第6話 認知的不協和との向き合い―自分の気持ちを見つめる

図書館の木製デスクに座ったまま、星野凌は目の前の心理学の教科書をぼんやりとめくっていた。

“認知的不協和”という見出しが目に飛び込み、自然と視線がそこに留まる。

「自分の行動と信念が矛盾するとき、人は不快感を覚えて、無理にでも辻褄を合わせようとする…か」

声に出して読み上げた瞬間、胸の内にチクリとした痛みを感じた。


最近の行動を振り返ってみると、テクニックに頼ってばかりだったという事実が浮き彫りになる。

単純接触効果にしろ、好意の返報性にしろ、フット・イン・ザ・ドアにしろ、頭の中で描いていた理想と現実の結果はずいぶん違う。

なぜ恋愛したいのかと問われれば、「彼女が欲しい」以上の理由を深く考えたことがない。

そこに気付いてしまうと、今までの言動がどこか空回りしていた理由も分かる気がした。


その日は授業がなく、図書館も空いていたため、凌は周りをあまり気にせず考え事を続ける。

教科書に書かれた理論をツールとして使っているだけで、本来なら“相手を理解するため”に学ぶはずの心理学を、自分の都合のいいように曲げていないか。

本当に相手と向き合いたいのなら、まずは自分の気持ちに正直になるべきなのかもしれない。

だが、今まで必死で積み上げてきた「テクニックを使えればモテるはず」という思い込みを否定するのは、なかなか勇気がいる。


スマホが震え、画面には槙村彩花からのメッセージが表示される。

“今どこ?

何か考えてるなら、話くらい聞いてあげるけど”

素っ気ない文面ながらも、心配してくれているのが伝わる。

凌は少し迷ったが「図書館にいる」とだけ返事をし、机に置いてある教科書を見つめた。

認知的不協和という言葉が、今の自分をどう変えてくれるのか分からないまま、なんとも言えない居心地の悪さを噛みしめる。


やがて足音が近づき、彩花の姿が視界に入った。

「なんだか悩んでる顔してるね。

テクニック使ってもうまくいかないから、ちょっと落ち込んでるってとこ?」

彼女はさりげなく凌の向かいに腰を下ろし、図書館の静けさを気遣うように声を落とす。

「落ち込んでるっていうか…自分がやってること、なんか違う気がするんだよな。

この前のナンパも、合コンも、全部中途半端に終わったし」


彩花は小さくうなずきながら、机の上に置かれた教科書のページをちらりと見る。

「認知的不協和だよね。

自分の思い描く理想とかプライドと、実際の行動が食い違ってる状態。

そのままだと不快だから、何かで誤魔化して楽になろうとするけど…本質的な解決にはならないよね」


言いながら、彩花は携帯を取り出して画面を開く。

「そういえば、あんたから相談LINEが来たとき、ちょっと気になったことがあるんだけど…“なんで恋愛したいのか分からなくなってきた”って言ってたよね?

本音ではどう思ってるの?」


凌は一瞬言葉に詰まり、視線をそらすように机の隅を見つめる。

「なんだろう。

孤独は嫌だし、彼女がいたら楽しいって単純に思ってた。

でも、いざ心理テクニックでアプローチすると、なんか自分が自分じゃなくなる気がしてさ」


彩花はその言葉を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いたように息をつく。

「じゃあ、そこに認知的不協和があるんだろうね。

“純粋に相手と仲良くなりたい”気持ちと、“テクニックで女性を落とそう”としてる姿勢が矛盾しちゃってる」


図書館の天井から差し込む穏やかな光が、微妙な沈黙を照らし出す。

凌は開きっぱなしの教科書を閉じ、自分の胸に手を当てるような仕草をしてみせる。

「そんなに難しく考えなくてもいいんだろうけどさ。

でも、やっぱりもやもやするんだよ。

テクニックを学んできたのに、使えば使うほど失敗するし、自分が何をしたいのか分からなくなるし」


彩花は苦笑いしながら、鞄のポケットから飴玉を取り出して凌に差し出す。

「頭使いすぎて糖分足りてないんじゃない?

ま、こんなの気休めだけど」

凌は飴を受け取り、包みを剥きながら自嘲気味に笑う。

「見透かされてる感じ、悔しいけどありがと」


しばらくして、彩花は小さく咳払いをする。

「いちいち心理テクニックに頼るより、自分が感じた“好きだ”とか“もっと知りたい”って気持ちを大事にしてみたら?

まずは相手を一人の人間として見ないと、いくらテクニックあっても無意味じゃない?」


凌は飴を口に含んだまま、はっきりしない声で応える。

「まぁ、そうだよな。

今までだって彩花から何度も言われてたけど、なんか聞き流してた気がする」


彩花はあえて皮肉っぽい笑みを浮かべてみせる。

「フット・イン・ザ・ドアもローボールも、ドア・イン・ザ・フェイスも、そりゃあ正しく使えば効果あるんだろうけどさ。

そもそも人を“落とす”とか“誘導する”って考え方自体が、相手を見てない証拠じゃない?」


その言葉が、まるで核心を突くように凌の胸を突き刺す。

だけど、不思議と悪い気はしない。

背中を押されているような、どこか暖かい響きがあるのだ。

「たぶん俺、自分の理想に人を合わせようとしてたんだな。

目の前の相手が何考えてるかより、“どうすれば落とせるか”ばっかり見てたかも」


彩花はゆるやかにうなずくと、座っていた椅子を引いて立ち上がる。

「じゃ、もうちょっとだけ頑張って考えてみなよ。

自分の気持ちを誤魔化さないで、本当に相手のことを知りたいって思うのかどうか。

それが見えれば、認知的不協和も少しは軽くなるんじゃない?」


凌は彼女の言葉を反芻するように一度うなずき、教科書をそっとバッグに戻す。

「わかった。

ありがとう…彩花」

まるで言葉を選ぶように、控えめな声で礼を言う。

彩花は照れ隠しのように視線をそらしながら、軽く手を振って図書館を後にする。


そこに残された凌は、静まり返った机の上に手をかざし、ふうっと息を吐く。

認知的不協和という不快感を、どう解消するかは自分次第だと頭では分かっている。

ただ、テクニックに頼らないで人と向き合うというのは、今までにない挑戦でもある。

思い込みをひとつずつ崩すのは怖いが、どこか肩の力が抜けるような、不思議な解放感も少しだけ宿っていた。


席を立ったあと、窓際の書棚から一冊の本を手に取ってみる。

“恋愛心理学―本当の相手を知るために”と表紙に書かれたその本を眺めながら、凌は微かに笑みをこぼした。

そこに書かれているのは、テクニックというより、いろんな人の心に寄り添う術かもしれない。

やり方を変えるというより、考え方を見直す第一歩になるかもしれないと思いながら、本を抱えて貸出カウンターへ向かった。

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