向こう岸のアリスステラ

藍澤李色

向こう岸のアリスステラ

 向こう岸には、いつもあの子の星が輝いている。



 アリスは、学校に来たことがない。だけど、私はアリスが同じクラスだということを知っている。他のクラスメイトはとっくに忘れているかもしれないけれど。

 彼女が学校に来られないのは、不登校だからじゃない。病気で入院しているからだ。

 私が彼女と出会ったのは、三年前。私が不注意で足を骨折して、しばらく入院した時に出会った。その時、アリスと私は十二歳。中一だった。

 小児科の病棟で一緒の部屋になったアリスは、何やら難しい病気にかかっていた。病名は思い出せない。十二歳の私には難しかった。内臓の病気だったと思う。

「ミチルちゃんっていうのね。仲良くしてね」

 アリスは、難病だとは思えないほど朗らかに笑った。

 彼女は、成人するまで生きられないらしい。残された時間はあと数年だという。最大限に見積もってもあと八年なのに、彼女は慣れている様子で「平気だよ」と、なんでもないことのように呟いた。

 私とアリスの時間が同じ部屋で寝起きしていた時間は、たった一か月にも満たない。その間に私たちは、親友と呼べるくらいに仲良くなった。

「私、学校に通いたいの。ミチルちゃんと一緒の中学校に行く」

 彼女の素朴な願いがかなったことは、ただの一日もない。ただ、私の学校に編入したことだけが担任から伝えられて、アリスの病室でうちの学校のセーラー服を抱きしめて喜んでいるのを見せられて、しかし彼女がそれを着て登校してくることはなかった。それが三年続いた。学校側が気をつかったのか、彼女とは三年同じクラスだったのに――。

「もうあと三ヶ月しかないよ、アリス」

 ポツリと漏らした声を、誰も聞くことはない。午後の気だるげな教室は、居眠りする生徒、こっそりスマホをいじってる生徒、ひそひそおしゃべりをしてる生徒なんかであふれている。ちなみに私は窓の外をぼーっと眺めている生徒。

 窓の外はグラウンド。その向こうに道路。道路の向こうは川と橋。そして、その向こうにアリスのいる病院。

 私の親友は、いつも川向かいの向こうにいる。

「私の病室から手を振ったら、ミチルちゃん気づくかなぁ」

「見えても豆粒どころか米粒でしょ」

 そんな会話もしたものだ。実際、広い川べりの遊歩道なども挟んでいるので、病院の窓は米粒どころかゴマ粒だった。それでも私は、授業の度になんとなく病院に目をやってしまう。もちろん、受験生だから勉強はちゃんとしている。ただ、教科書の読み上げとか、先生が資料をめくっているほんの少しの合間に、つい窓の外に目がいってしまう。

 見えないけれど、アリスが手を振っている気がする。本当に、そうだったらいいのにと思う。

 外の世界に意識を向けられるくらい、元気があるならそれでいい。

 ――放課後、病院に行こう。

 三年のこの季節、もう部活は引退済みだ。受験勉強以外、何もすることがない。塾に行く前に病院に少し立ち寄るくらい、問題ないだろう。



 病室に行くと、アリスは何故か星座の本を読んでいた。

「あっ、ミチルちゃん!」

 私が来たのに気づくと、パッと顔を上げて顔を輝かせる。この子はいつもそうだ。私が来ると、どんなに具合が悪くても大喜びする。

 それにしても、なんだってアリスは急に星座の本なんて読みだしたのだろう。病室の窓から見えるのは、街の灯りばかりだ。それも川があるせいで一部途切れる。室内にずっといるのだし、街灯りがある時点で星などほとんど見えないに決まっている。

「なんで星の本なんて読んでいるの?」

 私は率直にそう聞いてみることにした。アリスは好きでこの病室に閉じこもっているわけでもない。無意味さなんてアリス自身が誰よりもわかっているはずだ。

「看護師さんの息子さんが星が好きなんだって。それで一冊借りてきてくれたんだよ」

 私はそれを聞いて、余計なことをして、と思った。外に出られない子には、変に希望を与えない方がいい気がするのだけど、この病院の看護師はそういう考えはないらしい。

 アリスは嬉しそうに本を広げて、こちらに見せた。一日の、空の移り変わりを示した図画が載っている。

「あのねぇ、星って街や月や太陽の光があっても、見えなくてもずっとそこにあるんだって。そして、宇宙にはまだまだ発見されていない星があるかもしれなくて、その星を見つけたら自分で名前を付けられるの」

「まさか、探すなんて言わないよね」

「ううん、まだ見つかってない星を探すには、うんと遠くの明かりが何もないところに行かなくちゃ。天体望遠鏡だって必要だし。だからね、病院の窓からでも見える星に、勝手に名前をつけることにした」

