第1章: 嵐の前の静けさ 第一節

 朝の空が白み始め、森の冷たい空気が静かに揺れる。鳥たちが一声、また一声とさえずりを交わし、小川のせせらぎがその間を縫うように響く。草葉が風にそよぎ、わずかに湿った香りを運んできた。

 焚き火の残り火は赤い点となって揺らめき、木々の影をほんのりと踊らせながら、薄れる朝日に吸い込まれていく。だが、そのかすかな光は冷え切った体を癒やすにはほど遠かった。ただ、肩に掛けた薄手の毛布を引き寄せても、この寒さを完全に追い払うことはできない。

 気づけば、俺は無意識に体を動かしていたらしい。目を開けた瞬間、自分がバルグの毛皮の中に潜り込んでいることに気づいた。赤褐色の肌がすぐ目の前にあり、そのぬくもりがじんわりと全身を包み込んでいる。

 その感覚は驚くほど心地よかった。冷たい空気の中で、唯一の避難所のように思えるぬくもりだった。一瞬、ここが天国のようにさえ感じられた。だが、現実はすぐにその幻想を打ち砕いた。


「……なんだ、これは。」


 俺は小声で呟く。視界に広がるのはバルグの広い背中と、力強い腕。毛皮越しに感じていたぬくもりが、彼の筋肉から来ていることに気づいた瞬間、頭の中が真っ白になった。


「嘘だろ……こんな状況、誰かに見られたら――いや、絶対に見られたらまずい!」


 俺は慎重に毛皮をめくりながら、音を立てないように這い出した。背後ではバルグが穏やかな寝息を立てている。どうやら彼は、俺が毛皮に潜り込んでいたことなど夢にも思っていないらしい。毛皮のぬくもりに感謝しつつも、バルグが目覚める前に逃げ出さねばと必死だった。筋肉に囲まれて暖を取る詩人――誰がこんな状況を詩にしたがる?


 焚き火の向こう、小川のほとりでガレンが顔を洗っているのが見えた。冷えた朝の空気の中、彼の動作は驚くほど静かで整然としている。水をすくい上げる手は無駄がなく、濡れた短髪が朝日にきらめいている。彼の背筋はまっすぐに伸び、まるでその姿勢そのものが彼の信念を物語っているかのようだった。


 その様子に一瞬見惚れてしまった自分を振り払いながら、俺は胸を撫で下ろした。バルグの毛皮に潜り込んでいたことがバレていないと確認できたのは、せめてもの救いだった。


「ふう、バレていないな……危ない危ない。」


 だが、頬が熱くなっているのに気づき、さらに恥ずかしさがこみ上げた。


「ふぁああああ!」


 背後から豪快な欠伸あくびが響き、俺は思わず振り返った。毛皮の山がゆっくりと動き、赤褐色の肌が現れる。バルグが身を起こしながら、無造作に肩に毛皮を掛け直していた。朝日に照らされたその輪郭は、力強さと安堵感を同時に感じさせる。


 彼は大きな手で顔をこすり、切れ長の瞳をうっすらと開いた。まだ夢の中にいるようなぼんやりとした表情だったが、広い額と厚い唇が野生的な力を象徴している。それでも、寝起きの無防備さが、彼のいかつい外見に不思議な親しみを添えていた。


「おい、詩人。まだ寝てるのかと思ったが、起きてたのか?」


 彼は伸びをしながら俺に声を掛けた。


「え、いや……その、冷えたからちょっと動いてただけだ。」


 俺は焦りを隠すため、リュートを手に取り、適当に弦を弾いた。


 バルグは焚き火のそばに腰を下ろし、毛皮の中から袋を取り出して干し肉を掴んだ。ナイフを取り出し、それを丁寧に削ぎ落としていく。その動作は豪快ながらも無駄がなく、見ているだけでどこか安心感を覚えた。


「ほら、詩人。食え。朝飯ぐらいはしっかり取っとけよ。」


 バルグが干し肉を手渡してきたので、俺は受け取りながらその肉の輝きを眺めた。朝日に透けた薄切りの干し肉が、焚き火の光と混じり、妙に神々しく見える。


「おい、詩人。古の民エルフの娘にフラれたって話は本当か?」


「フラれたって……いや、最初から会えてすらいないさ。」


「なら、お前の歌のせいだな!」


 バルグが豪快に笑う。


「俺の歌を悪く言うな。だが……確かに、このリュートには古の民エルフの耳を喜ばせる何かが足りなかったのかもな。」


「もし会えてたら何を歌った?」


「そりゃあ、恋の歌に決まってるだろう。」


 ガレンは手を軽く拭きながら戻り、焚き火のそばにしゃがむと毛布を丁寧に畳み始めた。その仕草は一切の乱れがなく、戦場でも日常でも変わらぬ規律を感じさせるものだった。


「朝食の支度は進んでいるのか?」


 彼が静かに言葉を投げかける。その声は低く落ち着いていて、冷えた朝の空気に穏やかな重みを与えていた。チョコレート色の肌が朝日に照らされ、滑らかに光を反射している。濡れた短髪は几帳面に整えられ、その端正な顔立ちはどこか彫刻のような冷静さを感じさせた。

 深い茶色の瞳は、一瞬で周囲を見渡して全てを把握するかのような鋭さを帯びているが、その奥にわずかな物憂げな影が宿っている。その陰りは、彼が背負う過去の重さを暗示しているようだった。


「進んでるさ。俺が焚き火を温め、詩人が――何してるんだ?」


 バルグがニヤリと笑いながら俺をからかう。


「俺はリュートを磨いているんだよ。こいつは俺の相棒だからな。」


 俺は軽く弦を弾きながら返事をしたが、まだ毛皮の中のぬくもりが頭を離れない。筋肉と規律に囲まれる中で、俺の存在がどこか軽く感じられる――だが、それが詩人たる俺の特権だろう。真剣に生きる者たちの間で、俺の役割は歌い続けることに他ならない。


 焚き火の炎が再び勢いを取り戻し、朝の光が森全体に広がった。鳥たちのさえずりが活気づき、三人それぞれが思い思いに朝食を取っている。干し肉を一口かじると、少し硬いが塩気がちょうど良い。焚き火の煙がほんのり香ばしさを加え、疲れた体を癒すようだった。ガレンは口にすることなく手元のカップに水を注ぎ、それを慎重に飲む。その姿はまるで儀式のようで、俺とバルグの無造作さとは対照的だった。


 リュートの音色が夜明けの空気に溶け込み、囁きはまるでその旋律を追うように響いた。それは見えざる糸となり、俺たち三人の運命を紡ぎ始めているかのようだった。


「それにしても、心地いい音だな。」


 バルグが豪快に笑いながら言った。ガレンは視線を火に落としたまま、僅かに口元を緩める。


 彼らの言葉に、俺は思わず笑った。運命の旅路は、こんな些細ささいな朝から始まるのかもしれない――そんな予感が心を満たしていた。

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星の織り成す物語「詩と剣編(仮)」 @enchanted_canvas

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