第18話
週末、私は自室で鏡と向き合っていた。服装を気にするような性格ではないけど、今日はひさびさの藍とのお出かけだ。気合を入れてお姉ちゃんらしいところを見せたい。
「ねぇまだ準備できないの?」
扉を開いて現れた藍は呆れたみたいな顔をしていた。
「どの服を着るのか迷っちゃってね。せっかくの姉妹デートだし」
花柄のトップスとスカートを合わせてみる。結果、上下花柄はかなりダサいらしいことが分かった。
「そういうのは仲のいい姉妹に使う言葉でしょ」
その格好は流石にないとでも言いたげな顔で、藍はお姉ちゃんのクローゼットまで歩く。そのまま無遠慮に開いた。縦長の扉のせいで顔はみえないけれど「えー?」とか「うわぁ」とかドン引きする声ばかり聞こえてくる。
「もっとまともな服ないわけ?」
ひょっこりと顔をのぞかせた藍へ、私は首を横に振る。服にお金をかける意味が分からないのだ。
「値引きされてるのを適当に買っただけだからねぇ」
「人目とか気にならないの」
「あんまり。全裸で走り回ってるわけじゃないんだからいいと思う」
「やばいでしょ。普通は流行とか顔の雰囲気やスタイルとの相性とか、そういうの気にするんだよ」
キラキラ中学生の藍が言うのなら、そういうものなのだろう。でもやっぱり実感はわかない。違う世界の価値観を、自分のものとして馴染ませるのはとても難しい。けれど藍はそれが出来てしまっている。
小さなころは「おねえちゃんがかわいいってほめてくれるふくがいい!」だった。私と同じだった。
「藍はお姉ちゃんがどの服着たら可愛いって思ってくれる?」
「……可愛い、ねぇ」
クローゼットを閉めたかと思えば、すぐ近くまで顔を寄せて、まじまじとお姉ちゃんを見つめてくる。
「どうしたの?」
「ちょっと黙ってて」
聞こえてくるのはつんとした声だけど、やっぱり藍は可愛い。
少しくせっけのある髪が頭の上で跳ねている。細めた目を縁取る長いまつげが、ふわふわしていた。肌もつるつるで輪郭も流れるようで、魅入られる。よしよしと頭を撫でたいし、ぎゅっと抱きしめてあげたくなる。
その衝動の正体は、物心ついたときからある妹を愛おしむ心だった。
「藍のことぎゅって抱きしめていい?」
ニコニコ笑って問いかけると、ジト目に変わってしまった。
「嫌です。一万円くれるならいいけど」
「えっ、いいの!?」
「冗談に決まってるでしょ」
「悲しい……」
肩を落としてしょんぼりしていると「悲しいのは私の方だよ」とため息をつかれた。
「どの姉が妹を抱きしめるために一万円も払うの」
「この姉が」
「あんたって私のこと好きすぎでしょ。私は中学生であんたも高校生なのに」
「年齢は姉妹愛の障害にはならないよ」
赤ちゃんでも子供でも大人でもおばあちゃんでも、どんな藍でもお姉ちゃんは大好きなのだ。
「……あんたと話すの、めちゃくちゃ疲れるんですけど」
そうぼやきつつ藍はまたクローゼットの前に戻って、縦長の扉を開いた。
「顔がいいし、スタイルもいいからどんな服でも大体似合うと思う」
「藍はお姉ちゃんのことすごく褒めてくれるんだね!」
「……認めたくないけど事実だからね。容姿が良いのは」
可愛い藍のお姉ちゃんなのだから、当然と言えば当然だけれど、やっぱり誇らしい。
「はい、これに着替えて」
藍が手渡してくれた服を、お姉ちゃんは大事に受け取った。
アスファルトに陽炎の揺れる猛暑だった。のぼせたような気持ちで住宅街を歩く。去年の私は夏が好きではなかった。生命力豊かな蝉の声も全てを平等に照らす太陽も、人生の陰を際立たせるだけだった。
けれど今年は心が躍る。額に汗を浮かべながら並木道にたどり着けば、そこには緑の葉を湛えた木々が揺れていた。日陰に抱擁してもらえば、忌々しかった空の青すら心地よい。
歩道のタイルもその上を揺れる影も、慌ただしく飛び立つ鳩の群れも、生まれ変わったみたいに全てが色鮮やかな新品だ。大好きな藍が隣を歩いてくれている。それだけで世界はこんなにも美しいのだ。
お姉ちゃんの肩くらいな身長のわが妹を見下ろして笑う。
「藍のこと大好きだよ」
「ちょっと、外でそういうこと言わないで」
「中でならいいんだ?」
ニヤニヤ笑うと、横腹を肘で軽く殴られた。
「いたい!」
「本当にやめて」
本気で怒っているみたいで、声が低い。
