失われた絆の代償

@flameflame

第1話

いつものように、僕は美咲を駅の改札前にあるカフェの窓際で待っていた。夕暮れの光が街をオレンジ色に染めている。この時間が好きだった。仕事の疲れも、日々の些細な悩みも、美咲の顔を見るだけで全て吹き飛ぶ気がした。付き合って5年。来年には結婚を考えている。具体的な話も進めていて、両家の顔合わせも済ませた。新居の場所もいくつか候補があり、週末には一緒に見に行く予定だった。美咲の笑顔を思い浮かべるだけで、胸が温かくなった。彼女との未来は、僕にとってかけがえのない宝物だった。


最近、美咲は少し忙しそうだった。仕事が立て込んでいると言っていたし、僕も特に気にしていなかった。連絡が少し減ったのも、仕方ないと思っていた。ただ、ほんの少しだけ、胸の奥に小さな引っかかりがあった。以前は毎日必ずと言っていいほどメッセージのやり取りをしていたのに、最近は僕から送ることが多くなった。電話も、以前は他愛のないことで長く話していたのに、最近は用件だけを済ませるようになった。週末のデートも、以前は美咲から「どこか行きたいところある?」と聞いてきてくれたのに、最近は僕が誘うことがほとんどだった。


ある日の帰り道、僕は偶然、美咲と翔太を駅前の広場で見かけた。最初は、たまたま知り合いに会っただけだと思った。翔太は大学時代からの友人だし、美咲とも面識はある。何度か、僕たち3人で食事に行ったこともある。挨拶くらいはするだろう。そう思っていた。


しかし、二人の様子は、ただの知り合い同士のそれとは違っていた。楽しそうに話しながら、時折顔を見合わせて笑っている。美咲の表情は、僕が見たことのないくらい明るく、無邪気だった。まるで、少女のように。普段、僕に見せる表情は、もっと落ち着いていて、大人の女性の顔だった。もちろん、それはそれで素敵だったけれど、今、翔太に見せている表情は、僕が知らない、初めて見るものだった。


僕は足を止めた。遠くから二人を見つめていると、翔太が美咲の手にそっと触れた。その瞬間、僕の体から血の気が引いていくのがわかった。頭の中が真っ白になり、心臓が凍り付いたように感じた。あの触れ方は、友達にするようなものではなかった。恋人同士がする、親密な触れ方だった。


僕は逃げるようにその場を後にした。何が起こったのか、理解できなかった。信じたくなかった。愛する美咲が、親友の翔太と…?そんなことが、あるはずがない。


家に帰っても、何も手につかなかった。食事も喉を通らず、ただひたすら、あの光景が頭の中で繰り返されていた。美咲の笑顔、翔太の手、二人の間の空気。全てが、僕を否定しているようだった。


次の日、僕は勇気を振り絞って美咲を呼び出した。いつものカフェで。しかし、その日の空気は重く、二人の間には深い溝ができていた。


「あの…この前のことなんだけど…」僕は言葉を選びながら、切り出した。「駅前で、翔太と…一緒にいるのを見たんだ」


美咲は俯いたまま、静かに口を開いた。「…健太には、話さなきゃいけないと思っていたの」


「何を…?」僕は震える声で尋ねた。


美咲は顔を上げずに言った。「私…翔太と…付き合ってるの」


僕は言葉を失った。「うそだろ…?翔太と…?どういうことなんだ?」


「…ごめんなさい」美咲は小さな声で謝った。「健太とは…もう気持ちが冷めてしまったの。翔太の方が…私を理解してくれる…」


「理解…?俺は…今までずっと、美咲のことを大切にしてきたのに…」僕の声は震えていた。「翔太の方が理解してくれるって…どういうことなんだ?一体いつから…?」


「…前から…少しずつ…」美咲は目を逸らした。「健太とは…一緒にいても、なんだか…違うなって思うようになって…」


「違う…?何が違うんだ?言ってくれよ!」僕は必死だった。「俺に何か足りなかったなら、言ってくれれば直したのに…」


「…そうじゃないの」美咲は首を振った。「健太は…優しすぎるの。優しすぎて…私には物足りなかった…」


「物足りない…?そんな…」僕は愕然とした。彼女の言葉が、僕の心を深く抉った。優しすぎるのが、物足りない?それは、僕が彼女を大切に思っていた証だったのに。


その日の夜、翔太から電話があった。「もしもし、健太か?悪かったな…」と、どこか他人事のような、軽い口調で言った。


「悪かった…?何が悪いんだ?俺の恋人を寝取っておいて、それだけか?」僕は怒りを抑えきれなかった。


「いや…そう言うつもりじゃ…」翔太は言い淀んだ。「でも…美咲は…俺を選んだんだ。仕方ないだろ?」


「仕方ない…?ふざけるな!」僕は叫んだ。「お前は俺の親友だったはずだ!どうしてこんなことを…!」


「…悪かったって言ってるだろ」翔太は再び同じ言葉を繰り返した。「もう終わったことだ。水に流してくれ」


「水に流せるわけないだろ!」僕は電話を切った。


失意の日々が続いた。何もかもが色褪せて見えた。美咲との思い出が心を痛めた。


そんな中、僕を支えてくれたのは、会社の同僚である彩香だった。彩香は僕の異変に気づき、優しく声をかけてくれた。僕は少し迷った後、全てを話した。彩香は真剣な表情で話を聞き、慰めてくれた。


それから、仕事の合間や仕事終わりに、他愛のない話をするようになった。彩香の明るい笑顔と飾らない言葉は、僕の心を少しずつ癒していった。彼女と話していると、過去のことが薄れていく気がした。


ある日、仕事帰りに二人で食事に行くことになった。食事中、僕は久しぶりに心から笑うことができた。「彩香さんと話していると、楽しいです」と僕は言った。


「僕にとって、彩香さんは大切な人です」そう伝えた時の彩香の、少し驚いたような、でも嬉しそうな顔は、今でもよく覚えている。


それから数ヶ月後、僕と彩香は付き合うことになった。「健太さんの優しさとか、誠実なところとか…一緒にいると安心できるんです」と彩香は言ってくれた。


「彩香さんといると、過去のことは忘れられるんだ」と僕は答えた。「本当に…ありがとう」


ある週末、買い物を終え、彩香と並んで歩いていると、向かいから見覚えのある姿が近づいてきた。美咲だった。彼女は一人で、以前のような輝きは失せていた。


「健太…」美咲は悲しそうな顔で名前を呼んだ。


「…何か用か?」僕はできるだけ冷静に言った。


「…ごめんなさい…」美咲は言葉を詰まらせた。「本当に…後悔してるの。あの時…私が間違っていた…」


僕は美咲の目を見た。そこには後悔と悲しみ、そしてほんの少しの未練が見えた。でも、僕の心はもう動かなかった。


「…過去のことはもうどうでもいい」僕は言った。「俺には今、大切な人がいる。彩香という、本当に大切な人が。お前が俺にしたこと…絶対に忘れない。でも…だからと言って、お前を憎んでいるわけじゃない。ただ…もう、俺たちには関係ないんだ」


僕は彩香の手を握り、微笑んだ。「行こうか」


彩香は僕の手に自分の手を重ね、微笑み返した。二人で歩き出す。夕焼けが、僕たちの背中を優しく照らしていた。振り返らずに。前だけを見て。過去の出来事は、僕を形作った一部ではあるけれど、僕を定義する全てではない。僕は、彩香と共に、新しい物語を紡いでいく。それが、僕の選んだ道だ。

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