第3話


 廊下に飛び出していた。

 左右にさっと視線をやると、すでに遠くの階段を上階に瞬く間に駆け上がっていくその姿が見えた。相変わらず、足が速い。

 フェルディナントは舌打ちをして、駆け出した。

 逃亡者というものは、普通上階にはあまり逃げないものだ。大概は外へ逃げたいから、下へ行く。しかし、確かにこのまま直接下へ行っても警備の兵は階下の方が遙かに多い。すぐに捕まるだろう。 その分、上は場所によっては手薄だ。

 王城は広く、身を隠せる場所も多い。

 そうして時間稼ぎをしている間に、あいつならば警備の隙を突いて逃げるくらいのことは出来るだろう。初めて会った時もそうだった。

【仮面の男】は戦い慣れていて、思考は氷のように冷静だった。

 駆けながら、フェルディナントは考えていた。

 そうだ。

 あの男が、ヴェネト着任当初に城下で会ったあの男なら、以前王宮に出てイアン・エルスバトに追われた男と同一人物のはずだ。

(塔から落ちて、死んだんじゃなかったのか?)

 生きているはずがない、と結論づけたはずだ。

 実際、今日城に来て、フェルディナントも例の西の塔を見に行った。湿地帯に面していて、城でも最も高い見張りの塔である。あそこから落ちて生きているはずが無いと、間違いなくそう思った。

 では別人なのか? という問いに考え巡らせて、すぐに否定する。

 さっき一瞬目が合った時、仮面越しにも城下で会った人間だと分かった。

 強く感じたのだ。

 それに相手もフェルディナントを見抜いたようだった。

 階段を駆け上がると、すでにあいつなら姿を消しているかもしれないと、一番最悪の可能性も過ったのだが、視線を走らせた時――人気のない王宮の、長い廊下が遠く続いていく通路を背景に【仮面の男】が立ってフェルディナントが来るのを待っていた。

