第7話



 雹雪は莉珠の腕を掴み、血管が浮き出ている部分に針を打ち込んだ。

 その瞬間、皮膚は火傷を負ったみたいに熱を帯び、じくじくとした痛みが走る。しかし、針がすべて体内に入り込んだ後は、すっかりなくなった。


 莉珠は針が打たれた部分をじっくりと観察する。

 夢でも見ていたのだろかと勘違いするくらい、どこにも打たれた痕はない。

 とにかく、これで蒼鹿国へ渡っても安心して暮らせる。

「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

 莉珠は居住まいを正してから床に額を付ける。


「すべては陛下と瑛華のためで、おまえのためではない。顔を上げなさい」

 衣擦れの音がして莉珠は恐る恐る顔を上げる。

 続いて雹雪は、卓の上から巾着袋と布で包まれた何かを持ってくる。

 目の前に差し出された莉珠は恐る恐る受け取った。

「この二つもおまえに渡そうね」


 開けるよう促されたので最初に巾着袋の口を開く。ずっしりした巾着袋から出てきたのは、白灰色の小石だった。

 雹雪は石について説明した。

「これは菱甘石りょうかんせきといって、瞳の色を変える石よ。蒼鹿王が瑛華の顔を知らないとはいっても、その赤色は目立つからね」

 菱甘石の使い方は簡単だ。水に石を溶いて目を洗うだけ。石は白灰色に溶けるのですぐに分かる。

 効果は一日で毎日行わなくてはいけないが、顔を洗う際に美容洗顔だと言って洗えば疑われない。

「淑妃様やお姉様のためにも、毎日欠かさず行います」

 続いて、雹雪の視線が布で包まれた品へと移動した。


 莉珠は巾着袋の口を閉じてから布に手を伸ばす。中からは花文様の螺鈿飾りが美しい鏡が顔を出した。

 その瞬間、顔色を変えたのは瑛華だ。

「お母様、その八稜鏡はわたくしが嫁入する時に譲ってくれる約束だったじゃない! どうして莉珠なんかに渡すのよ!?」

 瑛華は叫ぶような声で非難した。よほどこの鏡が欲しかったらしい。

 怒りの矛先は莉珠へと向かい、瑛華は激怒した。


「莉珠、この鏡はおまえが持っていても分不相応だわ。わたくしに渡しなさい」

 瑛華は椅子から立ち上がり、莉珠のところまで詰め寄ってくる。

 八稜鏡を大人しく渡さなければ、今にも平手が飛んできそうな勢いだった。

 瑛華の迫力に莉珠は身体を縮めた。

「おやめなさい、瑛華」

 普段瑛華に甘い雹雪が珍しく厳しい声でぴしゃりと言った。

「お、お母様!」

 まさか叱られるなんて思っていなかった瑛華は泣き出しそうな声を出す。


 雹雪は涙ぐむ瑛華の両肩に手を置いて宥める。

「おまえの嫁入りにこの八稜鏡を渡すと、こなたは女官たちがいる前で約束した。つまり、鏡がないということは、蒼鹿国へ瑛華公主が降嫁する気でいたという証明になる。後宮のみなを欺くには丁度良い」


 八稜鏡がないことで、瑛華が蒼鹿国への嫁入りを決意していたと周りに示せる。それで、降嫁する直前になって莉珠が瑛華になりすまし花嫁道具と共にあちらの国へ渡った、という形にしたいのだろう。

 これなら瑛華が後宮に残っていても、誰からも後ろ指は指されない。それよりも惻隠の情を抱かせられるはずだ。

 瑛華は肩に置かれた雹雪の手を取り、身体を向ける。


「分かったわ、お母様。だけど、莉珠へ大事な品を渡すのはあれだけにして」

「もちろんそのつもりよ」

 返事を聞いた瑛華は満足げに笑う。

 雹雪は再び莉珠の前に立ち、有無を言わさない声で命じる。

「八稜鏡を渡すのだから、必ずこれで身支度なさい」

「はい。淑妃様」

 莉珠は八稜鏡を布に包み直した。

 大事に抱えたところで再び雹雪が口を開く。


「さて。蒼鹿王から贈られた婚姻の証である玉をつけなさい。これからおまえは瑛華として一生を過ごすの」

 雹雪が掌を上にしてふうっと息を吹きかけると、たちまちその上には玉の腕輪が現れる。白色の玉には複雑な金細工があしらわれ、息を呑むほどの逸品だった。

 渡された腕輪を腕に通せば、雹雪が優雅に立ち上がった。金の歩揺がひらひらと揺れる。

「話も済んだことだし、別れの挨拶も不要よ。さっさと蒼鹿国へお行きなさい」

「い、今からですか?」


 莉珠は困惑する。

 先ほどの話から、瑛華になりすまして蒼鹿国へ渡ることは理解している。

 とはいえ、これから長旅になるのだから少しは寝台で身体を休めたいし、柳暗宮の整理もしておきたい。欲を言えば、最後に父である皇帝にもこっそり挨拶がしたい。

 だが、莉珠の願いは叶わなかった。

「王荘」

 莉珠の気持ちなど露とも知らない雹雪は王荘を呼んだ。


 部屋の外で待機していた王荘は、入ってくるなり雹雪と瑛華に向かって拱手する。

「後のことはすべておまえに任せる」

「はい、淑妃様。この王荘めにお任せを」

 王荘は返事をするなり下卑た笑いを浮かべて莉珠に近づいてくる。手には手巾が握られていて、それに気づいた時にはもう手遅れだった。

 莉珠は手巾を口元に押し当てられる。

「んんー!」

 独特の甘い香りが鼻孔を通り抜けると、身体の力が抜けて急激な眠気に襲われる。

 焦点の定まらない視線を向ければ、王荘は淡々とした声で言った。


「後宮を出て逃げられたら困りますから、しばらく眠っていただく。心配には及びません。準備はすべて整っておりますゆえ。無事に野蛮な王のもとへ送り届けて差し上げましょう。――

 自分の意思に関係なく瞼が閉じていく。

 莉珠の意識は、そこでプツンと途切れた。


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蒼鹿国の花嫁〜身代わりの災い公主は蛮族の王に溺愛される〜 小蔦あおい @aoi_kzt

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