学んだ。落ちたらまた飛ばせばいい。

 紙飛行機のところへ駆け寄ろうとすると、車椅子が通りがかって、女の子が拾い上げてくれた。紙飛行機を差し出した手は青白かった。「ありがとう」

「どういたしまして」

 無表情な顔。その子が誰なのか、思い出すのに少し時間がかかった。クラスメイトの白石さんだ。病気のせいでよく学校を休む。どんな病気なのか知らない。あまり話したこともない。

「……白石さんの家ってこの近く?」

「うん」

 白石さんは短く答える。

「紙飛行機なんかで遊ぶの?」

「趣味の一つだよ。作るのが好きで」

「もう一度、飛ばしてみて」

 僕はさっきとは反対方向に紙飛行機を飛ばした。僕が作った機体は性能が良い。色々と折り方を工夫したのだ。ぐんぐんと高度を上げる。だが高く飛ばしすぎた。紙飛行機の背中が見えて、ストンと落ちてしまった。

「……私、帰るわ」

 白石さんは少しがっかりしたようにそう言った。



 好きなことを好きなだけするのが自由だと思う。僕の考えは、素朴だろうか。本来自由とは素朴なものではないのか。

 休み時間の間、ノートに設計図を描く。設計図と言っても本格的なものではなくて、簡単な展開図のようなものやプラモデルの部品を分解したものである。技術科の授業で、理想の家を設計することがあった。あれ以来、たまに部屋の間取りを考えることもある。

 今日は工具の平面図を描いた。スパナやペンチを描く。自分が家で使っている道具だ。父が買ってくれた。僕はそれを使って工作をする。愛用の品と言っていい。

 ……ようやく描き上げたその時、誰かが僕の肩を叩いた。ドスンと衝撃が走った。振り返るとクラスの男子が立っていて、クスクスと笑っている。こんなことをして何が楽しいのだろう。僕にはやりたいことが沢山あるのだ。やりたくないことはやらない。この場合、やりたくないこととは、この嫌いなクラスメイト・川口と話すことである。

「おい、無視かよ」

 その通り、僕は無視した。構って欲しいからこんなことをするのだろう。ならば無視する方が一番の仕返しだ。ノートのページをめくって僕はまた新しいものを書き始めた。今度は車のタイヤでも描いてみよう。

 コンパスを筆箱から取り出そうとすると、川口が僕のノートを取り上げた。

 これには流石に腹が立った。取り返そうと立ち上がると、クラスメイトは腕を突き上げて、僕の手が届かないところにノートを掲げた。ジャンプして取り返そうとするけど、届かない。

「……返してよ」

 そう言って返すような奴ではないことは知っている。だが、返せと言うか言わないかの違いは大きい。何も言わなかったら、そのために不当な扱いを受けるかもしれない。学校とはそういう場所である。

「悔しかったら取り返してみろよ」

 僕の予想通り、返せと言ったところで川口は返さなかった。コイツはなぜこうも愚かなのか。同い年の人間でも僕より賢い奴と愚かな奴がいる。そんな人間が居ること、それは仕方ないことだ。問題なのは、川口のような馬鹿な人間が、僕のような静かに生きている人間をいじめることである。これは明らかに不当なことだ。学校は、子供たちに社会は理不尽で満ちていることを教えるために、こんな人間を野放しにしているのではないか。

 返せ返せと繰り返しても川口は返さない。押し問答の末、コイツは窓の外へノートを放り捨てた。

 頭に血が昇る、あの感覚。自分の中にある凶暴な一面。一瞬にして切り替わる。視野がギュッと狭くなる。

 僕は川口に飛びかかった。押し倒して顔を殴った。

 川口も反撃して僕の横腹を殴ったり、蹴ったりする。

 痛いはずなのに、殴り合いをしているその間、僕は痛みを忘れた。

 他のクラスメイトが止めに入った。喧嘩両成敗を美徳としているようなクラスメイトは僕も川口も一緒くたに押さえつけている。気にかかるのはノートの行方だ。クラスメイトを振り払うと、僕は教室を飛び出した。

 階段を駆け下りる途中で、チャイムが鳴った。でも僕は気にしない。クラスメイトを殴った僕が、どうしてチャイムなんか気にするものか。校舎を出る。真っ直ぐ教室の下へ走る。

