笑窪

月野志麻

笑窪

 息が詰まる。

 顔が火照る。

 バクバクと鳴る心臓がうるさい。

 耳が詰まったような感じがするのに、それ以上に周囲の音を聞き取ろうとする。

 瞳孔が開く。

 光を存分に取り込んだそれのせいで、世界は苦しいくらい輝いて見える。


 玄関の、古い引き戸が開く音がする。

 原稿用紙の上を走る鉛筆が、ガリガリと削るような音を出していることに、急速に戻される意識の中で気付いた。

 呼吸が苦しい。息を思いきり肺に取り込むと、喉がヒュッと変な音を鳴らした。黒い鉛のカスが散乱する原稿用紙の上に、頬を伝って落ちた汗が小さな染みを作った。


「ああ、先生。休憩ですか?」

「はい。集中力が、切れましたので、」


息を切らして話す私を、部屋に入って来た香子こうこさんは苦く笑った。


「息止めて原稿を書く癖、早く治したほうがいいですよ」


ほら、頬まで真っ赤にして。と言いながら、もうとっくに慣れたように、迷いなく視線を動かした。


「暑いなら暖房切りますか?」


六畳の、畳が敷き詰められた部屋の隅に置かれたストーブの前に立って香子さんが言う。


「いえ。たぶん、汗が引いたら寒くなりますから」

「そうですか? あ、今、ココア買ってきたので淹れましょう。頭を使ったあとは糖分が大事です」

「ありがとうございます」


いいえ、と香子さんが優しく笑う。ポニーテールに結われた長い髪をご機嫌そうに揺らしながら、黄味がかった白につゆ草が描かれた襖を丁寧に開け閉めした彼女が階段を下る音がする。


 その気配を見送って、一拍。ひとつ、溜息が漏れる。冬休み前に切るのを忘れた髪が鬱陶しい。汗で首に張り付いた髪を剝がすように掻き上げた。


「暑い……」


 小学生になる頃、祖父母が買ってくれた勉強机から立ち上がり、横にある窓へと近づく。リーフの柄が入った、型板ガラスの正方形をした窓は、囲む木枠が古くガタついていて、それを力任せに開けた。舞い入った冬の風が私の頬を撫で冷ましていく。背後で何かが落ちる軽い音がして振り返れば、鴨居に掛けていた制服のスカートが風に煽られたのか畳の上に落ちていた。


 開けた窓から薄っすらと話し声が聞こえてくる。また窓のほうを向いて下を見れば、香子さんが庭先で誰かと電話で話しているようだった。


 微かに耳に届く笑い声。笑うと頬に浮かぶ窪みが見えて、生唾を飲み込んだ。

 窓枠に腕を組むように置いて、そこに顔を乗せる。拗ねたように口が尖るのを自覚する。

 彼女が着るミルクティー色のスーツ。膝丈のタイトなスカートから伸びる足は、肌色のストッキングを纏っているだけで寒そうだ。実際に彼女は寒さを紛らわせるように、小刻みに体を揺らしている。

 それなら早く、この部屋に戻ってくれば良いのに。


「香子さん、ココアはまだ?」


 絶対聞こえないくらいの小さな声でボヤく。思いきり口角が上がったときにしか現れないあの頬の窪みには、眩暈すら感じる。それが愛のせいなのか、嫉妬のせいなのか、胃の中までぐるぐるして気持ち悪い。したくないと思いながら、聴覚は香子さんの話し声を極限まで聞き取ろうと研ぎ澄まされていく。


「はい、原稿は順調ですよ」


 そう聞こえて、その相手が会社の誰かだと勝手に予想して、私はようやく胸をホッと撫で下ろすのだ。それでも、白磁に桃色がうっすら差した頬に笑窪を作らせるくらいの会話を生み出せる人が、同じ会社にいると思うと、言いようのない霞が頭に掛かるのだけれど。



 小学生の頃、こっそりと父の書斎に入るのが好きだった。内容なんて全く理解ができていないのに、難しい単語が羅列する本に目を通しているだけで、随分と賢くなった気がした。年齢が上がるにつれ、自分の中の語彙が増え、知識が増えていくと、その本棚が宝箱のように思えた。小学校高学年になる頃には、私はすっかり本の虫になっていたし、中学校に上がる頃には、頭の中にある物語をノートに紡ぐようになった。


