第7話 素直になる勇気―幼馴染が教えてくれたこと

小さな雨が降り始めた学内の中庭を見下ろすカフェテラスで、星野凌はスローペースに足を運んでいた。

ごく普通の日常なのに、今日だけはなぜか胸がざわつく。

認知的不協和について考えはじめてから、自分の感情と行動の噛み合わなさがよりはっきり見えるようになり、どうにも落ち着かないのだ。


「そろそろ来るはずなんだけど…」

小さくつぶやいたとき、カフェの入り口から槙村彩花が姿を見せる。

相変わらず黒髪をひとつに結び、淡いピンクのブラウスの上にカーディガンを羽織っている。

少し照れ臭そうに目をそらす凌を見つけ、彼女は「あれ?」という表情を浮かべて席についた。


「珍しく落ち着きないね。

今度は何を企んでるわけ?」

皮肉っぽい口調だが、どこか柔らかい眼差しが混じっている。

凌は視線をテーブルに落としながら深呼吸した。


「企んでるわけじゃないけど…ちょっと話があって。

いいかな?」

そう言いつつ、いつものように心理テクニックを使おうとは考えない。

むしろ、どうやったら自分の言葉で正直に気持ちを伝えられるか、それだけを考えている。


彩花はコーヒーを一口含み、静かに頷く。

「話って、あんたが真面目な顔するなんて珍しいね。

どうしたの?」


この瞬間、ドア・イン・ザ・フェイスもローボールテクニックも頭をよぎったが、全部脇に追いやる。

自分の行動を本心に沿わせるために、あえて単刀直入に切り出す勇気が必要だ。


「今まで散々テクニックに頼って、色んな女の子にアプローチしたけどさ…結局、うまくいかなかった。

それで認知的不協和がどうとか、理論的には説明できるんだけど、もう理屈ばかりじゃダメだと思うんだ」

心臓がバクバクし、鼓動が耳に響く。

彩花はそんな凌をじっと見つめ、いつになく真剣な表情を浮かべる。


「それで、本当は何が言いたいわけ?」


素直になる勇気とは、こういうことなのかもしれない。

フット・イン・ザ・ドアで小さなステップから入ろうと思ったが、今ここで一気に踏み込まなければ何も変わらない。

好意の返報性を期待するのではなく、まずは自分から本音をさらけ出す。


「彩花…俺、ずっと彩花のことを“幼馴染”だと思ってたんだ。

でも最近やっと分かった。

おまえを一番気にしてたの、実は俺自身なんだって」

意識して口にすると同時に、頭の中が一瞬真っ白になる。

彩花は一瞬驚いたように瞳を見開き、カフェのざわめきが一瞬遠のいたように感じられた。


「え、ちょっと…どういうこと?」

彩花が問い返す声はわずかに震えている。

凌はあらためて彩花の顔をしっかり見る。


「テクニックを使う俺を、おまえはずっと呆れたり、叱ったり、諭したりしてくれた。

でも、よく考えたらそれって俺に期待してくれてるからじゃないかって思ったんだ。

おまえに変なところ見られたくないって、無意識に思ってた。

結局、誰よりもおまえに好かれたかったんだって気がついてさ」


彩花は少し息を詰めたように瞬きをする。

おせっかい気質の彼女が、いつも凌を放っておけないのは“幼馴染だから”という言葉では片づかない感情があったのかもしれない。

ハロー効果や単純接触効果を期待するより、もっと根本的に大切なものがあると、凌はようやく理解した。


「それって…つまり、私を女として見てるってこと?」

彩花が視線を落としながらそう尋ねると、凌は改めて決意するように頷く。

「うん。

おまえと一緒にいるときが一番自然体でいられるし、逆に一番カッコつけたくなるんだ。

心理テクニックなんてどうでもいいくらい、本音で相手になりたいと思える相手って、彩花以外にいない」


一気に言葉を吐き出すと、心の中にあった不安と認知的不協和が薄れていくのを感じる。

