第19話
藍との週末も終わり、期末テストまであと一週間となった。テスト勉強に並行して漫画やドラマで恋愛も勉強していたけれど、未だに私は何もつかめていない。告白の返事を一週間近くも遅らせているのは、申し訳ない。
「聖」
聞きなれた声の方を向けば、緊張した面持ちの真緒が私を見下ろしていた。
「どうしたの?」
「……今日の放課後、一緒に勉強したい。いい?」
頬を染めて目もそらしていた。恋とはここまで人を変えてしまうものなのか。ほんの少し前までは気の置けない友人だったのに、どこか他人行儀というか、距離が出来てしまったように思う。
私自身も、真緒への接し方が分からなくなっているのかもしれない。
「いいよ。どこでする?」
微笑みと共に返せば、真緒は上目遣いでつぶやいた。
「聖の部屋がいい」
「私の部屋?」
思わず聞き返す。勉強をするのなら、もっと適切な場所があるはずだ。
けど真緒はこくこくと頷くだけで、他の選択肢なんて考えていないようだった。いつもクールなこの子らしくない。頬もますます赤くなっているし息も少し荒い。冷静さを欠いているように見える。
「あんまり自慢できる部屋じゃないけど、それでも良ければ」
「本当に? とても嬉しい」
さっきまでの緊張は何処へやら、ニコニコと嬉しそうに笑っている。好きな人と一緒にいられるのは嬉しいよね。私も藍と一緒なら楽しいし。そんなことをぼんやり考えていると、ふと懸念点を見つけた。
「でも真緒って頭いいから、私が一方的に教えられるだけになるかも。ごめんね?」
真緒は校内で一位を取ることもよくあるし、トップクラスの大学ですら現実的なのだ。才能というよりは努力の賜物なのだろう。小学校低学年の頃はむしろ勉強は苦手だったらしい。
苦笑いしていると、真緒はむしろ嬉しそうに頬を緩ませた。
「大丈夫。私はずっと聖に助けられてばかりだった。たくさん恩返しをしたい」
「……優しいね真緒は」
無意識に頭に手が伸びる。途中で気付いて手を止めるけれど、真緒はむしろ撫でやすいように頭を差し出してくれたのだ。そのまま優しく撫でてあげた。若干くせっけのある藍とは違って真緒の髪質は素直だ。指を通して軽く撫でると、清流のように滑らかに梳くことができた。
そういえば昔は藍にも同じことしていた。お風呂に入った後に「おねえちゃんかみかわかして!」と膝の上にちょこんと座ってきたのだ。そのたびに私はヘアドライヤーを片手に髪を梳いてあげた。
思い出に浸りながら撫で続けると、真緒はすぐに気持ちよさそうに目を閉じた。陽だまりで丸くなった子猫みたいで可愛い。微笑んで見つめていると、一つ気付くことがあった。
「……あれ、もしかして髪伸ばしてる?」
その瞬間、真緒は瞼を開いて大きな瞳をキラキラと輝かせた。この子はいつもある程度髪が長くなるとバッサリと切ってしまうのだ。その基準はもう既に超えているはずだった。
「伸ばしてる。……私、かわいい?」
「髪の長さなんて関係なしに真緒は可愛いよ」
私が微笑むと真緒はまた真っ赤になった。そう。真緒は可愛いのだ。小柄で素直で可愛くて良い子で、人気者になっても不思議ではない。実際、笑顔を見せるようになってからは、周囲の目線を集める機会が増えた。
「そういえば、みちるさんにもこんな感じで甘えてるの?」
「むしろ私が甘やかすことの方が多い。でも甘えて欲しいって頼まれたら甘える」
「そっか」
微笑ましい情景が頭に浮かんでついつい口元が緩む。
「聖は最近どうしてる?」
「これまで通りだよ。もしも頭を撫でようものなら確実に罵倒が飛んでくる。私も藍が嫌がることを積極的にはしたくない。好意を伝えるくらいはあの子も許してくれるし、それで我慢してる」
「聖はそれで満足?」
満足できるわけがない。
「私も藍の頭なでなでしたいんだけど、なかなかきっかけがなくてね」
「だったら私に任せて欲しい」
真緒は堂々と胸を張った。
「助けてくれたお返しがまだできてない。気楽に頼って大丈夫」
