例え記憶を失くしても、確かに君はそこにいた。

綴詩翠

記憶を失った彼女



午後六時。

珍しく母親から電話がかかってきた。

この時もう既に嫌な予感がしており、恐る恐る出てみると、母親は酷く焦ったような声をしていた。



『あ、もしもし?今もう仕事は終わってるんだけど、さっきなぎちゃんのお母さんから電話がかかってきてね、凪ちゃんが事故にあって救急車で運ばれたって言うから私病院に……』



凪。

俺の幼稚園からの幼なじみ。

家が隣ということもあって仲良くなるまで時間はかからず、徐々に凪に惹かれていった俺から告白し、今は幼なじみと同時に彼女でもある。

そんな凪が事故にあった。

そんなのいても立ってもいられず、母親の話を最後まで聞かずに、俺は家を飛び出た。

ここら辺で運ばれると言ったらあの病院だろう。

幸いにもその心当たりがあったため、俺は曖昧な記憶を元に病院へ急いだ。



病院へ着くと、ロビーに椅子に座っている母親の姿が見えたが、凪本人と凪の両親の姿は見えなかった。



「母さんっ」

「あっ、璃空りく!」

「凪は、凪……っ」



いち早く凪の容態について知りたくて母親に尋ねるも、母親もここに救急搬送されてきたことしか分からないらしい。

受付で凪ことについて聞いてみるも、まだ待つことしか出来ないと言われたそう。



……くそ……っ



心臓の音をうるさくしながら待つこと三十分。

辛そうに顔をしかめている凪の父親と、涙を流している凪の母親が、院内の奥からやっていた。

二人の姿を見ると何も言葉が出ず、心の中で凪の無事だけを願った。

重い足取りで凪の両親の後をついて行くと、とある病室に着き、そこにはベッドに仰向けになって眠っている凪の姿があった。

頭には包帯が巻いてあり決して無事とは言えないが、生きていることにはただただ安心した。



この時間帯に事故にあったということは、凪は部活帰りだったのだろう。

対して俺は部活に入っていないから、授業が終わったらすぐに下校する。



……迎えに行っていれば、俺がいれば、命を懸けてでも守ったのに……

何、やってんだよ……っ



自分の無力さに腹が立ち、拳にギュッと力を込める。

弱々しい声でもなんとか凪の容態について説明してくれている凪の父親の声は、俺には届いていなかった。



数分経って凪の父親の声が聞こえなくなると、これからどうするかという話を親同士が始めた。

俺はここに残りたかったが、凪の両親だって娘の近くにいたいだろう。

それを思い、俺と母さんはとりあえず家に帰ることにした。

その日の食欲が無かったのは、言うまでもなく。



翌日の昼、凪は目を覚ました。

しかしそれを知ったのは学校が終わってからだったため、すぐ凪に会いに行けた訳ではない。

それでも一日で目が覚めたのだから、きっと大丈夫……


そう、思っていた。



昨日と同じ病室に向かうと、そこには体を起こして窓の外を眺めている凪の姿があった。

どうやら他には誰もいないらしい。



「凪……っ」



目を覚ましてくれてありがとう。

そして、傍にいて守ってあげられなくてごめん。

そう言おうと凪を抱きしめようとした時。



「え、っと……どちら様ですか?」

「……は」



凪は、俺のことを覚えていなかった。



「い、いや何言って……璃空だよ、お前の幼なじみで、彼氏……だろ?」



うっかりしていたと、そうだ璃空だ、と笑って欲しかった。

でも。



「えっ、幼なじみ……彼氏……?」

「っ……」



凪から向けられる視線は、人見知りの凪がご近所さんなどに向ける視線と、同じだった。



一時間後、凪の両親も交えて医者に話を聞くと、どうやら凪は、俺の記憶だけを失っているらしい。

そして、記憶が戻るかこのままなのかは分からないと。



凪は、凪の両親と普段通りに話している。

心配かけてごめんねと、笑みを浮かべながら。



……なんで、俺だけ……っ



それについて医者から言われたのは、断定は出来ないが、俺に対する思いが強かったからではないか、ということだった。



もし本当にそうなら、嬉しいと思った。

それだけ凪が、俺のことを好いてくれているということだから。

でも同時に、胸がきゅうっと痛かった。



またゼロからなのか……?

今まで凪と過ごしてきた時間が、凪の中から消えた……?



