セブンス・ヘブン

坂本 大太郎

プロローグ

 床下に居る女性のつむじを熊野御堂二はその真上から見つめていた。


「人の足の裏を見続けることって、意外と不快なものだったんですね。……私、マッサージ師になる自信がなくなってしまいました」


 夜空に浮かぶ満月でも見上げるように、床下にいる蓮見九九が熊野御堂を見つめながら微笑んでいる。


「そもそもマッサージ師になりたかったんですか?」


 と、熊野御堂は機械的に訊いてみた。


「連続殺人犯がマッサージをして喜ぶお客様がいると思われているの?」


 九九が形の良い口角をあげる。


「私だったら、ご遠慮しますわ」


 続けて、九九がこう言った。


「それに、『そんなに足が痛いなら切ってしまえば良いのでは?』って、言ってしまいそうですもの」


 それが正解とでもいうように続ける。


「根本原因は解決すべきです」


「そういえば六人を殺害した連続殺人犯でしたね」


 熊野御堂は改めて声に出していた。


「そんな私を捕えたのは、あなたですよ」


「そういえば、そんなこともありました」


 そう応えると同時に懐かしく思ってしまう。


『車内に若い男性の遺体』


 その新聞紙の見出しが始まりだった。


 大分県別府市。その住宅街にある駐車場に放置されていた自動車の車内から、若い男性の遺体が発見された。


 死亡したのは十七歳の少年だ。顔面から出血し腰や背中にかけて全身打撲の跡が見つかった。


 大分県警による司法解剖の結果、死因は頭部に強い衝撃を受けたことによる急性脳腫脹だと判断された。


 数日後、その加害者は十五歳の男子中学生、十六歳の無職少年、十五歳のアルバイト少年、十八歳の男子高校生、二十歳の無職少女、十七歳の派遣社員の計六人だと判明する。


 被害者である十七歳の少年は、この六人による集団暴行の結果、死に至っていた。そして、その六人を葬ったのが床下で生活している九九だ。


 どうして彼女がそんなことをしなければならなかったのか? その理由は純粋なものだった。


 被害者となった少年の姉が九九だったのだ。九九は弟のことを溺愛していたらしい。


 連続殺人事件が起きたのはクリスマス・イヴの三週間前の事だった。


 その時点でその六人が集団暴行の加害者だと警察も特定できていなかった。


 それにも関わらず六人の元には郵便物が届けられたのだ。それらは黒い正方形の箱で緑色と赤色のリボンで可愛らしく装飾されていた。


 差出人の欄には被害者達の名前が書かれていたという。被害者達がお互いにプレゼントを送りあったかのように偽装したのだろう。


 人恋しい季節が影響していたのかもしれない。


 被害者達はプレゼントを受け取ると、疑うことなく開いた。


 後にこの事件は『クネヒト・ループレヒト事件』と呼ばれることになる。


 聖ニコラウスの同伴者クネヒト・ループレヒトが聖ニコラウスの日に悪い子供を懲らしめるというドイツの風習に因んだものだ。


 その殺害方法は被害者ごとに異なっていた。


 十五歳の男子中学生に贈られたのは、小型のミュージックプレイヤーとイヤフォンだった。そこには、『素敵な音楽を聖夜に』という可愛らしいメッセージカードが添えられていた。