「……ごめん」
伸ばしていた背筋を丸めてつぶやく。
「知り合いに聞かれたら最悪。人がいない所で言って」
「えっ、いいの!?」
顔をあげて目を輝かせると、藍はやれやれとでも言いたげな半笑いになった。
「無理やり我慢させて暴走でもされたら、被害を受けるのは私。あんたに優しくしたとかじゃない」
「でもお姉ちゃんはやっぱり優しさを感じるよ。そんな藍のことが大好きだよ」
「はぁ? もう無敵じゃん……」
自己完結した言い分に、呆れてしまったみたいだ。それでもお姉ちゃんは変わらない。
周りに人がいないことを確かめてからつぶやく。
「藍のこと、大好きだよ」
「そーですか」
そっけない無表情なのが気に食わない。お姉ちゃんは耳元まで顔を寄せて、そっとささやく。
「世界で一番大好き」
ぴくっと体が震えた。やせ我慢をしているのか、頬が赤いのに無表情なのが可愛い。ニヤニヤしていたら鋭く睨みつけられてしまったけれど、それでもなおこの子を思う気持ちは変わらない。
お姉ちゃんは世界で一番藍が大好き。それはこの世の真理なのだ。藍にどれほど嫌われても「おかしい」とみんなに言われても、結局お姉ちゃんはこの子を嫌いにはなれなかった。むしろ頑なに決め込むばかりだった。
「お姉ちゃん手をつないでもいい?」
「勝手にすれば。どうせしつこくせがんでくるんだろうし」
抗うのに疲れたのか、藍は投げやりに腕を揺らした。猫じゃらしを前にした猫みたいに、素早く藍の手を握る。小さくてすべすべな可愛い手だ。むにむにと遊んでみれば、自然と頬がほころんだ。
「これはどうみても変質者の指使いです。これまで何人のいたいけな少女を毒牙にかけてきたのでしょうか」
アナウンサーのような実況をしながら、お姉ちゃんをジト目でみてくる。
「藍だけだよ」
「……なんでもいいけど、くすぐったいからやめて欲しいんですけど」
指先で遊ぶのをやめれば、藍は深くため息をついた。
「なんでそんなに私のこと好きなの」
「一日……、いや一週間くらいはかかるかな」
「十秒で」
「顔が可愛いし性格もなんだかんだ可愛いし、馬鹿にしつつも一緒にゲーム遊んでくれるの可愛いし……」
「はい十秒、終わり。つまり可愛いから好きってこと? だったら真緒さんだけでいいでしょ。というか今のこれって実質浮気みたいなものじゃない? 好きな人が他の人をべた褒めするのって、結構きついよ」
藍は妹だから、恋愛感情があるわけじゃない。でもこの子に向ける愛は恋よりもずっと強い。十四年も一緒にいた。生まれたときの無垢な姿も、大人に近づいてゆく過程も、何もかも全てを知っているのだ。
「言いたいことは分かる。でもシスコンをやめろって言われたら、お姉ちゃん真緒と付き合えないよ」
「最低。人間の屑。女の敵」
心底蔑んだみたいな目を向けられてしまった。嘘でも常識的に正しいことを言うべきだったのだろう。でもお姉ちゃんは藍が一番大切だ。これだけは何があっても絶対に譲れない。
「批判は受け入れる。お姉ちゃんも分かってる」
「本当にこんな奴が恋なんて理解できるのかな……」
騒がしい蝉の声がこだまする。木漏れ日が不安げな横顔を照らした。
真緒のためには恋を知りたい。けれどお姉ちゃんとしては恋なんて知りたくない。ひたすらに藍だけを愛でていたい。妹を愛でる心はもはやお姉ちゃんの本能なのだ。
でも私は獣ではなく人間だから理性がある。大切な人の好意には報いたい。
薄暗い空間を暖色のライトがぽつぽつと照らしている。赤色のカーペットを踏みしめて歩いていけば、あっという間に映画館の非日常な空気に呑まれてしまった。
「なんだかわくわくするね!」
ニコニコ笑えば「はいはいそうですね」と雑な反応が返ってきた。
「私たちがみる映画はあれね」
真緒が指さした先にはポスターが光っていた。雨の中、相合傘をした高校生が橋の上で見つめ合っていた。制服はどことなく時代を感じさせるもので、後ろにも広大な自然が広がっている。昔の田舎が舞台なのだろうか。
「なんか青春って感じ。藍もああいうのに憧れるの?」
「別に。私はモテモテだから現実で十分」
「その割には恋人はできないんだね?」
「できないんじゃなくて作らないだけ。ふさわしい人がいないから」
小野小町な藍が求める理想の相手って、どんな人なのだろう。石油王とか?
