静か過ぎる隣人

白川津 中々

◾️

住処に拘りがなかった俺は相場より随分安いアパートを借りていた。


どうせ寝に帰るだけだしなんでもいいと思っていたが、あらゆる水回りからドブの臭いがするし空気が淀んでいて生温かい。もちろん壁は薄く、住んでいる人間の実態が音として聞こえてくる。夜になると晩飯に何を作っているのかとか、本を何ページめくったとかとかが筒抜けで、なんともいえない気まずさがあった。住民は早期退去か長く居座るかの二択。即ち、想像以上の住み心地の悪さに根を上げて出ていくか、こんなところにしか住めない人間かである。俺のお隣は前者が多く、まさしく入れ替わり立ち替わりで、とにかく頻繁に部屋主が変わっていき、もう慣れたよという頃合いに一人の女が新しい隣人となった。律儀に菓子折りを持ってきて挨拶をするような、礼儀のある女だった。

彼女が来てから、隣からは一切音が聞こえなくなった。衣擦れや、時には吐息だって遠慮なく突き抜けてくる薄壁なのに、非常に不自然である。静かなのはいいのだがいかんせん不気味。まさか管理会社に「静か過ぎる」と言いつけるわけにもいかないし、本人に聞くのも不躾であるから黙っていたが、秘密を探れるチャンスがやってきた。実家から大量の梨が送られてきたのだ。お裾分けと称して玄関を叩けば部屋の中を覗けるかもしれない。もし遮音仕様に改築していたとしたら、総額幾ら程金がかかったのか聞こうなどと考えていた。


「すみません」


片手で梨を持ち、もう一方の手で戸を叩く。返事はない。


「すみません」


やはり無音。

試しにドアノブを回すと、抵抗なく半回転し、ギィと扉が開いた。


部屋の中は真っ暗だった。

持ってきた梨を床に置いてスマートフォンの明かりをつける。しかし、誰もいない。それどころか、借りる前の状態のようである。


俺は寒気を覚え、部屋に引き返してそのまま寝てしまった。


翌日、出かけようと部屋を出ると、隣の女がいた。


「梨、ありがとうございます」


そう笑いかける彼女の表情は、ゾッとするほど冷たく、恐ろしかった。


俺はそのまま即座に不動産屋へ行き、退去の手続きを済ませて、今は防音性の高いマンションに住んでいる。

まったく音は聞こえないが、あの女が隣にいるから静かなのではないかと疑心に駆られる事がある。


静寂が恐ろしい。

静かな場所にはあの女がいるかもしれない。


俺は、どこへ行くにもイヤホンが手放せなくなってしまった。最近、音量を最大にしているせいか、耳が遠くなってきている気がする。もし聴覚が機能しなくなったら、完全なる無音の世界に放り込まれたら、俺は……



限度いっぱいのボリュームボタンを何度も押し続ける。



音がもっとほしい。もっと、もっと……

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