テーブルの上で手を組んだまま、彩花は少し震えているようにも見える。

「なんでそんな大事なこと、今まで言わなかったのよ。

私だって、あんたの暴走を見てるとハラハラして…もうちょっと普通にしてほしいってずっと思ってた」


曖昧な静寂をかき消すように、外の小雨が少し強まる。

だが、不思議とカフェの中には暖かい空気が漂っている。

凌は彩花が返事に困っているのを見ながら、覚悟を決めたように続ける。


「ここでドア・イン・ザ・フェイスとかやれば笑えるかもしれないけど、もういいよな。

俺、自分の言葉で伝えたい。

彩花に好かれたい。

これからはテクニックじゃなくて、本気でぶつかってもいいか?」


しばらく黙っていた彩花は、ふっと口元を緩める。

「いいんじゃない?

正直、ちょっと照れるけどさ…あんたなら、まぁ許してあげてもいいかな」

どこか照れ隠しのように言い放った言葉だが、頬が赤く染まっているのが分かる。


凌は思わず笑みをこぼしながら、カップに残っていたコーヒーを一口飲む。

今までの失敗も、その一つひとつが遠回りしたからこそ、ここに辿り着けたのだろう。

ナンパ連敗や合コンでの作戦失敗、サークル先輩とのすれ違い――全部が、素直になるためのきっかけだったのかもしれない。


「ところで、今までは“落とす”とか言ってたけど、もうそういう言い方もしないほうがいいよな。

ただ…一緒に楽しい時間を作りたいだけなんだ。

それって、相手のことをもっと知りたいっていうシンプルな欲求だから」


彩花は軽くため息をつくように笑い、髪を耳にかける。

「ほんと、手間のかかる幼馴染ね。

でも、今のあんたは少しだけカッコよく見えるかも」


その瞬間、外の雨がいっそう強くなる。

窓ガラスを叩く音が心地よいBGMのように響き、テーブルの二人を包み込むように優しく広がっていく。

二人が何気なく見つめ合う様子に、周囲の学生たちは少しだけ興味を惹かれているようだが、そんなことは気にならない。


凌は無意識に彩花の手元に視線を落とし、小さく笑う。

「ありがとな。

結局、最後に大事なのは“素の自分”を見せることだったんだな。

心理学に頼るより、自分の気持ちに素直になる勇気が大切だったってわけか」


彩花は小声で「そうかもね」と答え、傘を持たずに来てしまったことを思い出したように窓の外を見る。

「そういや、雨止みそうにないね。

一緒に帰る?」

その言葉に、凌は心が弾むのを抑えきれない。


「うん。

確かにそろそろ行こうか。

雨宿り代わりに、ちょっと寄り道してもいいかな?」

彩花は呆れたように笑みを浮かべながら、「まぁ、いいんじゃない」と肩をすくめる。


これまで積み重ねた数々の失敗が、二人の視線を少しずつ穏やかに繋いでいるようにも感じられる。

そして、今ようやくスタートラインに立った気がする。

単純接触効果でも、フット・イン・ザ・ドアでもなく、ただ“素の自分”で一緒にいたいと思える人と向き合う。


そう決めた凌が一歩を踏み出すと、彩花は隣でそっと歩調を合わせてくれる。

携帯の心理学アプリなんて開く必要はない。

もう理論を並べ立てるより、相手のことをもっと知りたいという想いのほうが大きいのだから。


そうして二人は、雨の中を一緒に歩き出した。

行き先は特に決めていないが、きっとこれからはテクニックじゃなく、気持ちを交わす日々が待っている。

彩花がさりげなく笑いかける横顔に、凌は全身でドキドキを受け止めながら、傘のかわりにそっと彼女の手を引いた。

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心理学で恋愛しちゃダメですか 三坂鳴 @strapyoung

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