 彼には、そう思えた。

 見やると、仮装用の靴が邪魔だったらしく、脱ぎ捨て、横に放り投げるのが見えた。

 カシャン……! と音がして、輝く何かがそこに散らばった。

 靴に付いていた宝石の飾りだろう。

 その時、フェルディナントは初めて【仮面の男】の姿に初めて気づいた。

 美しい靴を脱ぎ捨てたとはいえ、身に巻き付けるように纏う、月の女神の仮装。

 薄い、繊細な布が微かに月の光の色で染められている。

 月は姿を変えるもの、とはよく言ったもので、城下で会った時の黒一色の纏いとは全く違う。

 花のように型で広げられたスカートは長い繊細なレースが重ねられて、垂れ下がっている。靴を脱ぎ捨てた、長い足の形が影のようにはっきりと見えた。

 心を見透かせない、月の女神セレネはほとんどあるかないかという微笑を浮かべている。

 確かに仮装なのだから、女の姿の仮装に化けることは出来る。【仮面の男】を城が警戒しているのだから、優雅な女の出で立ちで現れれば、欺きやすくはなる。

 フェルディナントはその出で立ちを見た時、不思議な感覚を覚えた。

 月色の纏いを銀麗の装飾品で飾り立て、外目からは、完全な女に見えた。

 見える足首や、腕も、細い。

 顔など分からないのに、きっと、ひどく美しい女なのだろうと、何故かそう思った。

 そういう雰囲気が彼女にはあった。

 ――だが、女に見えるはずなのに、どこか自分は、彼が男であると確信していて、自分でも不思議だった。

 城下で彼と相見えた時、その戦闘力を見ていたからかもしれない。

 身体能力において、警邏隊どころか、フェルディナントすら上回った彼が、実は女性であったなどと、信じられないのもある。

 女であるはずがない。

 女であったら……恐ろしいことだ。

 得体の知れない恐怖を覚えた気がした。

 手の中に短剣を構えるのが見えた。

 あの、三角刃の武器ではなかった。

 今日の衣装は手首が見えた。あの弓も今日はない。

 嵐の城下町で会った時と何もかもが違う。

 それでも、あの時の人間と同じだと、フェルディナントの本能が確信している。

 実のところ、再び会いたいと、ずっと思ってきた。

 稀な才能を持った人間だとすぐに分かったからだ。

 そんな君が、何故夜陰に乗じて殺しなど重ねるのかと、尋ねたかった。

 望みはなんだと。


『――それには及ばないよ』


 あの時響いた、凜としたあの声を、まだ覚えている。

 意志の強そうな、迷いのない口調。

 ……不思議な人間だ。

 女のような優美さも持ちながら、少年のような気高ささえ纏う。

 あの声がもう一度聞きたいとフェルディナントは思った。

 そして、彼が彼であると確信したい。

 この美麗な女神の纏いに化かされるのではなく。

「……前にも言ったが、俺は警邏隊の人間じゃない。

 奴らを捜査する側の人間だ。一度、お前と話がしたい。

 守護職として、これまでの罪を全て見逃すことは出来ないが……、話している間はお前を捕縛もしないし、他の人間にも指一本触れさせないことは誓う。

 話のあと、再び斬り合うことになるかもしれないが、会話をしている間は少なくとも、自由は保証する。

 場所を変えて、話さないか。今なら、」


 出来るだけ静かな声で語りかけたが、フェルディナントは言葉を結べなかった。

 言葉を遮るように飛んできた短剣を弾き返そうとして、相手の手首が、クッ、と返ったのが見えた。

 短剣の柄に、長い布が巻き付けられていて、以前振り回していた武器のように、短剣の軌道が変わった。上空に跳ね上がり、そこにあった小型のシャンデリアを破壊する。

「!」

 弾けたガラスが雨のように降り注いでくる。

 一瞬、黒衣で衝撃を避けたが、その隙に【仮面の男】は廊下を駆けていく。

「くそっ! 駄目か‼」

 どこまでも寡黙な男だ。

 イアン・エルスバトに西の塔まで追い詰められて、塔から落ちた人間と本当に同じなのか、どうしても確かめたい。

 神聖ローマ帝国にも優れた軍人は山ほどいるが、あれほど有能で、才覚のある戦士は、彼の国でさえ、珍しいほどだ。

 自らを言い訳のように語るならば、沈黙或いは死を迷いなく選んでみせるとは。

 フェルディナントはもう、彼に言葉で語らせるのは諦めた。

 心が決まっていないのは自分の方だ。

 優れた相手と戦う為には、自分こそ集中すべきである。

 ヴェネト王宮は多層的な、非常に複雑な内部をしている宮殿だった。

 階によって、回廊のように四方へ続く道がある階と、そうでない階もある。

 この階は運悪く、四方に回廊が続き、また途中で各方面に枝葉のように道が分かれる階だった。

 ――いや、もしかしたら最初からそれを見越して、この階に逃げ込んだのではないかと思うほどだ。

 回廊を回ると、守備隊の人間が二人、倒れているのが見えた。

 一瞬足を止めたが、斬られてない。気を失わされているだけなのが分かった。

(やはり、あいつは城の守備隊には手は出さないつもりなんだ)

 向こうでようやく、警笛が鳴った。

 忌々しい仮面を投げつけるように捨て、フェルディナントは走った。

「今の仮面、どこへ行った⁉」

「フェルディナント将軍!」

 スペイン軍の人間なのだろう、すぐに一人がフェルディナントに気づいた。

「ここから下に!」

 回廊の下を覗き込むと、下のテラスに降り立ち、木の枝に飛び移る姿が見えた。

 守備隊が矢を引き絞るが、その前に鮮やかに地上に降り立った。

「王宮の北へ向かっている。先を固めろ! ヤツは早い! 城の周囲にもすぐ網を! 絶対に逃がすな!」

「将軍はどちら……」

 兵が言葉を結ぶ前に、フェルディナントは回廊から身を躍らせていた。どうするかも何も、相手を捕縛し打ち倒したいのなら、同じことをするしかないだろう、と思う。空中戦を得意とする竜騎兵として、彼は比較的飛び移ったり飛び降りたりすることには慣れている。

