プロローグ二節:銀樹の夢と霧の囁き――詩人、迷走す

 星霧せいむの森――それは「銀樹ぎんじゅの聖域」と呼ばれる神秘の地。

 古の民エルフが住むと言われるその森に足を踏み入れた時、俺は確信していた。これは俺の人生を変える冒険になる、と。


「俺の歌に惚れた古の民エルフの娘が現れてさ、『この詩人と結婚したい!』なんて言い出す――いや、逆に俺が惚れちゃうパターンか?」


 そんな妄想をしながら霧の中を進んだものの、実際に現れたのは冷たい霧と無数の倒木とうぼく、そして腹を空かせた野生の鹿だけだった。


「これが星霧の森の歓迎ってやつか……」


 森の中で一人呟いたが、返事はなかった。ただ霧が静かに揺れるだけだった。


 そんな理想と現実のギャップに打ちのめされながらも、俺は歩き続けた。

 だが、星霧の森が本当に試練を与えてくるのはここからだった。食料は尽き、道は見失い、霧が絡みつくように肌を撫で、まるで見えない何かに試されているようだった。気づけば、ボロボロになったリュートを抱えながら、空腹と寒さに耐える毎日が始まった。


「これで古の民エルフに出会えたら、それこそ奇跡だな。」


 そんな自虐混じりの言葉を呟きながら、森の出口を探し続けた。


 そして、あの夜だった――霧の中で囁きを耳にしたのは。

 それは言葉ではなく、旋律のようなものだった。耳元で囁かれたその音は、風とも違い、ただの幻聴とも思えなかった。胸の奥に響くような不思議な感覚だった。


「おい……誰だ?」


 思わず声を出して振り返ったが、背後には何もなかった。ただ霧が揺れるだけだった。


 森を抜けるまで、その囁きは途切れることなく耳に響いていた。

 言葉にならない旋律のようなその音は、俺を冷やかすようでもあり、励ますようでもあった。それが何を意味しているのかは分からない。だが、星霧の森を抜け、ようやく人里の近くにたどり着いた今でも、その囁きは耳から離れない。


 今夜は森を抜けた道沿いの野営地で夜を過ごしている。

 焚き火の炎を見つめながら、俺はリュートを弾いた。旋律が夜空に溶け込み、耳の奥で響く囁きと重なり合う。


「なあ、俺に何を求めてるんだ?」


 ぽつりと問いかけたが、返事はない。ただ耳の奥で微かな音が揺れただけだ。


「星霧の森がこんなにも過酷だって分かってたら、もう少し準備をしてたさ。」


 自嘲じちょう気味に笑いながら、焚き火に小枝を放り込む。


「それでもさ……期待してたんだよ。古の民エルフに会えるかもしれないってな。俺の歌が彼らに届いてさ、『なんて美しい旋律だ』なんて絶賛される――その妄想だけで腹を満たしてたようなもんだ。」


 リュートの弦を軽く弾く。音が夜空に吸い込まれていく。


 囁きが音程を変えるように響く。それが肯定か否定か、俺には分からない。

 だが、確かなのは、この音が俺の旅を少しずつ変えつつあるということだ。


「まあ、どっちでもいいさ。」


 俺はリュートを抱え直し、星空を見上げる。


「歌が途切れない限り、俺も歩き続ける。それが詩人の生きる道ってやつだからな。」


 囁きはそれに応えるように揺れた気がした。

 囁きがわずかだが音程を変えたその瞬間、焚き火の向こうから足音が聞こえた。

 リュートの音色が夜の静寂に溶け込むと、それに引き寄せられるように二つの影が現れた。ひとりは背の高い筋肉質な男で、動物の毛皮をまとい、大きな斧を肩に担いでいた。もうひとりは鎧を纏い、背筋を伸ばして歩く男だ。彼の目には、どこか失ったものを抱えたような深い陰りがあった。