 教室の下には花壇が広がっている。何も植えられていない花壇の土の上にノートは開いた状態で落ちていた。幸い土が乾いていたおかげでノートは殆ど汚れていなかった。

「山田君」

 そう声がして、振り返ると車椅子の白石さんがいた。

「どうしたの、ひどい顔」

 何があったのか彼女は知らないのだ。顔はひどく痛む。痣もできているだろう。血も出ているかもしれない。そんなことは一切お構いなく走ってきたのだ。

「喧嘩した」

「派手に喧嘩したのね」

「……僕は学校なんか嫌いだ」

 このまま家へ帰りたい気分だった。このまま教室へ戻ったところで、喧嘩両成敗を美徳とする教師からお説教を食らうに決まっている。僕は喧嘩両成敗も嫌いだった。大人は、どちらに正義があるのかも推し量れないのか。

「今度、紙飛行機の作り方を教えてよ」

 気分が昂ぶっている中で、白石さんは突然そんなことを言った。

「好きなんでしょ、紙飛行機」

「うん。今度教える」

「約束だから」

「わかった」

 約束という言葉が耳に残った。白石さんが何の病気なのか僕は知らない。でも、それがなかなか治らない病気であることは察せられた。それだけに約束という言葉が重い響きに聞こえたのだ。



 あの喧嘩以降、教室で僕に話しかける人間は居なくなった。

 僕がクラスで孤立しているという教師の見方は間違いではない。だが、孤立していることを僕は一切後ろ向きには考えていなかった。どうして孤立していてはいけないのだろうか。一人でいることの何が悪いのだろうか。教室にいて、必ず友達を作らないといけないのか。少なくとも教師はそう考えているらしい。

 喧嘩の後で、父が学校に呼び出された。何が話し合われたのか僕は知らない。父も何も言わなかった。みんなと仲良くしろとか、友達を作れとか、父は決してそんなことを言わなかった。父も僕と同じ考えだったのかもしれない。だからだろうか、一人でも遊べるものを僕によく与えてくれた。クラスメイトや教師は僕に理解も共感もしてくれないが、父だけはわかってくれるように思えた。

 学校へ行く、授業を受ける、宿題を片付ける。一日の大半がそんな風にして過ぎていく。学校にまつわる時間が僕にとって有意義だったことは殆どない。勉強自体は面白いけど、その周りにあるものがどれも邪魔で面倒で嫌いだった。

 生きる以上、やりたくないこともやらないといけない、嫌いな人間とも付き合っていかないといけない。好きなことだけをするわけにはいかない。大人になれば、それが当たり前だ。でも子供の頃からそれに気づきたくはなかった。

 一週間ほどして、白石さんとの約束を果たす気になった。休みがちな彼女が珍しく学校に現れた時、紙飛行機の作り方を教えると告げた。

「約束、忘れたかと思った」

 彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔がとても大人びて見えた。同い年のはずなのに、僕よりもずっと大人に見えた。大人になって、彼女だけが遠くへ行ってしまうような……。

「今度の土曜日とかどう?」

「じゃあ前に会った公園に集合ね」



 土曜日の朝、僕は早起きした。普段、土曜日は遅くに目が覚める。今回は白石さんとの約束のために前日早く寝たのだ。

 目が覚めて、朝食を取ってすぐに家を出た。約束の時間まで余裕があったが、早く会いに行きたかった。

 公園には殆ど人がいない。朝の散歩をするお年寄りの人や犬の散歩で訪れる人が時々通るぐらい。公園の背後には集合住宅が建っている。沢山の人が寝起きしている場所のはずなのに、土曜日の朝は閑散としていた。テレビの音すら聞こえて来ない。

 こういう時間が僕は好きだ。広い空間に自分しかいない。少し冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと清々しい気分になった。

 リュックから紙を一枚取り出す。丁寧に折る。その作業に没頭している時、僕は時間を忘れる。視界が狭くなり、手元以外は見えなくなり、周りの音も遠のいていく。この感覚も僕は大好きだった。

