48 世界は一変する、かもしれない

 就職してから三回目の給料をもらうと、吾郎くんは私をとある小洒落たレストランに連れて行った。


 吾郎くんは、慣れない電話をして初めての予約をした。彼の成長ぶりと頑張って人間社会に馴染もうと努力する姿に、私の涙腺は崩壊寸前だった。なのにその上、ひと通り食事を済ませてデザートでも頼もうかと話していたら、突然床に片膝をついて私の手を取り「結婚して下さい!」と泣きそうな顔で言われた時の衝撃と言ったら。


 あれはもう、言葉では言い表せない。自分がプロポーズされる未来を思い描いていなかった私の涙腺は、その瞬間完全に崩壊した。


 それにしても、結婚という概念をまだきちんと教えていなかったのにも関わらず、どうしてこんなことが計画できたのか。脳裏にポポンと出てきた顔は、母と山崎さんのものだった。まあ大体この予想で間違っていないと思う。


 差し出された小さな箱の中に入っていたのは、紫色の石がついた婚約指輪だった。自分の目の色に合わせてくるあたりが彼の独占欲の強さを表しているけど、別に悪いとは思ってない。むしろ私にとっては嬉しいことだ。ちなみに指のサイズは、私が寝ている間にこっそり細めの根っこを指に巻いて確認していたというから驚きだ。


 泣いて泣いてもう涙が止まらなくて嗚咽が酷いことになった私に、吾郎くんは泣き止ませようと手のひらにポンと花を咲かせた。誰かに見られていないかと私が大慌てで摘み取ると、私が嬉しくて摘み取ったと思ったのか、次から次へとポンポポンと色んな花を出してしまい、慌てて摘み取っている内に私と吾郎くんの足許は花だらけになってしまった。


 店員さんたちが、これは一体どこから出したのかと目を点にしていたのも、今となっては懐かしい思い出だ。尚、その時の最初の花は、栞にしてきちんと残してある。


 私たちの結婚式は、聖域で行われた。事情を知る母と山崎さんだけが招かれると、聖域には花が咲き乱れ、人の形をした根が祝いの花びらを降らせてくれた。その中には、きっと父の姿もあったのだろうと思う。だけど遠かったせいで、顔までは見えなかった。


 山崎さんに言われたようなことは禁止、とずっと言い渡されていた吾郎くんは、ひたすら待った。軽いキスまでは自分がした手前許可したけど、それ以上は禁止した。


 何故かというと、心底どうしたらいいかが分からなかったからだ。そしてその禁止条例は、結婚式が終わった初夜直前まで効力を発揮した。お前は鬼か、と母に言われた記憶も、今となっては……懐かしいのだろうか。ちなみに私以上に知識を蓄えていた吾郎くんに身を任せたら、何とかなった。


 折角働き始めたばかりで、すぐには辞めたくない。ということで、私は避妊することを主張した。でも、人間、いや片方はマンドラゴラだけど、つい「まあいっか」となってしまう瞬間はあるものだ。


 ある暑い夏の日に、キンキンに冷やしたビールを縁側に腰掛けながら飲んだ。お茶じゃなくてビールもありなんだと嬉しくなって、ちょっとばかり飲み過ぎたのだ。お酒を飲み慣れない私は、当然酔っ払う。吾郎くんは、正直言って分からない。でも多分、そんなに酔っていなかったと思う。どちらからともなくキスをして、吾郎くんにゆっくり縁側に押し倒されて――。


 そしてその一回でできたのが、このお腹に宿る新しい命だった。


 豊穣、かくあるべしだ。


「美空、車持ってきたよ」


 再び現れた吾郎くんが、穏やかな笑みを浮かべながらカフェに入ってきた。


 私は重くなった腰をよっこいしょと上げると、遠藤さんに小さく手を振る。


「遠藤さん、じゃあまた連絡するね!」

「うん! 私もする!」

「遠藤さん、お疲れ様です」

「はい、秋野さんも」


 吾郎くんは遠藤さんに会釈すると、私の身体を支えながら車まで連れて行ってくれた。


「美空、座れる? 僕が抱っこして座らせようか?」


 助手席のドアを開けた吾郎くんが、心配そうに尋ねる。


「ううん、大丈夫。お医者さんも動いた方がいいって言ってたし」

「本当? 無理はしないでね」

「うん」


 秋野さん――。そう、吾郎くんは秋野吾郎になった。代々脈々と受け継がれてきた根子神様の血が宿る秋野家の名前を、私の代でなくしてしまうのは惜しかった。山崎という苗字は完全にその時の利便性を考えて付けた物だったので、誰にも拘りはない。秋野姓を取ることに、一切問題はなかった。


