在りし日の魚

時雨澪

夕焼けの下を泳ぐ

 とある海に浮かぶ小さな島。ここには町と呼んでいいのか分からない程の狭い町がポツンと存在する。正面に深い青に染まる広い海を臨む事が出来る、穏やかで平和な町だった。

 町には小さい港があり、外の世界へ開かれているように見える。海へ向かうように木で出来た桟橋が伸びているが、ここに船が泊まるのは週に二度のみ。ここの人々が暮らしていくために必要な食料や物資が運び込まれるだけである。

 外へ出ていく人もこの島に入ってくる人もいない。小さく、閉鎖的な町だ。

 ある日の夕方、海は夕陽に照らされて輝いていた。海鳥の鳴き声が港に響く。桟橋には一人の少女が腰かけていた。年齢は十七、八くらいだろうか。フラフラと揺れる足は、あと少し長ければ水に浸かりそうだ。風が吹いて白い髪がなびく。真っ白な髪は陽の光に照らされて輝いており、遠くから見ても分かるほど目立っていた。着ている白のワンピースと相まって、少女は純白に包まれているようだった。

 町の方から一人の少年が恐る恐る歩いてきた。少女を警戒しながらゆっくり歩いてくる。日焼けした肌に茶色の髪。まだ中学生位の容貌だ。

 少年から見て、この少女は不審者だった。日差しの強いこの島で一切日焼けのしていない肌、見たことのない珍しい色の髪、町では流行っていない服装。

 しかし、少年の頭の中は好奇心に満ちていた。町にあんな人居たっけ。あの人は誰だ。少年は気になっていた。

 やがて片手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいた少年は、警戒した口調で言った。

「お前、誰? ここで何してんの」

 海とともに暮らしてきたこの町の人にとって、この景色は日常の一部になっている。わざわざ立ち止まって景色を眺める人は珍しい存在だった。

 少女は後ろから声をかけられたというのに全く驚いた様子を見せない。ゆっくり振り返ると少し微笑んだ。

「海を眺めているの。ここからの景色は綺麗だから。ほら、君もこっちおいでよ」

 少女は一緒に海でも見ようと少年を手招きした。見たことのない顔とまったく物怖じしない様子に少年は少したじろいだが、少し考える様子を見せた後に少女の隣に腰掛けた。

 手の届く距離に並んで座っているのに、二人とも何も話さず、ただ時間と風が流れていく。近くで鳥の羽ばたく音がした。波は絶えず押し寄せる。遠くで大きな魚が何匹も跳ねた。

