第4話 合コン初参戦とドア・イン・ザ・フェイスの誤用

夜の街がほんのりとライトアップされた居酒屋の個室で、星野凌は少し緊張した表情を浮かべて座っていた。

大学の友人から急に誘われた合コンで、まさか自分がデビューすることになるとは思っていなかった。

向かい側には他大学の女子数名が並んでおり、その中で一際落ち着いた雰囲気を醸し出すのが白鳥凛という名の女性だった。


「こんにちは。

白鳥凛です。

経済学部の一年生です」

柔らかい声で自己紹介をする凛の姿に、凌は一瞬で興味をかき立てられる。

ややミステリアスな佇まいと、冷静そうな視線。

まるで周囲を一歩引いたところから見ているような落ち着きがある。


凌はさっそく頭の中で、心理学で学んだ「ドア・イン・ザ・フェイス」の作戦を組み立て始めた。

大きな要求を最初に突きつけ、断らせてから小さな要求を通すことで、交渉を有利に進める手法だ。

たとえば合コンが終わったあと、一緒にもう一軒行きませんかと大きく誘い、それが断られたら、代わりにLINE交換だけしてもらうという流れを想定していた。

それはまさに座学のとおりの理屈だと、凌は鼻息を荒くする。


合コンの乾杯が終わると、各テーブルで自然と会話が始まる。

大学の授業や趣味の話が飛び交い、凌は隣に座っている友人と軽く盛り上がりながらも、心の中ではタイミングを見計らっていた。

凛に声をかける機会を得たとき、いかにドア・イン・ザ・フェイスを使うかが勝負だと考えている。


やがてある程度打ち解けたタイミングで、凌は凛の方を向いた。

「凛さんって、あんまりお酒飲まない感じかな。

ずいぶん落ち着いてるけど」

冗談交じりに言うと、凛は少し口元をほころばせてから答えた。

「そうですね。

あまり強くないので、一気飲みみたいなのは苦手です。

それよりもゆっくり話す方が好きかも」


その言葉に、凌は少しだけ胸を弾ませる。

飲み会という場でも落ち着いて話をしたい、というタイプなら大きな要求を断るだけの冷静さは十分ありそうだ。

それなら、こちらの交渉プランを形にする余地もあるはずだと判断する。


しばらくして居酒屋のコース料理が終盤に差し掛かるころ、凌は意を決して凛に話を振った。

「ところで、もし今夜このあとみんなでカラオケとか二軒目行くってなったら、付き合ってもらえるかな?」

あえて大げさな言い回しで、大きな要求として提示する。

すると凛は少し首をかしげるように目を細めた。

「ごめんなさい。

私、明日朝早いんで、二軒目とかはちょっと厳しいです」


想定どおりの「断り」が返ってきて、凌は心の中でガッツポーズをする。

ここで一旦引いてから、次の小さな要求であるLINE交換や連絡先の交換を切り出すのがドア・イン・ザ・フェイスの基本的な流れだ。

「そっか。

じゃあ仕方ないね。

代わりにLINEだけでも交換してくれたらうれしいけど…」

言い終わる前に、凛が薄く笑みを浮かべる。


「すごくわかりやすい交渉ですね。

星野さんって心理学部だったりします?」

淡々と放たれたその質問に、凌は思わず言葉を詰まらせた。

「え、いや、その…なんでわかったの?」

凛は少しだけ肩をすくめるようにして答える。

「うちの大学でも“最初に大きな頼みごとをしてから、小さなお願いを通す”って話題が出てたので。

あれ、確かドア・イン・ザ・フェイスっていう有名なテクニックじゃなかったかな」


普段ならガッツリ理論を語りたい凌だが、この場ではむしろ彼女の察しの良さにどう返したものか困り果てる。

「いや、別に…そこまで考えてたわけじゃないんだけど、あはは」

乾いた笑いを交えながら否定しようとするが、目の前の凛はどこか納得いかないような表情をしている。

「そうなんだ。

まぁ、私にカラオケを断らせてから、LINEを交換させようって狙いじゃないならいいんだけど」

言い方そのものは穏やかだが、視線が真意を探ってくるように鋭い。


「うっ…」

凌が返事に詰まると、凛は軽く息をついてから口調を和らげた。

「別に怒ってるわけじゃないよ。

ただ、ちょっと作戦めいたものを感じたから。

もし本当に話してみたいなら、普通に連絡先を交換しようって言ってくれるだけでいいし」


追い詰められている気がして、凌は焦りながらテーブル上のグラスに手を伸ばす。

キンキンに冷えたドリンクがのどを通っていくが、それでも状況は変わらない。

このまま素直に作戦を白状したら、確実に気まずい空気になりそうだと思いながらも、凛の態度にはほんの少し好意的な部分も感じられる。

もしかしたらまだ挽回の余地があるかもしれないという期待が、凌の中に微かに残っていた。


「ごめん。

正直、ちょっとだけ心理学のテクニックを試してみたかったんだ。

でも、凛さんとちゃんと話してみたいのは本当だよ」

意を決してそう告げると、凛はようやく少し納得したように頷く。

「そっか。

じゃあもう一度、普通に『連絡先を交換しませんか』って言ってみて」

真顔でそう促されて、凌は心臓の鼓動が妙に早くなるのを感じながら、じっと凛を見つめる。


「その…よければ、今度ちゃんと二人で話せたらと思うんだけど。

連絡先、教えてもらっていい?」

ぎこちないながらも、それが精一杯の素直な言葉だった。

すると凛はゆるやかに頷いてから、スマホを取り出す。

「うん、いいよ。

私も心理学部の人と話してみたいことがいろいろあるし」


そっと画面を見つめながら、凌はお互いのQRコードをスキャンし合う。

周りはまだ合コンの盛り上がった空気に包まれているが、二人の間には何か落ち着いた雰囲気が漂い始めていた。

しかし凛がふとこちらを見上げると、意味ありげな口調で言う。

「でも一つだけ言っておくと、あからさまな心理戦は私には通用しないと思う。

下手に駆け引きするより、素直に話したほうがいろいろ楽かもね」


それを聞いて、凌は苦笑いしながら箸を握り直す。

ドア・イン・ザ・フェイスを綺麗に使ったつもりが、すぐに見破られてしまったわけで、作戦そのものは失敗と言えば失敗だ。

ただ、凛と連絡先を交換できたという事実は、完全な負けでもないと思いたい。

合コンが終わったあと、凌は店を出る直前に彼女の横顔をちらりと見やった。

ミステリアスな雰囲気に加えて、人の内面を鋭く見抜く洞察力を持つ相手なら、一筋縄ではいかないだろう。

それでもまるでささやかな勝利のように、LINEの新しいトーク画面がスマホに刻まれている。


店を後にすると、夜風がひやりとした心地よさを運んできた。

凌は胸ポケットのスマホを触りながら、これからのやり取りをどう進めようかと考える。

ドア・イン・ザ・フェイスの華麗な成功は逃したが、思わぬ方向から新しい一歩を踏み出したような気がした。

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