「そう? だったらお願いしてみようかな」
私が微笑むと真緒はうんうんと頷いていた。
放課後、家に帰った私は奇妙な状況にいた。自室のローテーブルを、藍と真緒と私の三人で囲っていたのだ。テーブルの上にはそれぞれの問題集が置かれている。シャープペンシルの音だけが部屋に響いていた。
けれど不意に藍の方から音が聞こえてこなくなった。
「分からないところあるの?」
お姉ちゃんが問いかけると、藍は不満げな顔で頷いた。
「答えみたんだけど答えしかなくて、解き方が分からない」
「どれどれ……」
藍の方に体を寄せて数学の問題集をのぞき込む。幸いにも教えられそうな問題だった。
「あー。この問題はね……」
「聖、ちょっと待って」
唐突に真緒が割って入ってきた。
「どうしたの?」
「聖は藍に問題の解答を教える。代わりに藍は聖に頭を撫でさせる」
「急に何言ってるんですか?」
藍に半目でみつめられても気にする様子もなく、真緒はつづけた。
「世の中は無償の善意では回っていない。これは一種の社会勉強」
「……はぁ」
納得しているわけではなさそうだが、強く言い返すこともできないらしい。横目でお姉ちゃんをみてきた。
「……私の頭を撫でることが、勉強を教える対価になるの?」
「もちろん!」
お姉ちゃんはニコニコ笑う。わが妹は呆れ果てたみたいにため息をついていた。
「……相変わらずあんたって理解不能。まぁいいけどさ」
「ん」と藍はお姉ちゃんに頭を差し出した。
「えっ」
あんまりに素直だから困惑が先に来てしまった。
「えじゃないでしょ。撫でたいのならさっさと撫でなよ。さっさとテスト勉強に戻りたいんですけど」
真緒がいる手前、いつものように反抗するのも気まずいのかもしれない。
真緒に目を向ければうんうんと頷いていた。目線を戻す。かつては毎日のように撫でていた、可愛い妹の頭だった。ずっと撫でたいと思っていたはずなのに、いざその時が来ると緊張する。
「本当に撫でるからね?」
「はやく」
とげとげした声に急かされて、手のひらをそっと頭に落とす。真緒の髪とは違う、少しくせのある髪質が愛おしい。指を通しても簡単に梳くことはできない頑固さが、今の藍みたいだった。
昔は膝の上に乗せて、後ろから無限に撫でていたものだった。あの時は無償だった。色々と変わってしまったけれど私の一番が藍であることはこれから先、一生変わらないし変えたくもない。
お姉ちゃんにとってこの子はどんな宝石よりも大切な宝物だ。
また頭を撫でさせてくれたのが本当に嬉しくて、表情がふにゃふにゃになってしまう。
ふと視線を感じて真緒の方に目を向けると、切なげな笑みを浮かべていた。
「やっぱり聖は妹を愛でているのがよく似合う」
「あの、別に愛でられてるつもりないんですけど……」
「でも藍もまんざらでもなさそうにみえた」
「………………………………………………」
相手がお姉ちゃんなら「あんたの目は節穴なの?」とでも言い返していたのだろう。けれど藍はお姉ちゃん以外には丁寧なのだ。何か言いたげに口をもごもごと動かしていたけれど、諦めたらしい。
藍は真緒から目をそらして、お姉ちゃんを睨みつけてきた。
「私の頭撫でまわしたんだからさっさと教えてよ、この問題!」
抑え込まれた不満が一気に噴き出すみたいな勢いだ。ひどい八つ当たりに苦笑いする。
「ここを変形するのは分かるよね?」
「……うん」
鬼になる寸前みたいな顔で、藍は問題集を睨みつけるのだった。
「ばいばい藍」
「真緒さん今日はありがとうございました」
夕方、玄関で藍は恭しく頭を下げていた。お姉ちゃんだって教えてあげたのに、ひどい妹だ。
「真緒さんのこと送ってあげなよ。ほら」
背中を押されるから、お姉ちゃんも玄関に降りて運動靴をはいた。玄関のすりガラスからはオレンジ色の光が差し込んでいる。扉を向いた真緒の横顔を静かに照らしていた。
「帰ろう真緒」
「……うん」
目線が下を向いているから、私もその先をみつめた。宙ぶらりんな手が寂しそうだった。