 慣れていたが、自分で実際にやってみると、あの【仮面の男】がどんな身体能力をしているか、実感をする。イアンが、実際訓練を受けた軍人ではないのかというようなことを言っていたが、あれはそれ以上のものだ。

 フェルディナントはあまり、ヴェネト王宮には慣れていない。

 一応大体のことは頭には入れてあるが、知識だけで実際行っていない場所はたくさんあった。

 普通の戦場ならばこういったことはないのだが、彼は王妃に嫌われている自覚があるので、よほどの用がない限りはあまり城には近づかないようにしていたし、入念に見て回っているなどと報告をされても、何が王妃の気に障るか分からないので、そういうことは控えていた。

 信頼できない上官を持つと――こういう不都合が起きる。

 広大な王宮の中には庭や、散策できる小さな林などもある。

 ここはその林が続く。

 果たしてあいつが、偶然こんな所に逃げ込んでいるのか、謎だ。

 あまりに的確すぎる。

(何故王宮にあんなに詳しいんだ)

 やはり、かつて前王と共に戦った【有翼旅団ゆうよくりょだん】関係の人間なのか。

 それならば、王宮に詳しい人間が仲間にいてもおかしくはない。

 ただ、あの【仮面の男】は少なくとも、前王ユリウス・ガンディノと共に戦った世代ではないはずだ。受ける印象から感じ取る年齢は、もっとずっと若い。


 次世代……。


 ヴェネトのために戦い続けた、王の騎士たち。

 彼が何も語らない理由も、そこにあるのか。

 大きく上空の枝がしなり、突如真上から襲いかかってきた。

「!」

 不意は突かれたが、このままあの走力で勝負をされても勝ち目はなかった。

 フェルディナントも相当足は速いのだが、認めたくないが、この相手には敵わない。

 しかし、警笛は鳴ったので守備隊が固め始める。フェルディナントが彼を見失わず、追跡し続けた意味はあるわけだ。彼としても逃げ回っていればいいというわけではない。

 確かにこのあたりでフェルディナントを打ち倒して追跡を消し、姿を隠して城外に逃亡したいという考えだろう。

 刃を構えて飛び降りてきた男を咄嗟に弾いた。

 受け止められたことは予想外ではなかったようだ。フェルディナントの刃に受け止められた時、体重をそちらに預けて、振り払われた方へ自然と身を躍らせ、降り立った。相変わらず動物のような身のこなしである。

 だが劣勢が明らかな走力の張り合いを強いられていたフェルディナントとしては、剣の打ち合いの方がかえってまだ自信があった。襲いかかってきてくれてどうもありがとうと言いたいくらいである。

 ――今の、柔らかな着地の仕方。

 やはり城下で会った男と同じだ。

 確かに、こういった若い人間を訓練し軍人に仕立て上げる組織があるというのなら、同じ身のこなしをする人間がいてもおかしくはない。

(だが剣には必ず個人の癖がある)