「おい、こんなところで一人で歌ってるのか?」


 斧を担いだ男が声をかけてきた。口元には軽い笑みが浮かんでいる。


「まあな。」


 俺はリュートを抱えたまま肩をすくめて答えた。


「歌でも歌わなきゃ、空腹で気が狂いそうだからな。」


「ほう、それで古の民エルフに惚れられたか?」


 その言葉に、もう一人の鎧の男も軽く口元を緩めた。


「そうだな!」


 俺は冗談に乗るように、リュートをかき鳴らしながら続けた。


「彼女たちが俺を銀樹の聖域で待ってるはずだったんだ。だが実際は、腹を空かせた野生の鹿が俺を睨みつけてただけだよ。」


 その言葉に、斧の男が腹を抱えて笑い出す。


「よしよし、古の民は会えなかったが、俺たちが代わりに相手をしてやるよ。お前が孤独で死なないようにな!」


 そう言いながら、斧の男は背負っていた袋から干し肉を取り出し、俺の手に押し付けてきた。


「ほら、これでも食え。詩人ってのは腹が減ってたら歌えねえだろ?」


 俺は一瞬驚いたが、すぐにリュートを横に置いて干し肉に手を伸ばした。


「……お前ら、いいやつだな。」


 斧の男は豪快に笑い、彼らは火の側に腰を下ろし、それぞれの武器を地面に置いた。

 斧の男は、名前をバルグと名乗った。成人の儀式として故郷を離れ、旅を続けている最中だという。一方、鎧の男――ガレンは、故郷を滅ぼされ、アンデッドの軍勢に対抗する使命を胸に旅をしていると話した。


「それで、お前は何者だ?」


 ガレンが静かに尋ねる。その瞳には、俺をただ見るだけでなく、試すような鋭さがあった。


「俺か?」


 俺はリュートを軽く弾きながら微笑む。


「ただの詩人さ。道に迷って、古の民エルフにも会えず、空腹で腹を鳴らしてるだけのな。」


「いやいや、ただの詩人がそんな詩を歌えるわけないだろう?」


 バルグがリュートを指差し、笑いながら言う。


「その音色、まるで星霧の森の霧が寄り添ってるみたいじゃないか。」


 その言葉に俺は一瞬言葉を詰まらせた。彼が何を意味しているのか、自分でも分からない。だが、リュートの音と耳の奥で響く囁きが、不思議な調和を生んでいるのは確かだった。


「星霧の森はただの霧ではない。その中を進む者には、それだけの覚悟が必要だ――お前にはそれがあったということだ。」


 ガレンが静かに言った。その声には、からかいではなく、純粋な敬意が込められている。


「……あんな霧の中を、一人で進んで無事に戻ってきたとは。道に迷ったとはいえ、お前はただの詩人じゃないようだ。」


 彼の言葉に、俺は一瞬戸惑った。誰かに褒められるために森に入ったわけじゃない。ましてや、勇気があるなんて言われる筋合いもない。だが、その眼差しには嘘がなかった。


「まあ、俺はただ古の民エルフの娘と会いたかっただけだ。」


 俺は肩をすくめて冗談めかして言った。


「けど、そうか……俺ってそんなに勇気があるように見えるのか?」


 ガレンは口元を少し緩めて続けた。


「星霧の森は試練を与える場所だと聞く。だが、その試練を越えた者は、必ず何かを手にして帰ってくるとも言われている――お前にとって、その何かが何なのかは分からないがな。星霧の森で何があったんだ?」


 ガレンが真剣な眼差しで尋ねてきた。


「何があったって――何もないさ。」


 俺は苦笑しながら言葉を返す。


「ただ道に迷って空腹に耐えただけだ。それだけの話だよ。」


 だが、心の奥底では、自分がその答えを否定しているのを感じた。星霧の森で聞いた囁き。それはただの風の音ではなく、俺の中に何かを残している。だが、それをどう説明すればいいのか、自分でも分からなかった。


 その夜、三人で焚き火を囲みながら話を続けた。

 バルグの笑い声、ガレンの静かな語り、そして俺のリュートの音色が夜空に溶け込んでいく。囁きは相変わらず耳の奥で響いていたが、それがどこか安らぎを与えてくれるように感じた。


 彼らと共に旅を続けることが、なぜか自然な流れに思えた。

 囁きは何も言わない。ただ、リュートの音色が変わるたび、それに導かれるように音程を変えた――まるで、この旅の行方を暗示するように。


「さあ、明日からどうする?」


 バルグが言う。「詩人のお前が旅の目的を決めてくれ。どうせ俺たちには行くあてなんてないからな!」


「そうだな……」


 俺は少しだけ考え、リュートを弾き始めた。


「じゃあ、英雄を探す旅ってのはどうだ? それで俺が歌を紡ぎ、彼らの物語を世に広める――ってのはどう?」


「英雄か。」


 ガレンが呟きながら、遠い目をする。


「それなら、この俺が適任だな。」


「おいおい、俺も英雄の資格はあるだろう?」


 バルグが笑いながらガレンに言い返す。


 こうして、星霧の森を越えたばかりの夜、俺たちの奇妙な旅が始まった。

 囁きは、彼らと共に歩むことを告げているかのように、再び音程を変えた気がした。

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