「藍ってどんな人がいいの」
受付に向かいながら問いかける。
「いつだって私のことを一番に考えてくれて、困ってたらすぐに助けてくれる人」
「意外。もっと容姿とかにこだわりがあるのかと思ってた」
感心していると、藍は皮肉っぽく笑った。
「容姿が整ってるのは前提条件。そのうえで私を世界で一番大切にしてくれる人がいい」
「なるほど」
「でも同級生とか、ひいては世の中の男って、そういう感じじゃないんだよね」
中学二年生の口から思いもよらない発言が飛び出して、びっくりした。初恋もまだなはずなのに、やけに老練している。最近の子はみんなこうなのか、藍だけが特殊なのか。どちらにしても笑ってしまう。
「男っていうか、性別関係なしに人はみんな自分が一番可愛いんだから、仕方ないよ」
「あんたもそうなの?」
横目でじっとみつめてくる。もちろんお姉ちゃんは違う。
「お姉ちゃんは藍が世界で一番大切だよ」
「……じゃあ聞くけど、自分の命と私の命を天秤にかけたとして」
「藍を選ぶに決まってる」
愚問だ。考えるまでもない。
「真緒さんと私なら?」
「悩みはするかもしれない。でも絶対に藍を選ぶよ」
真面目な顔でみつめると、藍はため息をついた。
「……そういう表情で言われると、あんまり冗談だって思えないんですけど」
「実際冗談じゃないからね」
「………………………………最低」
顔を逸らしたかと思えば、お姉ちゃんの手を引っ張ってずんずん歩いていく。
「真緒さんは一番に考えて欲しいはずだよ」
「分かってる。それでも無理なんだよ」
藍のことは赤ちゃんの時から見てきた。笑顔で甘えてくれる可愛い藍も、悲しくて泣いてしまう守りたい藍も、お姉ちゃんに反抗ばかりする憎らしい藍も、その全てが愛おしい。
「本当に最低。なんであんたなんかに恋をしたんだろうね」
「大丈夫だよ。恋は頑張って理解する。真緒の思いに応える」
「もしもだめだったらどうするつもりなの?」
「その時は……」
真緒には悲しんでほしくない。喜んで欲しい。だから私も同じ感情を知りたいと思った。好きだから好きな人と付き合う。これなら誰も不幸にならない。でも嘘が絡めば私たちの関係は一気に不穏になってしまう。
感情を偽らないと成り立たない関係なんて、恋人とも親友とも呼べない。もっと別の薄ら寒いものだ。正しい選択が何なのかは分かってる。それでも、やっぱり簡単には断言できない。
告白を拒めば、親友という関係にすらひびが入ってしまうかもしれない。
「……嘘をついて付き合うのか、それとも本当の気持ちを伝えて振るのか、お姉ちゃんにはまだ分からない。でもそもそもお姉ちゃんが恋をできないって決まったわけじゃないでしょ?」
「できると思うの?」
「……それも、分からないけど」
そもそも恋とはしようと思ってするものではない。無意識に落ちるものだ。お姉ちゃんも分かってる。
けどそれは意識的な恋が実在しない証拠にはならない。私は自分が普通じゃないなんて、嫌というほど理解している。小学校でも中学校でも高校でも、周りが興味を持つことに無関心だった。
みんなが部活に汗を流したり、友達と楽しい放課後を過ごしている間にも、お姉ちゃんは妹だけを愛でていた。今さら人と違うことに恐れを抱いたりなんてしない。不安はあっても、ためらう理由にはならない。
「分からないことばかりだけど、お姉ちゃんはそう簡単に諦めない。これだけは分かるよ」
微笑むと藍は気の毒そうに目を細めた。
「せいぜい無理しすぎないようにね」
「お姉ちゃんのこと心配してくれてるの?」
「違うし。私に迷惑かけるなって言ってるの」
ぷいと顔を背けた藍は、またお姉ちゃんの手をぐいぐいと引っ張った。
映画が終わったのは午後四時ごろだった。エンドロールが終わってから席を立つ。ポスターからは想像もできないほどに暗い映画だった。田舎の閉鎖的なコミュニティで、主人公たちは将来を誓い合うような関係になってゆく。けれど周囲の人間はそれを許さない。それぞれの許嫁との結婚を強いられるのだ。
