第5話 ナンパ連敗とフット・イン・ザ・ドア / ローボールの挫折
週末の夕方、駅前の広場で星野凌は人通りを見渡しながら深呼吸をした。
誰かに声をかけようと決めてから、もう十分以上が経過している。
「とにかく小さなお願いから始めて、フット・イン・ザ・ドアで次のステップにつなげればいい。
ローボールテクニックを応用すれば、後からデートの条件を追加しても断られにくいはずだ」
そう自分を奮い立たせながら、凌はバッグの中の教科書をちらりと確かめる。
最初のターゲットは、ふわりとしたスカートを身にまとった女性だった。
「すみません。
このへんでおいしいカフェって知りませんか?」
自然な口調を装い、小さな頼みごとをするのがフット・イン・ザ・ドアの入り口だ。
相手は少し考え込んでから、近くにあるチェーンカフェの場所を教えてくれる。
「ありがとうございます。
そういえば、もしよかったら一緒に行きませんか?」
ここで一気にハードルを上げる。
しかし女性は戸惑った表情を浮かべたまま、曖昧な笑みで断りの言葉を濁す。
「そう、ですよね。
急にすみませんでした」
頭を下げた凌に、女性は気まずそうな表情を残して足早に去っていった。
「最初はうまくいかないか…」
そう呟きながらも、まだ諦めるつもりはない。
理論どおりにやれば、いつかは成功するはずだと信じている。
その後も、同じような形で何人かに声をかけては断られた。
今度はローボールテクニックを使ってみようと思い、一見負担の少ない誘いをチラつかせて、あとで条件を追加する方法を狙う。
例えば「すみません、駅までの道を教えてもらえませんか」と声をかけ、自然に会話を続けたあとで「実は、ちょっとだけ話したいことがあるんですけど…」と切り出す。
一度YESと言わせてしまえば、そのまま連絡先交換くらいは簡単にいけるはずだと期待している。
だが、この作戦もことごとく空回りに終わった。
駅までの道を教えてくれた女性に「良かったらLINE交換して、今度もう少し話しませんか」と言った瞬間に「ちょっとごめんなさい」と笑顔で拒否される。
あるいは「うーん、知らない人と交換するのは抵抗があって…」と丁重に断られるパターンもあった。
気づけば何人に声をかけたのかさえ覚えていないほどで、凌は疲れたように近くのベンチへと腰を下ろす。
「理論どおりにやってるはずなのにな。
なんでみんな警戒するんだろう」
小声でぼやきながらスマホを開くと、腐れ縁の槙村彩花からのメッセージが届いている。
“今、駅前にいるでしょ?
なんか友達が怪しい人に声かけられたって言ってるんだけど…まさかあんたじゃないよね?”
思わず「うぐっ」と声を漏らして、凌は仕方なく彩花に電話をかけた。
「もしかして、俺のことかも。
いや、別に怪しく声かけてるつもりはないんだけど…」
受話器越しの彩花は呆れたようにため息をつく。
「あんた、フット・イン・ザ・ドアとローボールテクニック使ってるんでしょ。
相手からすれば、後出しで要求増やされるのって普通に嫌なんじゃない?」
「いや、最初は小さなお願いから始める方が受け入れられやすいし、後からお願いを追加すれば承諾率が上がるって…教科書に書いてあるんだよ」
むきになって言い返す凌に、彩花は携帯の向こうで首を振っているかのような静かな声音を返す。
「理論が間違ってるわけじゃないけど、それは人間関係の土台がないときにいきなりやってもうまく機能しないんだって。
特にナンパされる女性は警戒心も強いし、ちょっとでも『裏があるのかな』って思ったら離れていくよ」
凌は言葉を失い、ベンチの背もたれにもたれかかる。
「でも、ちゃんと下心は隠してるつもり…ていうのも変だけどさ、自然に話しかけてるよ?」
すると彩花は、呆れを通り越したような声色で言い切った。
「下心を隠してる“つもり”でも、相手は感じ取るんだよ。
心理学は相手をだます道具じゃないんだから、もっと対等に接する姿勢が必要なんじゃない?」
その言葉に、凌はどう返していいか分からなくなる。
フット・イン・ザ・ドアやローボールテクニックは確かに有効な交渉術ではあるが、見ず知らずの相手に使えばうまくいく保証はないし、警戒されても仕方がない。
「わかった。
今日はもうやめとく。
また今度考えるよ」
彩花が「そうしなよ」とあっさり電話を切ると、凌はスマホをポケットにしまってしばらく人通りをぼんやり眺めた。
そこからさらに数十分、未練がましく立ち上がって女性に声をかけようとするが、心のどこかで「どうせまた断られるのではないか」と頭をよぎってしまう。
結果、何もせずに帰路につくことにした。
夜の街は相変わらず賑やかだが、凌の足取りは重い。
「理論どおりにやってるのに失敗ばかりじゃ、やっぱり何かズレてるんだろうな」
そう自嘲気味につぶやくと、スマホが震える。
彩花からの追加メッセージだ。
“テクニックよりも相手を知ろうとする気持ちが先じゃない?
たとえフット・イン・ザ・ドアでもローボールでも、無理やり接点作ろうとしたら不信感が先に出てくるよ”
その一文を読みながら、凌は苦い思いと同時に、少しだけ納得する部分もあった。
対等に接するという意識を持たずに、自分の都合を押しつけるようなやり方では、誰も応じてはくれないのかもしれない。
ただ、今の彼にはその真意を完全に理解するだけの余裕がまだ足りないようだった。
とりあえず、今日は大人しくアパートに戻ろうと考えている。
駅前の大通りを曲がり、淡いオレンジ色の街灯を辿りながら、凌はバッグの中に押し込んだ教科書をちらりと振り返る。
「フット・イン・ザ・ドアもローボールも、ただ理論を知ってるだけじゃダメなのか…」
慣れた手つきで扉を開き、静かな部屋へと足を踏み入れる。
押し寄せる疲労感と、使えなかったテクニックへの苛立ちがない交ぜになったまま、凌は床にごろんと寝ころんだ。
スマホの画面を見ながら、どうにか自分を正当化しようとする気持ちと、彩花の指摘が頭の中でせめぎ合っている。
「まだ試してない方法もあるんだけど…果たして、また同じ轍を踏むだけなのか?」
小さな声で独り言をつぶやき、天井を見上げる。
理論を実践する難しさを、彼は少しずつ思い知らされているようだった。
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