 中学三年生の冬。受験が目前と迫る中、出版社から連絡があった。半年前に出した文芸賞で、私は運よく大賞を取り、恋愛小説家としてデビューした。まだ年齢が若いということもあり、選考時に出版社では色々と協議が繰り返されたらしい。それでもこの作品は世に出すべきだと強く推してくれたのが、香子さんだった。私は香子さんのお蔭で小説家としてデビューし、彼女が私の編集担当となった。


 香子さんに初めて会ったのは、出版を公に広めるために行われた記者会見のときだった。それまでも香子さんとは電話で何度か話をしたことがあった。口下手な私の言葉を優しく救い、引き出してくれる優しい話し声のイメージそのまま、柔らかな笑みで香子さんは、田舎から出てきた私を駅まで迎えに来てくれた。


「何も緊張することはありません。あなたの心の中にある言葉を、そのままお話すれば良いのですから」


 会見が行われる、大きなホテルのホール。その中へ続く大きく重そうな……なんだかふっくらとした高級そうな布が貼られているドアの前で、香子さんは私の肩を撫でそう笑った。小首を傾げた彼女の、そのときはまだ、首元で切り揃えられたチョコレートブラウンの髪が細い糸のように揺れる。


「先生の作品は、本当に素晴らしい」


 パッと笑った香子さんの頬に、ぽこっと窪みが出来た瞬間、私の心臓が跳ね上がった。私には無いそれ。人は、違和感に強く惹き付けられる。私は初めて見る彼女の笑窪に、あっという間に心奪われてしまったのだ。


 香子さんの笑窪は不思議だ。いつもニコやかな彼女なのに、いつもそこにある訳ではない。思いきり口角の上がったときにだけ現れる。私はそれが見たくて仕方がないのに、でも、彼女を満面の笑みにさせるほどの面白い話が出来るわけでもないから、もどかしい。彼女との関係はもうすぐ丸二年になる。しかし私が香子さんの笑窪を見たのは、片手で数えられるほどだ。その発動条件は、未だ解明されていない。だからこそ見ると、私の胸はひどく搔き乱される。


 小説家としてデビューし、その後高校受験を終えた私に、両親は「小説家としての活動は勉学との両立が条件」と言った。それに反抗するつもりはなく、自然と長期休みが私の貴重な執筆期間となった。高校一年生の頃から香子さんはそのペースに合わせ、私とプロットの調整をし、締め切りを決める。高校一年生の夏休みから、香子さんは私の休みに合わせ、原稿が出来上がるまで私の家に滞在するようになった。


 両親には「先生に良質な執筆環境を提供したい」と長期旅行を提案し、家を空けてもらうように説得していた。両親もその機会をとても楽しみになるようになって、高校二年生の今年の冬休みには、香子さんと入れ違いに嬉々として出掛けて行った。


 私の食事や身の回りの世話は、香子さんが全てやってくれる。良質な執筆環境とはこのことを言うのか。しかし、年を増すごとに私の恋心は拗れ、想いを寄せる彼女と一つ屋根の下で生活することが、甘い苦痛となっていっていた。


 他人は、女性が女性に恋をするなんておかしいと言うだろう。私もそう思う。私は、私が執筆する小説の登場人物のように、運命の男性と出会い恋に落ちるものばかりと思っていた。それなのに、私の初恋は、香子さんという女性へと擦り寄っていってしまったのだ。同性同士の恋愛が悪いと言っているわけじゃない。ただ、これも、私の中で大きな違和感なのだ。違和感は、強く心を惹き付けるから。私は抜け出せなくなっているのかもしれない。これが恋だと実感する度、香子さんと話す度に一喜一憂する心が、苦しい呼吸が、火照る頬が、私が描く物語は所詮物語に過ぎないと言ってくるように感じる。