私は恋愛が分からないから、主人公たちの恋に共感はできなかった。ただそれ以外の部分でなら興味を惹かれる部分はあった。映画館の薄暗い通路を、藍と二人で歩きながらつぶやく。
「とんでもなく暗い内容だったけど結構面白かった」
「二人が雨の中でキスするシーン最高だったよね」
余韻に浸っているのかぼんやりした声だった。
この子が言っているのはクライマックスのシーンだ。駆け落ちの計画を立てるも村人に邪魔され、結ばれないことを憂いた二人は荒れ狂う川に身を投げる。その直前に、キスをしていたのだ。
「そこも良かったけど、お姉ちゃんは二人で身投げするところが切なくて良かったよ」
「えー? そこが一番気に入らなかったんだけど。ご都合でもいいから救ってほしかった」
「やっぱり藍はおこちゃまだねぇ」
ニヤニヤ笑っていると横腹を肘でうたれた。
「幸せなのが一番いいに決まってるでしょ」
「それはそうだけど、あそこから救われるのは嘘くさくない?」
「分かってる。でもやっぱりもやもやする……」
藍は難しい顔だった。悲しい結末は受け入れ難いのだろう。
でも完璧な幸せなんて現実にはないって、お姉ちゃんは知っている。藍くらいの年齢で見ていたら、同じような感想を抱いたのかもしれないけれど、今はいろいろと考えてしまうのだ。
藍はお姉ちゃんが真人間になることを望んでいる。恋愛映画に誘ってくれたのもそのためだ。お姉ちゃんが好きだから一緒にお出かけをしてくれたわけではない。嬉しいことに違いはないけれど、やっぱり寂しい。
空調が効いた映画館の外に出ると、空はまだまだ明るい。蝉も喧しく鳴いている。休日なだけあって通りにはたくさんの車が行き来しているし、人通りもなかなかに多い。手のひらで顔を扇ぎながら、藍に問いかける。
「これからどうする? 帰る?」
「なんか甘いもの食べてから帰らない? 気分が重い」
「じゃあファミレスでパフェ食べようよ。お姉ちゃんが奢るから」
人ごみの中を進んで駅の方へと向かう。小規模な駅ビルの中にはファミレスも併設されている。駅前の広場まで歩くと、目の前を藍と同じくらいの女の子たちが通り過ぎて行った。
そういえば最近の藍はほとんど友達と遊んでいない気がする。平日も休みの日もいつだって家で遊んでいるような。お姉ちゃんとしては嬉しいから、悪いことだとは考えていなかった。でも大丈夫なのだろうか?
問いかけようとして隣をみると、藍の姿がない。
「……藍?」
「後ろだよ。ちょっと隠れさせて」
背中からこそこそとした声が聞こえてくる。体温がぴったりとくっついて離れないのだ。
「隠れるっていったい何から……」
問いかけるうちにも、藍は背中からお姉ちゃんの腕まで移動していた。熱の反対側をみると、さっき通り過ぎて行った女の子たちが目に入る。随分とおしゃれな子たちだった。少なくともお姉ちゃんの割引ファッションでは太刀打ちできそうにはない。とはいえ容姿は藍の方がずっと可愛い。流石私の妹だ。
なんて無意識に胸を張っていると、藍は大きく息を吐いた。
「……危ない所だった。こんなダサい姉と一緒なところみられると最悪だからね」
「ひどい! お姉ちゃんだって結構な美人でしょ?」
「顔は良くても服装がね……」
ジト目で見つめられてしまった。反論できないのが悲しい。お姉ちゃんの服は売れ残った安物ばかりなのだ。組み合わせてくれた藍にファッションセンスがあっても、服そのものがだめなら当然ダサくなってしまう。
「それよりも早くいこうよ。パフェ奢ってくれるんでしょ」
藍はお姉ちゃんの手を、急かすみたいにぐいぐい引っ張るのだった。
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