第20話 終(未完)

「……ただいま」


 お母さんはまだ帰ってきていないようで、返事はない。靴を脱いで力なくフローリングに上った。洗面所で手を洗っていると、鏡の向こうの私と目が合った。疲れ果てた顔をしていた。そんな自分にため息をついてからリビングに向かう。テスト前だというのに、ソファに座った藍は今日もがちゃがちゃとゲームを遊んでいた。


 隣に座って横顔をみつめる。その瞬間に胸の中が安心で満たされた。現実から隔離してくれる透明な膜が、私を優しく包んでくれたようだった。けれどシャボン玉のようなそれは、一瞬で弾け飛んでしまう。


 思い出すのは、必死で涙を流すまいとしていた親友の姿だった。


 いつもなら「一緒に遊ぼう!」と手を差し出したところだ。でも今は全身が鉛のように重くて動けない。


「……今日は一緒に遊ばないの?」


 横目を向けた藍が問いかけてくれる。


 頑張って口を開こうとしても、万力で押さえつけられたように動かない。少し経てばまた普段と変わらない調子で藍と接することができる。それが分かっているからこそ、ますます自分が嫌になる。


 私にとって真緒の恋から受けた衝撃は一過性でしかない。罪悪感もすぐに薄れてゆく。放っておけば、私はまた「藍のお姉ちゃん」だけに徹するようになる。仮に真緒との交流が消えても、心の欠落はいつかは埋まる。


 分かっているのだ。私は、普通じゃない。おかしい。


 それを受け入れて、今日まで生きてきたはずだったのに。


「あんたって強いのか弱いのか分からないよね」


 何にも言っていないのに、藍は納得したみたいに頷いている。コントローラを膝の上に置いて、胸の前で腕を組んでいるのだ。十四年の付き合いがあるから、お姉ちゃんの頭の中はお見通しなのかもしれない。


「恋だの失恋だの、そんなの世の中にはありふれたことなんだよ」

「……でも真緒は」


 分からないことばかりだった。不安も多かった。それでも真緒を悲しませたくなかった。初めてできた親友だから、大切に思えた「他人」だったから、不慣れな好意にも応えたいと思った。


「真緒は初めてだったんだよ。ずっと無感情だったのに、恋まで自分のものにして、泣いちゃうくらい私のことを好きになってくれて、私も報いたいって思ってた。ずっと笑っていて欲しかった」

「でも無理なんでしょ。あんたは私のことが一番だとかいうし」


 藍は力なく笑った。


「というか、そもそもの話なんだけど、真緒さんを焚きつけたのは私。悪いのは私だよ」


 後ろめたげな瞳がお姉ちゃんをじっとみつめた。真緒の言葉を思い出す。藍が実はお姉ちゃん大好き妹かもしれないという話だ。思い返してみれば、お姉ちゃんが本気で悩んでいる時、この子はいつも優しくしてくれた。


「……藍は、お姉ちゃんがへこんでるのは嫌?」


 暗い声で問いかけると、藍はしばらく黙り込んだのちに、小さく頷いた。


「明るいあんたは本当にウザい。もう少し暗ければいいのになって思う。でも実際ふさぎ込まれると、なんていうか落ち着かないんだよね。大嫌いだけど、まぁ一応は家族だし」


 なんて言い訳するみたいに付け加える藍が、可愛い。


「お姉ちゃんはやっぱり藍が一番だよ。仮に恋人を作るとしても、藍がいい」


 藍は目を見開いた。熟れていくみたいに、顔が真っ赤になっていく。嬉しいのか、恥ずかしいのか、キモいのか、あるいはその全てなのか。お姉ちゃんから目をそらして、ぼそりとつぶやく。


「……最低。冗談でも笑えない」

「お姉ちゃんも笑えないよ」


 恋なんて一生無縁だと思っていた。死ぬまで藍だけを愛するのだと、ただそれだけでいいのだと信じていた。なのに親友が私に恋をして、考えないといけないことが増えた。最近はずっと頭が痛い。


 人には、それぞれに正しい生き方があるのだと思う。草食動物が草を食べるように、肉食動物が肉を食べるように、お姉ちゃんが妹を愛でるように。それに反した生き方をすれば、今の私のようになるのかもしれない。