「なあ、もう少しで陽が沈むけどさ、お前は帰らなくて良いのか?」

 やがて少年が口を開いた。もうあと少しで太陽と水平線が引っ付いてしまいそうだ。

「あたしはいいの」

 少女は目を閉じて言った。少年に言ったというより、自分に言い聞かせているようだった。

「どうして」

 少年は彼女の方を見た。眉をひそめて困惑の表情を浮かべている。

「別に理由なんてないよ。帰りたくないから帰らない。ただそれだけ」

 少女は口の端を少しあげて意地悪な笑顔を見せる。

「っ……よくわかんねえや」

 少年は目を逸らし、空を見上げた。

「君の方こそ帰らなくていいの?」

 少女は少年の反応を面白がって少し彼の方に体を近づけた。

「俺はいいんだよ。家が近いからな」

 少年は少女から逃げるように顔を彼女と反対の方に向けた。耳が真っ赤になっているのは夕陽に照らされているからだろうか。

「ふーん……よくわかんねーや」

 少女の口調はさっきの少年を真似するようだった。

「ちょっ、やめろよ――」

「ふふっ……!」

「――」

 少年は反抗するように彼女の方を見た。しかし、少女の笑顔を見るや否や、また顔をそむけてしまった。耳だけではなく、顔まで真っ赤に染まっている。

「――ああもう!」

 再び無言の時間が流れる。毎時零分をお知らせする町内無線のチャイム。猫の鳴き声。少年の深呼吸。

「そういえば――」

 少年が口を開いた。まだ港は夕陽に照らされているが、もう耳は赤くない。ただ、頑なに少女の顔を見ようとはしなかった。

「どうしたの?」

 少女も彼の顔を見ようとはしない。しかし、少年の顔が見れないというより、少女の顔は海の景色に見惚れているようだった。

「お前、引っ越してきたの?」

「え、どうして?」

「いやほら、見ない顔だからさ。ここって小さな町だから大体の人の顔は覚えているんだ」

「ああ……そうなんだ。……まあ、引っ越しみたいなものかな」

 少女は少し言い淀んだ。

 少年はそんな少女の様子など気に留めず、「やっぱり」と予想が当たったことに喜んでいる。

「この町はどう?」

 少年は先輩気取りの口調で彼女に聞いた。

「潮風に波の音、あと景色! とっても良い町だと思うよ」

「ふーん……」

 少年にとって日常と化した部分を褒められるとは思わず、間の抜けた返事になってしまった。

「あれ、これってあんまり褒め言葉になってない?」

「そ、そんな事無いよ」

「そうだよね。今だってこんな綺麗な景色が広がっているんだから!」

 少女が指差す方向に少年の頭は釣られるように動いた。

 彼方まで広がる海、岬の先に建つ灯台、空に浮かぶ雲。遠くでゆっくり動く船。少年はいつも見ている風景なのに、今日は少し違って見えた。

「……あ、虹だ」

 少年はそう言って目を見開いた。

 水平線の向こう側、夕焼けの空を半分沈んだ太陽を跨ぐように綺麗な七色の半円が浮かんでいた。

「このタイミングで虹が架かるなんて……なんだかロマンチックじゃない?」

 少女は彼に問いかけた。少年は何も言葉を返さない。少年は景色に夢中になっていた。目をキラキラと輝かせて、開いた口を閉じることすら忘れている。少年にとって虹を見ることなんて滅多に無いことだった。

 やがて虹が端の方から消えかかった頃、少年がゆっくりと話し始めた。

「オレさ、初めて虹を見た時にどうしても虹の根元が見たいって思ったんだよ。それでオレは虹の方に向かって走ったんだ。でもどれだけ走っても虹に触ることができなかった。港まで走ったのに、桟橋の一番先まで走ったのに、虹はずっと向こうにいたんだ。なんだか悲しくなって帰ろうとしたら、桟橋に一匹の魚が打ち上がっていたんだ。真っ白で、見たことない魚だった。それでさ、オレ、『助けないと』って思って急いで家まで持って帰ったんだ。今考えればそのまま海に返せばよかったのに。……あ、ごめん話しすぎた。虹を見てたらつい」

 少年は少女の視線に気づいて話を止めた。少女は真っすぐ少年の目を見つめている。

「いや、その話気になる。続き聞かせて?」

 少女の表情は真剣だった。

「ホント? 面白くもなんとも無いよ。たまたま家で海水魚を飼ってたから、オレは水槽に拾った魚を放り込んだんだ。最初は弱っていたのか全然動かなくて不安だったな。でも、しばらく待ってたらゆっくり動きだしたんだ。あの時は嬉しかったなあ。とっても嬉しいから一人ではしゃいでいた。そしたら母ちゃんがやってきて、真っ白な魚を見てめちゃくちゃ怒りだしたんだよ。『どうして知らない魚を持ってきたの。勝手に持ってきちゃだめ』って。カンカンに怒ってた。あんなに怒った母ちゃんは初めてだったし、あれ以来あんなに怒った姿見た事ないな。あ、でも母ちゃんは魚が好きだから、完全に元気になるまでは別の水槽を用意して面倒見させてくれたよ。三日経って元気になったらすぐ海に返す事になっちゃったけど。……ごめん、いきなりこんなに話して。虹を見てつい思い出しちゃった」

「ふふっ、君ってば優しいんだね!」

 少女は顔を近づけた。どことなく嬉しそうで、少しテンションも高い

「そんな事無えし。ちょっ、近いって」

 少年の顔がまた真っ赤に染まった。

「また照れてる」

「……もう暗くなってきたし帰るから!」

 少年は立ち上がった。少女から逃げるように背を向けて歩き始める。空はどんどん暗くなっていく。もう帰る時間だ。

「ねえ」

 少女は少年の背中に声をかけた。

「なに」

 少年は立ち止まる。しかし振り向きはしなかった。

「君は明日もここに来る?」

「……お前が来るなら」

「わかった。じゃあ明日も待ってるよ。ここに帰ってきてね」

「わかった」

「明日は君の家を見てみたいな」

「……はあ?!」

 そこで少年はようやく振り向いた。驚きの表情に満ちあふれている。

「ふふっ! もうそんな顔しないでよ。かわいい顔が台無しだよ」

 また少女は意地悪そうな顔をしている。

「からかったのか」

 少年の表情は怒りに変わった。

「いや、本気だよ。考えておいて」

 少女はウインクした。

「っ……おう」

 そう言うと少年は顔を赤くして照れ始める。そして逃げるように走ってこの場を離れていった。

「また明日」

 少女は少年の背中に向かって小さく呟くと正面を向き直す。眼前には広い海が広がっていた。

 港から見る海はとても綺麗だ。明るくて、輝いていて、開放的だ。

 今日はもう帰ろう。明日またここに来れば良い。

 少女は明日もあの少年に会えることを願いながら、音を立てないようにそっと海に飛び込んだ。

 港にはあの日桟橋に打ち上がっていた白い魚が家路を優雅に泳いでいる。

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在りし日の魚 時雨澪 @shimotsuki0723

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