いってらっしゃい
狄
いってらっしゃい
これから、不明瞭な世界を生きていく。
生活に困ったことはあまりない。片親だったけど、お母さんはすごく頑張り屋で、私の為を尽くしてくれた。
私は元来寡黙な性格で、ちゃんとしたお礼はできなかったけど、それでも感謝の意はちゃんと伝えていたつもりだ。
今年の夏はじめ。
街中が渚のムードで浮かれている時に、お母さんは殺された。私が夜シフトのバイトから上がって帰宅した時には、金品が綺麗になくなっていて、身体中をめった刺しにされたお母さんだけが残されていた。闇バイトとかいうやつだった。
葬式には、出なかった。
出ようという気にもならなかった。
相続とかの処理は私には分からなかったから、全部親戚のおじさんおばさんに任せた。同時に私を引き取るとも言われたけど、家を残したくない一心で、生活費の援助だけをしてもらい、独りで暮らすことにした。大丈夫、上手くやるよとか、できるはずもないのに、無責任に言って。
学校からは二週間の公欠をもらったけど、そのままずるずると二か月くらいは休み続けた。
学校の夏休みが終わる頃――。
私はその日を機に学校へ戻ることにした。休んでいる間に十六の年を越したけど、めでたいなんて感情は忘れていた。
お母さんのいなくなった今、広さを持て余した家の中で、寝惚け眼を擦りながら、鞄に筆箱と菓子パンを詰め込む。
玄関の前、扉の摺りガラスから滲む朝日が鬱陶しい。
ローファーのつま先をトントンとタイルに打ち付けて、踵を靴の中に収める。
――ローファーが傷むわよ。
お母さんは苦笑まじりに何度もそう言った。結局、一度も守ったことはなかったけれど。
スマホのアラームが鳴る。
「07:30」
朝礼三十分前――。これで目を覚ませば、遅刻確定だ。馬鹿ばかしいと、そのアラームを素早く切る。
玄関を出れば、外は日常――。
天気は良いし、セミの声がよく聞こえる。いつも通りの、何も変わらない日だ。
……でも、足が竦んで、上手く立てなかった。
どうして? ねぇ、なんで?
なんでお母さんが。なんで私のお母さんが殺されなくちゃいけないの?
全部の準備が整って、あとは出るだけ。なのに、今になってこれまでの疑念と不満が大波のように込み上げてくる。
――朝に映える、元気な笑顔。
――夜に煌めく、優しい言葉。
――冬に見えた、あなたの涙。
――夏に消えた、あなたの姿。
大波が堤を超えて、私の頬を濡らす。
一度泣き崩れたら、もう止まらなかった。扉一枚も越えられない孤独の中で、嗚咽を洩らしながら泣き叫ぶ。
「おかあさんっ! ねぇ、おかぁさんっっ!」
何度、何度呼んでも満足できなかった。幻聴でもいいから。返事してよ、ねぇ――! お母さんがいないなら、明日なんていらないよ!
朝日が雲に重なって、
鞄を思い切り放り投げて、靴も脱いで叩きつけた。
ほら言ってよ、傷むわよって!
いつもみたいに、いってらっしゃいって言ってよ!
ねぇ…………。
結局、どれだけ喚いても、ぜんぶ無駄だった。
一日中ずっと玄関で項垂れているだけだった。今日も、無断欠席だったな。
ピピピ――、アラームが鳴る。
「18:30」
バイトの時間……。休んでいる間、一回も行っていなかったのに、毎日この時間にちゃんと鳴っていた。
西日も舂いて、自然の光を失った今、部屋はもう真っ暗だった。
食欲もなく、私は涙で汚れた制服のまま、寝室を目指してふらつく。覚束ない足取りで、階段を何回か躓いた。
二階へ上がり、ドアを開けて、ベッドに雪崩れ込む。泣いた余韻のしゃっくりが止まらなくて、それを
もう、ほんとにいや――。
それでも、日常には抗えなかった。あれほど明日を嫌ったのに、朝日は昇ってやってきた。
今日こそは……、行かなきゃ。
まだ覚束ない足許を、必死になって堪える。
階段を慎重に降りると、昨日の惨状がそのまま、ありありと放置されていた。
壁に打ち付けられた鞄。床に叩きつけられて散らばったローファー。ぶつかって落ちた、毛並みのリアルだったシュナウザーの置物。
どれも朝の気配を浴びて、私に訴えかけていた。
今日は、行けと。外を、出ろと。
歯磨きと洗顔を済ませて、再び玄関へ戻る。そして、何も言わずに、黙々と片づけにとりかかった。
粉々になった置物を掃けて、靴を並べる。それから鞄を手に取った時、外側のポケットに入っていた四つ折りの紙切れが、かさっと音を立てて落ちた。
どこか見覚えのあるそれを手に取って、手紙の皺を両手で伸ばす。
『凛へ――。高校はじまって最初のお昼ご飯。ちょっと豪華にしましたっ! しっかり元気をつけて、午後もがんばってね! たくさんお友達ができますように~』
最後に描き慣れたオリジナルのキャラが添えられていて、「ガンバレ!」なんて吹き出しがつき足されていた。
それを見て、はっきりとした記憶が蘇る。
高校に上がって初めてのお昼ご飯の時に、これが弁当の袋に織り込まれていて、早速できた友達を前に恥ずかしくなって鞄にしまったこと。
あの時はもう中学じゃないんだからって恥ずかしくなったけど……。
理由は全く分からなかったけど、なぜだか綻びが溢れた。涙が視界を滲ませたけど、昨日のそれとは少し違った。
一粒、手紙に淋漓して、私は目許をぐっと拭う。笑っていることが可笑しく感じられて、でも嫌ではなかった。
メイクはしてないし、髪もまともに整えてないけれど、外へ出る意気はあった。
手紙をポーチの中に入れて、それを丁寧に鞄へしまう。
ピピピ――。
「07:30」
昨日と同じ時間。
今朝も昨日と変わりない。朝日が眩しくて鬱陶しいし、セミの声は夏の息苦しさを思い起こす。
ローファーをトントンと打ち付けて、踵を収める。それから僅かに動きを止めたけど、やっぱり何も聞こえない。
言ってよ、いつもみたいに。
そう一人で
―― 。
うん、いってきます。
いってらっしゃい 狄 @dark_blue_nurse
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