 絶対に誤魔化すことは出来ない。

 フェルディナントは剣を構えた。

「城の守備隊に手を出さなかったことは礼を言う。

 ――だが生憎俺は城の守備隊じゃない。

 遠慮なく剣を向けて構わないぞ」

 片手にだけ持っていた刃に、もう一本の輝きが戻る。

 今夜は風が強い。

 さざ波のように、森の緑が鳴っている。

 その、枝葉の微かな間から差し込む木漏れ日が、手にした短剣の刃を輝かせた。

 反射した明かりが、白い陶器で作られた白面の柔らかな頬の曲線を滑らかに照らす。

 城の廊下で見たときは、無慈悲な表情で見えたのに、

 今、微かな光の中で見た時、不思議と、優しげな顔に見えた。

 一瞬、フェルディナントは構えた姿勢を僅かに崩した。

 言い表せない、何かを感じたのだ。

 しかし、すぐに自分の愚かさを思い知る。

 自分は一度目、この相手に打ち倒されたのだ。

 予想しなかった武器で攻撃されたということはあったが、そんなものは皇帝陛下の直属である竜騎兵として、何の言い訳にもならなかった。

 フェリックスの加勢がなければ喉を掻き切られて死んでいたし、水路に落ちたあと、この男が逃亡より追撃を優先していたら、それもまた、殺されていたのだ。

(油断出来る相手じゃない!)

 あの時とは全く違う容貌で。

 違う場所で。

 そして、同じ早さで彼は斬りかかってくる。

 この威力。

 この男の剣を受けると、細身なのに、獣が食らいついてくるような衝撃がある。

 天性の才がある者は、そういうことが出来るのだ。

 月の女神の仮面につけられた、長い睫毛の影の奥に、瞳の光だけが見えた。

 その光を追った、すぐ側から、迂曲した別の光が飛び込んでくる。

 頬に痛みが走った。

「っ!」

 間合いをとろうとし、蹴り上げた足を、素早く躱された。

 すぐさま連撃が来る。

 森の足場は悪いのに、彼はものともしない。

 イアン・エルスバトは、彼を【憂国の騎士】と表現した。


 ――では自分は?


 自分は一体、誰のために戦うのか?

 連撃を受け止めるたびに、それを彼に咎められ、問い詰められているようだった。

 彼には、相手が、自分の殺めるべき相手ではないと悟った時は、刃を向けない芯の強さがある。

【エルスタル】を想う時、彼は怒りを覚える。

 殺された同胞、

 守れなかった自分に、猛烈な怒りを。

 神聖ローマ帝国を想う時は、自分のありとあらゆるものを犠牲にしても、皇帝やその国だけは守ってやりたいという、使命感を思い出す。守ってやれなかったものの代わりに、彼らだけは守り抜かねばならないと。

 そして。

 ネーリ・バルネチアが、朽ちた聖堂の奥で一人、色に汚れながら夢中で絵を描いている姿を思い出した。

 自分がそこへ帰ると、気づき、瞳を輝かせておかえりと微笑んでくれる顔を。

 最初は、彼にそう迎えてもらえることが、帰る場所を失った自分の癒やしとなっていた。

 でも、そのうちに気づいたのだ。

 ネーリも、彼の元に戻ってくる誰かを、

『ただいま』

 と戻ってきてくれる誰かを、ずっと求めていたのだということに。

 だから彼は、いつもあんなに嬉しそうに、自分を迎えてくれるのだ。

 フェルディナントは生まれてからずっと、家族の中で存在感を持たず、父親にも顧みられなかった。

 今は、皇帝に位を与えられ、多くの信頼できる部下が、自分を上官として重んじてくれている。自分の価値は、理解しているつもりだ。

 それでも彼は長い間、たとえ自分がこの世から消え失せても、父は少しも気にしないだろうと思って生きてきた。

 死んだっていいのだという気持ちは――彼に強さもくれたけど、今こうして、少しも油断できない相手と刃を交わした時に、守るべきものの顔が過り、彼らのために、自分は死んではならないのだと初めて、強く自覚した。

 目の前の男がどんな事情を抱え、どんな使命を負い、戦っているのかは分からない。

 それでも決して、負けるわけにはいかないのだ。


 どんな相手と対峙しても――必ず勝利してネーリの許に戻る。


 激しい連撃をかいくぐり、剣を弾き返す。

 長く伸びる衣を、切り裂いた。

 一瞬身を避け、ほぼ同じタイミングで地を打ち、斬りかかる。

 甲高い金属音を立て、噛み合った剣の背を、月の光がなぞった。




【終】

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