小林秀雄の覚悟 ー或いは表現の本質についてー

梅崎幸吉

第1話

小林秀雄の覚悟  ――或いは表現の本質について――



ー前略ー 「世には、あらゆる思想の形式に共鳴する贅沢な理知がある。その希う処は、懐疑の雑音を如何にして整調すべきかにある。また、仮初の荊棘にも流血して、泥中を輾転する心臓がある。」(志賀直哉論)

  

 現象的には対極としてしか存在せざるを得ないこの生き方を結ぶ為にはどうすればよいか? この相矛盾する極の日常化を実現せしめんとするのを実行家の精神と呼ぶ。思考、心情を深め緻密にすればこの両極の間を時計の振り子のごとく揺れる。世相の乱脈な人間関係は多種多様な視点、価値観等で手のつけられぬ様相である。ものが見えすぎても、感じすぎても人は身動き出来なくなる。人々が不変不動の原理、支点を所有したいと願うのは無理からぬ事である。


 世の常とはいえ、無常なる意識を実生活から体得し、目覚めた存在が日常の中で観るあらゆる人々の阿鼻叫喚の様相を正視し、しつつも堪え得るのはよほどの存在でなければ無理からぬと悟る。この意識状態でいかんともし難い無力感が個人の魂を嵐のごとく襲うのである。ましてや、教義に依らず、体系に依らず一個人の名においてどこまで成 し得るか? この問いは近世より個々人の課題となって、今日においてはすでに自明のものとなっている。とはいえ、この問いを悟性で理解する存在は今だ少数であり、ましてや体得し得て実践している存在はゼロに等しい。感覚や心情レベルで感じている存在は常にバランスを失うかも知れぬ、というのが実情である。


 「僕等は彼の当てどのない憤怒の彼方に虚無を見る。いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。」さらに「自明で何の苦もない行為が、何と苦しい忍耐を要する実践と映るか。」と、ついに小林秀雄は断腸の思いで言い切る。「彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼は、ランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕らだ、僕ら皆んなのギリギリの姿だ。」と。ランボオも時代も若すぎたのである。他の分野でも同時進行して個人の受難が加速し始めた。有名、無 名を問わず。



                Ⅳ



 小林秀雄の覚悟は本来の人間ならば誰でもが所有せねばならぬものであり、具えようとすれば誰でもが所有することが出来る。その深浅、強弱など問題とならぬ質のものでありながらそれを持続し得ないのは他者との比較、或は自己との内的戦いに疲労する等々の個々人によって理由は異なるが、単純に言えば自己自身を支えるに足る足場を所有出来ない事による。悟性による理解と日常の実践との溝は実に深いのである。誰も好んで不安や痛い目、苦悩など望まない。出会いと訣別、誤解や無理解等は自明の事として歩まねばならぬからである。

 俗に言う「浅く広く」が社会の中で自他との関係を保つ止むを得ぬ形式となる。時と共に習慣化し、有形、無形の毒と化す。そこに個人の存在、或いは個人の責任は存しない。ゆえに最も野蛮な力ともなり、脆弱でもあり、かつ水のようにいかなる容器にもすぐに収まる。無論、毒も使用法によっては薬ともなる。習慣のあらゆる形式の集合体が社会である。その形式の最初は毒でありそれが薄められ社会化する。


 あらゆる習慣の核には毒が存する。非凡から凡へ、さらに凡のうちに非凡を見い出した時、個人と社会との深い内的血縁関係を洞察するに至る。社会は常に有用なものしか受け入れぬ。身体的であれ、精神的であれ。ゆえに毒のままの存在は変容しない限り拒否される。自明の事である。小林秀雄は「✕への手紙」の中でこの事情を要約している。

「社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に堪える個性を強い個 性という。彼の眼と現実との間には、何ら理論的媒介物はない。彼の個人的実践の場は 社会より広くもなければ狭くもない。こういう精神の果てしない複雑の保持、これが本当の意味の孤独なのである。」と。さらに言えばこの孤独を体得した上で社会的存在として存在するのが真の個人と言うことである。個人と言ってもピンからキリまである。小林秀雄が「私小説論」のなかで吐いた「私小説は亡びたが、人々は『私』を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れて来るだろう。

 フロオベルの『マダム・ボヴァリィは私だ』という有名な図式が亡びないかぎりは」は今日でも、未来でも通用する。我々は「私」を征服してはいない。私を征服するとは真の自己認識の事であるが、その困難さは人類の過去を少しでも一瞥すれば明らかである。血塗られた歴史そのものである。ましてや自己認識に至った者の生き方は想像を絶するものだ。我々は簡単に凡、非凡と線を引く。だが責任は常に五分五分である。双方共責める訳にはいくまい。ここに又、相対的世界観の引力が作動する。対社会に対する個人のバランス操作には都合が良いが、個人の元来具えている能力や資質等を葬り去る力ともなる。さらには感受性そのものもマヒしていく。


 次の小林秀雄の「現代文学の不安」のなかにも この事が語られていて、今後もこの問題の深刻さは依然として変わらず、人々はイタチごっこをくり返していくであろう。「私たちは古人の夢を嗤うが、誰にもそんな権利はない。夢みるような余裕はないというが、誰も目を覚ましてはいない。人間が今日ほど悪夢に悩まされている時代はかってなかったであろう、と言えば悪夢とはこれまた古風な比喩であると嘲笑うほど私たちの悪夢は深い。たとえば一番簡明な例をとってみたまえ、私たちが無感覚になっている事実がどれほど深刻であるかがわかるだろう。」 と、だが今日においては事態はさらに加速していて無感覚の感覚が良しとされる世界観 が最も強力な社会的力であり、それに相反する思想は心理学の域を脱していない中途半端な神秘主義者達である。現実の眼前に存在する者の気持すら理解出来ぬくせに現実を 軽視し、個性を無視する。


 現在そこかしこにはびこっているほとんどの自称悟った、とのたもう存在達は小林秀雄の言わんとしている事を読み取ることは出来まい。神秘家という視点より見れば小林秀雄は真の神秘家に属するからである。あまりに自明の事ゆえ語らなかったにすぎぬし、又、いかに日常的地平に降ろすか、と常に心魂を砕いていたからだ。


 「自覚、これがいちばんむずかしい。自分自身を知る、この問題は汲み尽くせない。道徳の問題が汲み尽くせないゆえんも、そこにある、そこ以外にはない。しかし、いくら汲んでも汲み尽くせない処に眼をつけるのと、後から後から湧き出る処に眼をつけるのとはたいへん違うだろう。


──ゆえに道徳はついに一種の神秘道に通ずる。これを疑うものは不具者である。」(道徳について)。ー後略ー


(小林秀雄の覚悟  ――或いは表現の本質について―― より抜粋)


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