繋ぎたいのかな? そっと小さな手を握った。その瞬間、真緒はぴくりと震える。夕日でも誤魔化せないくらい横顔が真っ赤だった。そんなやりとりをみて何を思ったのか、ふと藍がぼやく。
「……姉のいちゃつきを見せられる妹の気持ちにもなって欲しいんですけど」
「い、いちゃついてない!」
真緒は藍の方に振り向いてぶんぶんと首を振っている。私も振り向けば藍は不機嫌そうな顔をしていた。
「もしかして嫉妬しちゃったの? 可愛い」
お姉ちゃんがニヤニヤ笑えば深いため息が聞こえてくる。
「あんたの底抜けの楽観はどこから湧いてくるわけ? 因果関係って言葉知らないの?」
嫉妬する要素なんて欠片もないと言いたいのだろう。悲しい。
「ひどい。ちょっとくらい嫉妬してくれてもいいのに」
「……するわけないでしょ。ほら、夜が来る前に早く送ってあげなよ」
肩に手を伸ばして、そのまま強引に押し出してくるのだ。お姉ちゃんは唇を尖らせながらも、真緒と一緒に家を出た。
いつも通りの夕暮れの街を歩いていく。公園の近くまで来るとヒグラシの物寂しい声が響いてきた。真緒も寂しくなったのかもしれない。繋いでいた手が不意に離れたかと思えば、すぐに指が絡んでくる。
「聖は、誰かとデートしたことある?」
「ないよ。でも姉妹デートなら昨日した。二人で恋愛映画見に行ったんだよ。面白かった」
「……私のこと、好きになれそう?」
不安そうな上目遣いだった。下手に誤魔化したところで意味はない。正直に答える。
「まだ分からない。でも諦めるつもりもないよ」
「………………」
長い沈黙が私たちを包む。資格の勉強みたいに何時間勉強すれば合格できる、みたいな指標があるわけでもない。そもそも恋を知るために何をすればいいのか、私も分かっていない。先行きが不透明なのは事実だった。
しばらくして真緒がつぶやく。
「聖に無理をして欲しいわけじゃない」
「別に無理なんて……」
「頑張ってくれるのは嬉しいけど、私は最初から半分以上諦めていた。振られる準備はできている」
「そんなこと言わないでよ。真緒は可愛くて性格だって優しくて、好きになる要素しかないのに」
うつむいた顔をのぞき込む。どうしようもないシスコンの私だから、普通なら即座に無理だと判断していたはずだ。でもそうは思わなかった。頑張れば恋ができると信じられるくらいに、真緒は綺麗だった。
なのにこの子は首を横に振るばかりだ。
「気付いてた? 藍が寂しそうにしてたこと」
「……えっ?」
言われて記憶をさかのぼる。藍は集中してテスト勉強に取り組んでいた。別に寂しそうではなかった気がする。というかそもそも寂しがる理由なんてない。三人で一緒に勉強してるのだから。
でも真緒がよく分からない嘘をつくとは思えない。
「どういうこと? 説明してほしい」
「藍はできるだけ聖と目が合わないように意識していた。でも私の視線まで気にする余裕はなかった。……藍は聖をみていた。まるで何かをこらえるような目で。藍は、聖が私と付き合うかもしれないことを、悲しんでいる」
お姉ちゃん大嫌いなあの子が? 信じられない。
というか、そもそもだけど論理が飛躍しすぎている。根拠のない憶測でしかない。
「悲しまないよ。むしろ嬉しそうだったし。ようやく真人間になってくれるんだって」
「それが嘘だと、聖は考えなかった?」
「……だってあの子は私のこと嫌いなんだから」
一時期に比べれば距離が縮まった自覚はある。でも依然として遠いままだ。心配はしてくれるけれど、隙あらばお姉ちゃんを罵倒してくる。二次元のツンデレ妹じゃないのだから、素直に嫌っていると考えるべきだ。
肩をすくめていると、真緒は切なげな笑みを浮かべた。
「聖は姉妹のプロじゃないみたい。私にも分かることが分かってない」
「……真緒は、藍がお姉ちゃん大好き妹だって言いたいの?」
「そういうことになる」
藍のことを理由に、私が頑張るのをやめさせようとしているのではないか。気を遣っているのではないか。真緒は優しい子なのだ。みちるさんのために自分をも犠牲にしようとするくらいには。