 この病院からでも見える星なんて、ほんの少しだ。窓は片側にしか向いていないし、夜になっても街の明かりがある。

「あるよ、ほら!」

 アリスは窓の向こうを指さした。川辺の木々と、学校のシルエット。まだほんのりと青さを残した西の空に、金星が輝いていた。

「あれを私の星、アリスステラと名付けます!」

「いや、スターじゃなくて?」

「ステラの方が格好いいでしょ」

「ソウデスカ」

 天真爛漫なアリスの笑顔を見ると、何だか申し訳なくなった。あれはただの金星だよ。そう言ってもよかった。アリスはそう言っても、多分気を悪くしなかっただろう。あれは私の星だって今決めたんだと言い張るに違いない。

 私は、彼女が生きている間に、あとどれくらいアリスステラを見ることができるのだろうと思わずにいられなかった。

 アリスステラ。金星。一番星。宵の明星。どんな名前で呼んでもいい。私もアリスと一緒に、あの星をアリスステラと呼ぼうと思った。

「あのねぇ_ミチルちゃん」

 本を閉じて、アリスはいつもの子供じみた笑い方ではなく、妙に大人びた表情で笑った。

「ミチルちゃん、覚えておいてね。アリスステラは、ずっと輝いているよ。お日様が出てても、街が明るすぎても、空が曇ってても。見えてないだけで、向こう岸にいても、世界中のどこにいても輝いてるよ。だから見えなくなっても、大丈夫。アリスステラはミチルちゃんのそばにいる」

 その時、私は上手く答えられなかった。涙がこみあげてきて、喉が詰まって、声がでなかったから。

 これはアリスなりの別れの言葉。恐らく、アリスは自分がそろそろ死ぬことをわかっている。だから私にこんなことを伝えているのだ。

「わた、私も……いつも、向こう岸から、見てるから……」

 かろうじて、それだけ言えた。


 一週間後、アリスは高校に行くことなく十五年の短い生涯を終えた。

 

 アリスが見えなくなっても、私は向こう岸に輝くアリスステラのことは忘れなかった。学校が病院の向こう岸じゃなくなっても、大人になって違う街に住んでも、ずっと。



「それで、塩田先輩は金星のことを未だにアリスステラって呼んでるんですか?」

「そう。世間的には金星だけど、今でも私の中であれはアリスステラだから」

 後輩の葉山がレンズから顔を上げた。

 目の前にあるのは、巨大な天体望遠鏡。もちろん、肉眼では探せない光の弱い星でも観ることができる。金星じゃなくても、探せるのだ。

 西の空に輝く金星を見るたび「あ、アリスステラだ」と呟いていたら、葉山は興味を持ったらしい。てっきり星にまつわるどこかの民話か何かかと思っていたら、先輩の昔話を聞かされて拍子抜けをしたようだ。彼は子供のころからの根っからの天体マニアだというから、新しい星の知識が手に入るとさぞ期待したのだろう。申し訳ないことをした。が、反省はしていない。

「星なんて、いつの時代も色んな呼ばれ方をしてきたんだから、ごく個人的な呼び方をしてたっていいのよ。学会で発表する論文では書かないから安心して」

「まぁ、それならいいですけど」

 真面目人間な葉山には、この天文台の主任である私が、星を正式な呼び方をしないことが不満らしい。

「こうやって仕事の合間に新しい星を探したりもしているし、別に他の星に興味がないわけじゃないけど」

「ちなみに、アリスっていう名前の小惑星がすでにありますからね」

「ないない。すでにある名前はつけないよ。アリスステラはもうあるからね」

「まさか、自分の名前を付ける気ですか?」

「それが一番オーソドックスでしょ」

「せめてシオタにしてくださいね。ミチルにはしないでくださいよ」

「ええーっ、なんで? 万が一結婚したら、苗字変わるかもじゃない」

 わざとらしくふくれっ面を作ってみると、葉山は「三十路越えのふくれっ面寒いです」と塩対応をしてきた。私の苗字が塩田だからって、塩対応が好きなわけではない。不本意だ。

 ――まぁ、どうせ結婚しないだろうし、シオタでもいいんだけど、どうせなら名前でお揃いにしたいよね。

 いつか――、新しい星を見つけることができたら。ミチルステラを見つけられたら。

 私は、胸をはって死んだときに空に昇れる気がする。

 向こう岸にずっと輝いていたアリスステラは、今も黄昏と夜明けの間を行き来しながら私の心を静かに照らしている。

 人が死ぬと星になるというなら、きっとアリスは死んであの星になった。私は私の星を見つけて、いつかあの強い輝きを放つ星に会いに行く。そのために、星の研究者になる道を選んだ。


 だから、待っていて、アリスステラ。

 いくらでも星を見ることができる私は、私なりのやり方で自分の星を見つけるから。

 私の初恋の星。どうかずっと、空で輝いていて。


 あの時泣いてしまって言えなかったけど、アリス――あなたのことを愛してる。

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