 筆を取る手が、日に日に強張っていく。


「先生、ココア出来ましたよ」


 十も歳が下の私を「先生」と呼ぶ香子さんの、柑橘のような声は私を深い湖の中へと誘うようだ。




紗々ささ、原稿は順調?」


 雪のチラつく昼下がり、生まれた頃から知っている幼馴染の恵梨香えりかに呼び出され、庭へと出た。ちょっと話そうよ、と私を出迎えた恵梨香は冷たい空気に鼻の先と両頬を赤くさせながら、生垣の椿をバックにそう言った。高校指定の紺色のコートにポケットに両手は突っ込まれている。赤と緑のチェックのマフラーは私が何年か前の誕生日に恵梨香にプレゼントしたものだ。吹いた北風が恵梨香の綺麗に薄茶色に染められた細い髪を揺らし、微かに見えた耳たぶにアメジスト色のピアスが光っているのが見えた。コートもマフラーも大して変わっていないのに、最近の恵梨香は垢抜けたと思う。私の髪は、汗で濡れ、整えられることもないまま。グレーのトレーナーに、高校の体育で使っている長いジャージのズボンを身に纏っている姿は、お洒落とは程遠い。


「紗々?」


 ハッと意識が戻る。恵梨香が眉を下げ、首を傾げて私を見ていた。


「原稿は……どうかな。最近、あんまり進まなくて、」

「そうなの? 私で聞ける話だったら、」


言いかけた恵梨香の言葉を遮ったのは、私の視線だったと思う。つられるように恵梨香が振り返り、「あ、」と声を上げて、ぎこちなく頭を下げた。


「こんにちは」


買い物袋を両手に提げ、買い物へ出かけていた香子さんが恵梨香に愛想よく挨拶をする。


「先生、ゆっくりお話されていて大丈夫ですからね」

「いいえ。私ももう戻ります」

「そうですか? 息抜きも大事ですよ」


私は先に戻りますね、と香子さんはコロコロと鈴の音のように笑って、もう一度私たちに会釈をしてから家の中へと入っていった。


 その姿を見送り、ぽつり。


「私、あの人嫌い」


恵梨香は何でもないことを言うように、静かにそう言った。


 香子さんと嫌いだと言った恵梨香には、香子さんはとても良い人だと一生懸命語った。恵梨香は早々に「紗々にとって大事な人だということは分かってる」と遮って、「原稿終わったら遊びに行こうよ」と笑った。やっぱり恵梨香にとっては、大したことのない会話だったのかもしれない。


 何だかどっと疲れてしまった。心の中は未だ靄が残っている。家の中に戻り、居間のこたつに足を突っ込んで、そのまま天板に顔を突っ伏せば、居間から続くキッチンから香子さんが歩いてくる足音が聞こえた。


「先生。どうされました?」


 香子さんの声と共に甘いココアの匂いも運ばれてくる。顔を上げれば、白いカップに注がれたココアが温かい湯気を昇らせていて、中を覗き込めば白いマシュマロがぷっかり浮かんでいた。


「いえ……別に」

「恵梨香ちゃん、でしたっけ? 喧嘩でも?」


私の向かいから香子さんはこたつに足を入れる。私に差し出したマグカップと同じデザインのものを両手で包み込むように持って小首を傾げた。


「喧嘩は別に、していません」


冷えた香子さんの足が、こたつの中の温もりを薄くさせる。彼女の足から逃げるように、自分の足を極限まで折りまげた。万が一にも間違って、私の足が彼女にぶつからないように。ごそごそと身じろぎして姿勢を正す。


「ただ、なんて言ったらいいか」


香子さんのことが嫌いだって言うから、思わず反論してしまったなんて口には出来ず。


「あの子が急に大人びたから、自分が置いて行かれているようで寂しいのかもしれません」


ヨレたトレーナーの首元を引っ張る。


「だからと言って、おしゃれの仕方も何も分からないし」

「私は先生のこと好きですよ」」


ふぅふぅ、と、香子さんはカップの湯気を飛ばすように息を吹く。「え、」と思わず言葉が零れた。彼女はカップへと落としていた視線を上げ、私を見ると、淡いピンクのグロスで濡れた唇の両端を引き上げる。


「そのままの先生、私は好きです」


好き。紡がれた言葉が途端に頭の中で繰り返される。火でも炊かれたように全身に熱が巡る。それは顔まで一気に上り詰め、勢いよく下を向いた。この好きは、そういう好きではないと頭はちゃんと理解しているのに。


「好き、なんですか?」

「ええ。その感性がとても可愛らしくて。大人と子どもの間で揺れ動く、その純朴な心があるから、あのような良質な作品が描けるのでしょう。無理して大人になる必要はありません」