 思えば、植物くんからゴラくん、山崎吾郎に最後は秋野吾郎と、吾郎くんの名前は目まぐるしく変わった。だけどそれを吾郎くんは気に留めた様子はない。吾郎くんにとっては名前なんて些末なことで、私が隣にいることの方が重要なんだそうだ。さすがは愛情深いマンドラゴラの王様。言うことが違う。


 カフェから少し離れた場所まで車で行き、遠藤さんの義理のご両親であり吾郎くんと私の雇い主でもあるみなさんにご挨拶を済ませた。そのまま、聖域近くにある秋野家へと向かう。


「美空、お腹は大丈夫?」


 すっかり運転姿が様になった吾郎くんが、心配そうに尋ねてきた。心配性で不安症なのは、前から変わっていない。吾郎くんは、もうずっと常に私のことを気遣ってくれているし、この先もきっと二人が皺くちゃになるまでこれは変わらないだろう。


「うん。今は平気だよ」

「そっか。……ねえ、女の子かな、男の子かな」


 吾郎くんが楽しそうに聞く。どちらでも構わないけど、吾郎くんに似てたらいいなと思う。


「あ、そうだ」

「どうしたの?」


 思い出したように言う吾郎くんに、問い返す。返ってきたのは、とんでもない提案だった。


「これからも、沢山子どもが増えるでしょ? お金もかかるだろうから、聖域で野菜を育てようよ。あそこなら、何もしなくても沢山採れるよ」


 まず、子どもが沢山増えるという言葉。まだひとり目も生まれていないのに、一体何人仕込むつもりなんだろう。


 ――そして。


「聖域はご先祖様が眠ってる場所でしょ?」

「そんなの、どこを掘っても誰かしら眠ってるよ」


 こういうところは、吾郎くんらしさが満載だ。達観していると言うか、元が植物だからか。可笑しくなって、つい頬が緩む。


「土壌は栄養たっぷりだし」

「こら」


 確かに栄養はたっぷりだ。マンドラゴラの王様を育てるだけの土壌が、あそこにはあるのだから。


「ふ……ふふ、やだなあもう吾郎くんってば」

「あは、美空が笑ったから、僕の勝ちだね」


 今度こそ、私は笑いが止まらなくなった。そんな私を、吾郎くんは相変わらず優しい眼差しでにこにこと見守るのだ。これまでも、そしてこれから先も、ずっとずっと。


 ――地球上では、毎日何かが生まれ、生き、死んでいっては他の生き物の糧となっている。


 そのことを生まれる前から理解している吾郎くんは、だから生を精一杯楽しむことに熱心だ。


 それでも、これまで覇気がないと言われ続けた私を伴侶に選び、ゆっくりとしたペースの私の横でいつまでも待ってくれている。


 ほら、どうだ。こんな私でも、一風変わってるかもしれないけど、ちゃんと今私は幸せだと言うことができるようになったじゃないか。


 人と同じでなくていい。そんなこと、はじめから求めること自体が無理だったのだ。何故なら、どう足掻こうが私は私にしかなれないのだから。


 縁というものは、どこでどう繋がっているかなんて自分では分からないものだ。


 縁があっても知らないままで終わることもあるだろうし、縁がなくてもいずれは繋がることだってあるのだと思う。


 だからもし、あの時の私のように前に進めずにいる人に出会うことがあったら、伝えたい。


 ちょっとでも興味があると思うことがあったら。


 少しでも、今踏んでしまったものは何だったのかな、そう思ったら。


 その葉をめくり、好奇心の元を是非見てみて欲しい。


 そこから、もしかしたら世界は一変するかもしれないから。

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