「私に迷惑をかけるかもしれないとか、心配しなくていいんだよ?」
「親友だと思うのなら信じて欲しい。私の言葉も」
交差点の赤信号で私たちは立ち止まる。目の前を行き交う車はオレンジ色を反射して仄暗く輝いていた。
真緒は、まっすぐに私を見つめている。なんで? 私のことが好きじゃないの? なんで遠ざけるようなことを言うの? もしも藍のことが事実なら、シスコンな私が何をするのかも分かっているはずなのに。
この子は、自分の気持ちが報われなくても良いのだろうか。繋がれた手を強く握りしめる。
自分よりも人を優先するのは真緒の美点だ。社会に出れば賞賛されるのだろう。けれど本心を封じ込めて利他的に動くだけでは、この子はいつまでも幸せを掴めない。そっと膝を曲げて目の高さを合わせる。
「もっとわがままになっていいんだよ」
「これが私のわがまま。聖には幸せになって欲しい。でも私が相手では幸せになれない」
黒い瞳が微かに潤む。なのに心の内を必死で覆い隠すみたいに、笑っているのだ。言語化できない感情の波が、心を乱してゆく。何を伝えればいいのか分からない。でも何かを伝えなければならない。闇雲に口を開く。
「私、藍のことは好きだよ。でも真緒のことも大好きなんだよ。きっとこれから先、家族以外の誰かを好きになることもない。断言できる。真緒が最初で最後。私の人となりを知ってたら分かるでしょ?」
青春とは対極の人間だった。友達も真緒だけで部活にも入ってなくて、放課後は家に直行。休みの日だって外に出ることはほとんどなくて、妹を愛でることばかり考えている。
新しく友達を作ろうとも思わなかった。自分が人と違うって分かっていた。最初から諦めていた。でも真緒とだけはなんとなく一緒にいられた。みちるさんとの一件があってからは、親友とさえ思うようになった。
「真緒には笑っていて欲しいんだよ」
「私も同じ気持ち。むしろ私の方が何倍も強く聖を思っている。聖では私に勝てない。絶対に」
夕焼けに零れた涙が輝く。綺麗だと感じた自分を殴りそうになった。張り付いた笑顔からは、暴れ狂うような激情が伝わってくる。あらゆる意味でこの子に勝てないのだと、理屈ではなく感情で理解させられそうになる。
ほんのわずかでも、この子の好意に釣り合う感情を持っているのだろうか? そんなわけない。藍が一番で真緒が二番なのは、変えられない。変えるつもりもない。私は真緒の親友である前に藍のお姉ちゃんだ。
私に、この子を幸せにする資格は、最初からなかったのかもしれない。
なんて、気を抜けば諦めてしまいそうになる。それでも私は首を横に振る。
「絶対なんてないよ」
「……そうかもしれない。何十年と時が経てば、聖も変わるかもしれない」
「だったら」
「でも私の時間は無限じゃない。告白の返事、期末テストが終わったら教えて欲しい。恋が実るのかもわからないのに、たった一人の親友を思い続ける。この苦しさを、聖には分かって欲しい」
懇願するような声で言われて、はっとした。
藍に思いが通じなくても私は平気だ。いつかお姉ちゃんの元を離れてしまうのだとしても、あの子が幸せならどんな未来でも受け入れられる。けれど真緒は違う。私にも同じだけの感情を返して欲しいと願っている。
愛したのなら同じだけ愛してもらいたい。それは人として当然のこと。おかしいのは、私だ。
「……分かった。ちゃんと考えておく」
「ありがとう聖」
緊張のほどけたような柔らかい声だった。告白の返事を先延ばしにするというのは、もしかするとこの子に途方もない負担を強いていたのかもしれない。やっぱり恋は難しい。再確認してしまうのが、辛い。
「期末テストが終わったら、二人でどこかに遊びに行こう」
藍色の空を見上げた真緒は微笑む。南東に沈みゆく太陽は薄暗く輝いていた。
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