今の先生だから、今の作品があるのです。と、香子さんは優しくも力強くそう言い切った。

「そう、ですか」


喉がひどく乾く。グッと唾を飲み込み、絞るように出した言葉はひどくつっかえていた。


 照れ隠しで口を付けたココアは、マシュマロが溶けてとても甘かった。私は好きですよ、と言った彼女の顔を直視は出来なかったが、顔を逸らす瞬間、その頬にはあの笑窪があったように見えた。

 好きだと言われた心は、めちゃくちゃなリズムを奏で、痛いくらいだ。



 その頃から私の執筆ペースは目に見えて遅くなっていった。

 壁に掛けられたカレンダーが新しい年を刻みだし、冬休みの終わりが見えてきた。

 私はあと数日でこの原稿を終わらせなければならないし、香子さんは出版社のある東京へと戻らねばならない。

 その日にちが迫れば迫るほど、寂しさに呼応するように鉛筆を持つ手は重たくなる。                         など言えば、可愛らしいかもしれないが、心の中はそうじゃない。好きだと言ってくれた日から、私の中の恋心は狂ったように膨らんでいく。それは胃を圧し潰し、心臓を圧迫し、息が止まりそうな感覚。


 彼女が誰かと電話していると気になって仕方がない。彼女が電話をする度に、その頬に笑窪が出来ると気付いたのはいつだったか。私では簡単に引き出せないそれを、いとも簡単に作らせるのは誰だ。


 頭の中で思考は黒い糸となり絡まっていく。原稿用紙のマス目からはみ出した字は一本の線になり、頭の中のそれを再現するように絡まっていった。力に耐えきれなくなった鉛筆の芯は、パキッと小気味良い音を鳴らし芯を飛ばした。


 息が詰まる。

 顔が火照る。

 バクバクと鳴る心臓がうるさい。

 耳が詰まったような感じがするのに、それ以上に周囲の音を聞き取ろうとする。

 外から微かに聴こえる香子さんの笑い声に気が狂いそうだ。頭を搔きむしるように抱える。


 玄関の、古い引き戸が開く音がする。

 とんとんと軽快に階段を登って来る。


「先生、原稿はいかがですか?」


 開かれた襖。それと同時に聞こえてくる香子さんの、いつもと調子の変わらない声。振り向いた私は、「書けません」と絞り出すことが精一杯だった。


「あら。一度、休憩されますか?」

「いいえ。そうではなくて!」

「そうではなくて? どうされたんです?」


先生、と私の傍に立った香子さんの手が、私の背中を撫でる。彼女がずっと外にいたせいか服越しに伝わるその手は冷たく、じんわりと私の体温を吸い取っていくのに、強く打ち鳴らす鼓動のせいで熱はどんどんとぶり返されていく。


「苦しいんです、あなたを見る度に。得体の知れないモヤモヤが、私の中でどんどんと膨らんでいく」


 心臓が掴めるなら、掴んでこの鼓動を抑えつけたい。ギュっと握り込んだトレーナーの胸元に強く皴が寄る。香子さんは、ただジッと私の言葉に耳を傾けている。うっすらとその顔には笑みが浮かんでいて、それに気付いた私は苛立っていく。


「なぜ? 私には出来ない。香子さんの笑顔が見たいのに、私には引き出せないことが腹立たしい。それなのに、いつもあなたは誰かと電話する度に、私には見せない笑顔をする」


 名前も顔も、何も知らないアイツはいとも簡単に。私はどんなに努力しても、あなたのそれを見ることができないのに!


 香子さんに思わず縋りつく。立ち上がった拍子、背が伸びて買い直した、勉強机にはマッチしない椅子が倒れ、大きな音を鳴らした。いつもキチンと着こなされている香子さんの薄茶色のジャケットが乱れても、彼女は身動ぎひとつしない。