 大切な人の思いに応えられず、自分だけではなく相手まで傷つけてしまう。


「あんたってこれからどうするつもりなの?」

「……分からない。でも一人でいた方がいいのかなって思ってる」


 真緒のことを無意識に傷つけて、涙だって流させて、強がらせて、気を遣わせて。それなのにまた以前のような関係を望むなんて、自分勝手すぎる。


「……真緒も、私と一緒は嫌だろうし」

「そう言ってたの?」

「でも思ってるはず」


 お手上げだとでも言いたげに、藍はため息をついた。


「あんたが陰キャだってこと忘れてた。人の考えを決めつける勝手な妄想だけで完結する」

「……違うのだとしても、お姉ちゃんは自分を許せないよ」


 見通しが甘かったとか、そういう話ですらない。私は最初から何も見ていなかった。真緒の思いの強さも、分かっていたようで何も分かっていなかった。


 うつむいてふさぎ込む。目を閉じて暗い淀みに身を浸す。今は光から目を背けていたかった。


「まぁ、正直なことを言うと私は嬉しいけどね」

「えっ?」


 思わず顔を上げた。藍は気まずそうに目をそらしている。


「真緒さんにあんたはもったいない」

「……私もそう思う。真緒は凄い子だから」

「それに、あんたって十四年間も私のことばかり考えてた。そんな奴が、急に現れた知らない人に恋をして、恋人になって。……私を二の次にするかもしれないなんて、気が気でなかったし」


 夢かと思った。でも頬を強く引っ張っても痛むだけなのだ。となれば次は自分の耳がおかしくなった可能性を疑う。でも外から聞こえてくる子供の声は明瞭だし、試しに出した自分の声だっておかしなところはない。


 となれば次は……。


「……藍、もしかして変なもの食べた?」

「は?」


 ドスの聞いた低い声だ。表情も能面みたいになっている。


「トマトとかいう謎の球体を喜々として食べるあんたにだけは言われたくない」

「何言ってるの。トマトは美味しいよ」

「おいしくない!」


 納得はいかないけど、話してみればいつも通りの藍だ。


 お姉ちゃんに反抗的でトマトが大嫌いな、私の大切な妹。


 急に真緒の言葉を思い出した。


「……そっか。藍って本当にお姉ちゃんのこと大好きなんだ?」

「ちょっと、勘違いしないで! あんたが喜びそうな嘘ついてあげただけだから!」


 顔を赤らめて横腹に肘打ちしてくる。痛くないソフトタッチな打撃だ。やっぱりこの子は優しい。


「だとしてもお姉ちゃんを励まそうとしてくれたでしょ。これで二回目」

「……………………」


 不満げに目を細めて黙り込んでしまった。分かりやすい妹だ。


「お姉ちゃんは何を選んでも後悔するんだと思う。……でも嫌だもんね。身近な人がふさぎ込んでるなんて」

「その通り。いつもへらへらしてるあんたに疫病神みたいな顔されたら、私まで病みそうになる」

「だったらお姉ちゃんは、禍根なんて残さないよ」


 私が望むのは、真緒と親友でいること。これからも一緒に笑い合っていたい。傷つけてしまうのだろうし、私も傷つくのだろう。私は真緒から逃げようとしていた。傷つける辛さに耐えられなかった。勇気が出せなかった。


 けれど藍が嫌だというのなら、お姉ちゃんは頑張って前に進む。 


「お姉ちゃん、まっすぐ真緒に向き合う。嘘とかごまかしとか先送りじゃなくて、ありのままの気持ちを伝える。真緒の気持ちにも真っすぐに応える。これがお姉ちゃんにできる全てだと思う」


 恋なんて、報われないことの方が多い。真緒だって分かっていたはずだ。それでも私に好意を伝えてくれた。誤魔化さなかった。親友なら同じだけ真剣に向き合ってくれると信じていた。


 けれど私は間違えてしまった。真剣に向き合うのではなく、真緒を苦しめない方法ばかり考えてしまった。


「……うん。私もそれでいいと思う。せいぜい頑張れ、馬鹿姉」


 藍は優しい微笑みでお姉ちゃんの肩を叩いた。


「そこは『頑張れお姉ちゃん!』でしょ?」

「は? きも……」

「ひどい!」


 ありふれた幸せは、失って初めてその価値に気付くという。でも私にとって真緒との時間は「ありふれた」ものなんかじゃない。大切な親友を失いたくない。失う痛みにも慣れたくなんてない。 


 手のひらをみつめる。大事に握り締めてくれた熱を、ぼんやりと思い出した。

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