「……ねえ、……ねえってば」

 そう声がして顔を上げると白石さんがいた。いつものように車椅子に座っている。

「ああ、ごめん」

「夢中だね」

「作る時は夢中になる」

 好きなことに夢中になること。それが自由を謳歌するということだ。


 僕は彼女に紙飛行機の作り方を教えた。難しいことではない。普段から改良を加えている作り方を一つずつ説明するだけのことだ。白石さんは時々「へえ」と声を上げるぐらいで、感想らしい感想は何も言わない。教えている側としては、これほど助かることはない。「……完成したらすぐに飛ばそう」

 彼女は小さく頷いた。

 細くて白い指が動く。繊細な動き。まるで浄瑠璃人形のようだ。他人の指を見てそんな感想を抱くのは変だと思ったけれど、実際、彼女の手つきはとても繊細だった。

 一〇分もしないうちに、紙飛行機は完成した。

 車椅子をゆっくりと動かして、彼女は広いところに進み出た。上半身を前後させて、飛ばすタイミングを見計らう。

 うまく飛んでくれと僕は心の中で願った。

 ……紙飛行機が彼女の手を離れて、美しいフォームで滑空していく。

 朝の清純な風に乗って、少しずつ高度を上げていく。

「このままどこまでも遠くへ飛んでいって」

 誰に言うでもなく、白石さんは呟いた。それは祈りだった。

 しかし、紙飛行機はやがて速度を落として、地面に吸い込まれていくように重力に引きずられて高度を下げていく。

 音もなく地面に着地する。僕は駆けて行って拾い上げた。結果は上々だった。

「やっぱり最後には落ちてしまうのね」

「どんなものも永遠に飛び続けることはできないよ」

 彼女は無言のまま静かに頷いた。

「……でも、落ちてもまた飛ばせばいい。時々壊れることもあるけど、直してまた飛ばすんだ。落ちたら飛ばして、また落ちたら飛ばす」

「また飛ばせばいい……」

 反芻するように白石さんは呟く。

「もう一度飛ばしてみて」

 僕が紙飛行機を手渡すと、白石さんは小さく頷き、手のひらでそっと飛行機を乗せた。今度は少しだけ力を込めて、彼女は慎重に飛ばした。

 飛行機は柔らかな朝の風を受け、弧を描くように滑空しながら空へと舞い上がる。その動きは、まるで一羽の鳥が羽ばたきを試しているようだった。

 彼女は目を細め、飛行機の動きをじっと追った。風に揺られながらも、紙飛行機はさっきよりも高く、そして遠くへと飛んでいく。

「さっきよりも上手く飛んだ」

 彼女の口元に微かな笑みが浮かぶ。飛行機は空を漂いながらゆっくりと高度を下げ、地面に優しく触れるように着地した。その一部始終を見届けた彼女の顔には、ほんのりとした満足感が滲んでいた。

「飛んでいるところが見たいから僕はまた飛ばすんだ。何度でも」

「本当に紙飛行機が好きなのね」

「紙飛行機だけじゃないよ。もっと広いところに行かないといけないけど、ラジコン飛行機もあるんだ。今度見せてあげる」

 もっと他のコレクションも見せたかった。彼女となら友達になっても良いような気がした。

「……ごめんなさい。私、来月にはこの街を出るの」

 白い指を絡めながら、白石さんは俯いた。

「引っ越すんだ」

「そう。病気を治すために。大きな病院がある街へ引っ越すの。そこで手術してもらう」

「……治るの?」

「わからない。でもやらないよりはずっと良いってお医者さんが言うの」

 僕は二の句が継げなかった。言いたいことが溢れて、却って何も言えなくなる。言いたいときに限って言葉は出て来ないものである。

「ずっと不安だった。でも今日決心がついたの。手術を受ける。また飛ぶために。壊れても治して飛ばせばいい。そうあなたが教えてくれた」

「……また会える?」

 僕の声が少し震えたのを、彼女は気づいただろうか。

 白石さんは一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。

「きっとまた会えるわ」

「約束しよう」

「約束する」

 指切りをした。彼女の小指はとても冷たかった。

「さよなら。必ずまた会いましょう」

「さよなら」

 さよなら紙飛行機。

 白石さんの胸に抱かれる紙飛行機に向かって、僕は心の中でそう呟いた。


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