「私は知らない、こんな気持ち。恋の根っこにあるものがこの気持ちなら、私が今まで書いてきたものは何なんだ? どれもこれも、現実味のない、ただの空想じゃないか」


 恋は苦しい。

 息が詰まる。

 顔が火照る。

 バクバクと鳴る心臓がうるさい。

 耳が詰まったような感じがするのに、それ以上に周囲の音を聞き取ろうとする。

 瞳孔が開く。

 光を存分に取り込んだそれのせいで、世界は苦しいくらい輝いて見える。

 それなのに、深い深い、どす黒い何かに溺れていく。

 恋は底のない感情に落ちるものだと体感する。


「香子さん! 私は、香子さんのことが、好きです。愛してる」


愛が何かも分からないけれど、私はこの気持ちこそが愛だと表現する。この心を占める黒い何かが、きっと愛の正体であると。初恋しか知らない私は……。


 香子さんが可愛らしい声を上げて笑った。

 やっと定まる焦点が彼女の顔を正確に捉えた。


「先生、」


 香子さんが愛らしく小首を傾げる。炊いたストーブのせいか、香子さんの頬はうっすらと紅潮していた。


「先生が、私に愛を捧げることで、素晴らしい小説が書けるなら、私はその愛を受け入れましょう!」

息も絶え絶えに、香子さんが、彼女らしくなく、興奮した子どものように紡ぐ。


 ハッと意識が急速に覚めていく。

 パッと笑った彼女の頬に浮かんだ笑窪。それは窪みを益々深くしていく感覚がした。

 彼女の顔が見れなくなった。

 あの窪みに、全部飲まれてしまったんだ。





 情けない声を上げた。彼女を突き飛ばすように。驚いた猫のように飛び退いて、部屋を飛び出して階段を駆け下りた。


 怖いと思った。違和感は人の心をひどく惹き付けるけれど、大きすぎる違和感は恐怖になる。彼女の「好き」は私を見て言ったんじゃない。あの笑窪は、私が引き出したんじゃない。あの、目を輝かせた彼女の一言で気付かされた。ずっとあの人はそうだった。


 あの人が好きなのは、あくまで私の小説だ。あの言葉の意味も全部そうだ。彼女が電話でいつも話をしていたのは誰だ? 聞き耳立てた、彼女の話をよく思い出せ。そう、いつだって出版社の人間で、間もなく原稿が上がることを伝えて、その度に満面の笑みを浮かべていたじゃないか。


 言葉にならない叫びを上げて、雪がうっすら積もる道を駆ける。適当に足を入れたツッカケが脱げて転がっていく。それを見てか、犬か何かに、何かを言われたけれど、止まったら私の心は壊れてしまいそうだった。


 ぎゃあぎゃあ、と喚くカラスのようだ。堤防を勢いよく下り、川へと飛び込むように突っ込んだ。すっかり冷やされた川の水が私の肌に突き刺さる。あると思っていた川底は随分と深いところにあったようで、どぷんと頭の先まで水の中に沈んでいった。


 こんなものが恋だと気付いてしまった私を、そのまま沈めて欲しかった。


「紗々! 何してるの、バカじゃないの!」


 ひどく咳き込む。濡れた視界はボヤけ、声だけでそれが恵梨香だと気付く。


「こんな寒い日に、川なんて入ったらどうなるか、」


 そして私の思考は、あのとき私に吠えたのは犬じゃなくて、恵梨香だったと思い出す。

 堤防の枯れた芝がトレーナーを貫通してチクチクと痛い。ゲホゲホと私の上で咳き込む彼女は、コートまでびしょ濡れだった。


「恵梨香が羨ましい。ちゃんと大人になって、」


 私は十七になっても大人になれないから、きっとあんな恋をしてしまったんだ。


「もう、分かりもしない恋愛小説書くのはやめようかなぁ」


ふふふ、と変な笑い声が口から洩れた。


「紗々」と恵梨香が私の名前を呼ぶ。


「紗々の笑窪、私、大好きだよ。しっかり笑わないと出来ない笑窪」


 脈絡なく言われた、励ますように紡がれた言葉に、視界が急にクリアになった。私を見下ろす彼女は、昔と変わらない無邪気な笑顔だった。


「私にはないから。あの人には紗々と同じものがあって、だから羨ましくて、嫌いだった」


 嫉妬してたの。あなたに恋をしているから。と、恵梨香は言った。その瞳は光を目いいっぱい取り込んで、キラキラと輝いていた。そして、私の中に広がるあの靄の正体が嫉妬という名前だと、私はようやく気付いた。

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笑窪 月野志麻 @koyoi1230

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