言葉を失う俺を見て、凪の母親は口を開く。



「璃空くん……どうか、凪のこと見捨てないでやってね」

「っ有り得ません!絶対に、それだけは……」



いくら凪が俺の記憶を失くしているからって、凪と別れたいとか距離を置きたいとかは思いもしない。



俺の返答に、凪の母親は少し微笑んで言った。



「ありがとう。記憶が戻ることを祈いながら、これからも凪のことをよろしくね」



その言葉は俺の心に深く響き、とある決意をさせた。

もし記憶が戻ったら万々歳。

そして記憶が戻らなくても、もう一度俺のことを好きにさせてみせる、と。



それならまずは自己紹介だな。

例えウザがられても、諦めないから。



そうして、記憶を失くした恋人との、二度目の恋が始まった。





翌日から俺は、時間が許す限り凪に会いに病院へ行き、会話を続けた。

趣味やら今ハマっているアーティストや世間話やら、何気ないことをずっと。

凪とはまだ距離が感じられるが、時間に比例して凪と仲良くなれている……と思う。



そんな日々が四日ほど続くと、凪の入院生活は終わりを迎えた。

その記念に、その日から一週間後の土曜日。

俺と凪は遊園地に行くことにした。

そこは俺と凪の初デートの場所であり、また行こうと約束もしていた。

初デートの場所だから、他の場所よりは思入れがあるだろう。

だから何か思い出すことがあるのではないかと、期待を込めて。



デート……と言っていいのかは分からないが当日。

家を出ると、その直後に凪が玄関から出てきた。

ナイスタイミング、なんて笑い合いながら、電車に乗って目的地へ向かった。



「とうちゃ〜くっ」



家を出てから三十分後。

俺たちは遊園地に着き、凪はテンション高く声を上げた。

凪に早く早く、と急かされたため、急いでフリーパスを購入した。



「ねぇ璃空くんっ、あれ乗ろ!」



そう言って凪が指さしたのは、パステルカラーが目立つコーヒーカップだった。

凪ならジェットコースターに乗ろうと言うと思っていたのに、そうでなかったのは、きっと俺に気を遣っているからだろう。

俺が絶叫系アトラクションに乗れるか分からないから。

聞いてくれたらいいし、実際俺は絶叫系アトラクションが好きだ。

それに例え絶叫系アトラクションが得意でなくても、凪と一緒なら乗るのに。



……やっぱり、キツイな……



以前の凪とは違うことを再確認させられ、胸が痛む。

しかしそれを顔に出さないように、俺は笑顔で



「そうするか」



と返事をした。



コーヒーカップに乗った流れで、凪は俺の手を引いて次々とアトラクションに乗った。

でも、それは全て絶叫系以外のアトラクションだった。



本当はジェットコースターに乗りたいんだろ?

分かってるよ、それくらい……

どれだけ凪のこと見てきたと思ってるんだよ?



そう言いたい気持ちをグッと抑えていると、気づけば園内にある全ての絶叫系以外のアトラクションに乗り終わっていた。

今度こそジェットコースターに誘ってくれると思っていたのに、凪はお土産が見たいと園内にある店舗に向かい始めた。

そこまで俺は凪にとって気を遣う対象になってしまったのか、と落ち込みながら店内へ入ると。

凪は「わあっ!」と声を上げて、一目散にとある場所へと駆けて行った。

そこは、レジの隣にある、遊園地のマスコットキャラクターのテディベアが置かれているブースだった。

凪はそこにある一番大きなテディベアを持ち上げ、



「このクマさん、どこかで見覚えがあるような……?まあいっか!抱きしめちゃえっ。ぎゅ〜っ」



と言ってテディベアを抱きしめた。

その光景に、俺は息を呑む。

以前、俺は酷く似た光景を見たことがある。

初デートの時、凪は同じくこのブースにやってきてテディベアを見つけると、



『このクマさん可愛い!抱きしめちゃうっ、ぎゅ〜っ』



と屈託のない笑顔で、今と同じくテディベアを抱きしめていた。



涙が俺の頬を静かに滑り落ちる。



「あ、あぁ……う……っ」



急に泣き出す俺に、凪は驚きながらもテディベアを一度置いて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

凪を困らせてはいけないと思っているのに、涙は止まることを知らなくて。



あの時から何も変わっていない。

声も、笑った時の眩しさも、所作の癖も。

記憶が無くても、今目の前にいる凪と、俺は確かにあの日、ここで恋人として時間に身を委ねていた。



記憶の有無は関係ない。

俺が好きになったのは、凪だ……っ

いつだって凪は、凪として生きているんだ……っ



そう思うと、少し他人行儀な凪に無自覚に傷を負っていた心が、温かな思い出に溶かされていった。



少しずつ、少しずつ仲を縮めていければ良いと思っていたけど、愛しい君への欲が抑えられなくて。

俺は凪を抱きしめた。



「絶対……絶対守るよ……っ事故になんか遭わせない、痛い思いなんかさせない。なんなら俺のこと忘れたままでも良いから、俺の隣にいて……っ」



凪がいてくれるならそれでいい。

大丈夫、俺は凪のことずっと好きでいる自信があるから。

もし記憶を失ったままでもまた俺のことを好きになってくれたら、十二分に、俺は幸せだ。



今の凪からしたら俺は、初めましてから二週間も経っていない知り合い程度。

なのにそんな俺に抱きつかれても拒絶せず、



「……分かったよ、璃空くん。そう言ってくれてありがとう」



と優しい言葉で俺を包み込んでくれたのだった。





その日は結局、遊園地から帰ってきても凪の記憶は戻らなかった。

でもあの後、凪の方からジェットコースターに乗りたいと言ってくれて、それが心から嬉しかった俺は、ついはしゃいで四回もジェットコースターに乗ってしまった。

凪を疲れさせてしまったかと慌てて様子を見ると、無邪気に、



「め〜っちゃ楽し〜い!」



と言いながら笑っていた。



その笑顔を見ると、凪の隣でその笑顔をずっと見ていたいという思いが大きくなった。



大丈夫。

大丈夫。



記憶が無くても、俺にとって凪という存在は一つしか無いのだから。

もう一度、恋を始めよう。




Fin.

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例え記憶を失くしても、確かに君はそこにいた。 綴詩翠 @tsuzurishisui

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