 彼はイヤフォンを両耳に装着し、音楽を聴こうとしたのだろう。流れる音楽はクラシックだった。そして、それが彼にとって最後の音楽になる。


 電源が入ると抜けなくなるように、イヤフォンは細工されていた。イヤフォンに使用されていたのはテルビウムだ。


 原子番号65のそれは、磁場の中に入ると形が変わる性質を持っている。


 その合金であるテルフェノールは、磁力の方向や大きさに応じて瞬時に伸び縮みする。テルフェノールの棒を木製テーブルにつければテーブル自体がスピーカーになるほどだ。


 音楽に合わせた強力な磁場の変化によって、イヤフォンは激しく振動した。


 余程の衝撃だったのか、彼の遺体にはイヤフォンを抜こうとして両耳の周辺を掻き毟った痕が生々しく遺っていた。


 イヤフォンは彼の頭蓋骨を揺らし続け、脳に深刻な損傷を与えたのだ。


 一緒に暮らしていた母親が見つけた時には、吐瀉物を撒き散らし床に倒れ込んで冷たくなっていたという。その時もイヤフォンは振動し続けていたそうだ。


 十六歳の無職少年の元に贈られたのは大小様々なアロマキャンドルだった。


 ビニール製の袋で密封され、『大人の香りを聖夜に』という可愛らしいメッセージカードが添えられていた。


 彼はそれらをテーブルの上に並べてワクワクしながら火を点けたのかもしれない。


 その中にオスミウムの粉末が含まれているとは、想像することもなく……。


 原子番号76のそれは粉末を空気中に放置または加熱すると、猛毒の酸化オスミウムを発生させる。


 アロマキャンドルにはその特有の刺激臭を紛らわす効果もあったのだろう。酸化オスミウムは特に目の粘膜に対して危険性が高い。


 発見された遺体は両手で両目を覆うようにして床で蹲っていた。それは赤子のように細く、まだ成熟しきっていない肉体は不憫だった。


 その命を終えるまで、どれ程の時間が掛かったのか。余程の苦しみだったのだろう。テーブルの周囲は落ちた物で散乱していた。


 どれだけ高濃度の気体を吸引したのかは不明だが、致死量を遥かに超えるものだった。そして、机に置かれたアロマキャンドルはどれも綺麗に溶けてしまっていた。


 死因は毛細血管漏出と気管支炎だ。


 遺体を発見したのは同居している兄だったが、部屋はアロマキャンドルの匂いが充満していたそうだ。


 三人目の被害者である十五歳のアルバイト少年は両親と実家で暮らしていた。


 届けられた黒い箱の中身はリボンが巻かれた五本の栄養ドリンクだ。そこには、『聖夜もおつかれさま』という可愛らしいメッセージカードが添えられていた。


 それが肉体労働をしていた彼には有難いものに見えたのかもしれない。


 両親によると彼は一日に一本を大事そうに飲んでいたそうだ。その中に0.1グラムずつタリウムが含まれているとは、知る術もなかっただろう。


 原子番号81のそれは強い毒性をもち、摂取すると脱毛と神経障害を引き起こす。現在でも殺鼠剤に使われていた。


 彼に症状が出始めたのは摂取を始めて二日後のことだ。


 脱毛と共に神経障害が起き始めた。


「疲れの所為か……」


 そう思い込んだのか、彼は栄養ドリンクを飲み続けた。


 その結果、失明した。下半身も不随となり、病院に搬送されることになったのだ。


 原因が判明しタリウムと結合させて排出を促すためのプルシアンブルーによる治療が施された。だが、致死量のタリウムを摂取していた彼の躰には手遅れだった。


 静かにベッドの上で若い命は尽きた。


 脱毛し、衰弱したその姿は急激に年を取ったようだった。両親はベッドの脇で咽び泣き続けたそうだ。


 彼は一人っ子で両親にとても大切にされていたという。


 十八歳の男子高校生には二つの黒い箱が届けられた。


 それらが届く時間の間隔さえ計算されていたのだろう。一つ目の箱が届けられた一時間後に二つ目の箱が届いたようだ。


 始めに届いた黒い箱の中には首用のマッサージ機が入っていた。そこには、『聖夜も勉強頑張って』というメッセージカードが添えられていた。


 彼はすぐにそれを使用したのだろう。


 そうやって凝りをほぐしていた一時間後だ。二つ目の黒い箱が届いた。彼はそれを部屋に運び、首用のマッサージを使用しながら顔の前で開いてしまったのだ。


 そのマッサージ機にネオジムが使用されているとは考えてもいなかっただろう。


 原子番号60のそれは、鉄、ホウ素の化合し、非常に強力な磁力を有するネオジム磁石となる。


 ネオジム磁石が二つのあれば30センチ以上離れていてもお互いを目指して飛ぶのだ。


 二つ目の箱に入っていたのは細く鋭利に加工されたネオジム磁石だった。箱が開いた瞬間、留め具が外れ、マッサージ機に仕込まれた仲間を目掛けて真っ直ぐに飛び出した。


 それが彼の喉を貫き頚椎を砕いたのだ。


 喉元から流れる血液に彼が気づく事が出来たのかは不明だ。


 発見された時には冷たい躰をほぐし続けるマッサージ機の駆動音だけが部屋に響いていたそうだ……。


 二十歳の無職少女は缶ビールを飲んでいた。


 玄関のチャイムが鳴り、黒い箱のプレゼントが届いたのが午後八時過ぎ。彼女は酩酊状態だったろう。


 黒い箱の中に入っていたのはワインボトルだ。他と同じようにメッセージカードが添えられ、『聖夜を美酒とともに』と書かれていた。


 既に酔いが回っていた所為もあったのか、冷えていないそれを彼女は飲み始めた。


 たった一晩、たった一人でそれを飲み終えたようだ。


 きっと、幸せな気持ちだっただろう。……10ナノグラム。つまりは10億分の10グラムでも致死量になる物が含まれているとは知らずに。


 原子番号84のポロニウムは非常に強力な放射能を持っている。しかし、ポロニウムが発するアルファ線は皮膚の角質を透過することさえできず、紙一枚でも遮断できる。


 それ故に運搬する者を被曝させる可能性が低い。実際に、同位体であるポロニウム210は暗殺に使用された、とも言われている。


 彼女に症状が出始めたのは翌日のことだった。激しい嘔吐に見舞われたが飲み過ぎの所為だろう、と病院には行かなかった。


 その翌日も改善することはなく、病院に行ったものの、彼女は多臓器不全で亡くなった。


 ポロニウムの入手経路は未だに明らかになってはいない。


 十七歳の派遣社員の元に黒い箱のプレゼントが届いたのは、仕事から帰宅した直後のことだった。


 彼に贈られたのは液体の入った砂時計、つまりはオイル時計だ。中には黄色がかった銀白色の金属が入っていた。


『聖夜に時を温めて』と書かれたメッセージを添えられて。


 文面の意味を察した彼は両手でオイル時計を温めたのだろう。そうする事で体温で中の金属は溶けて液体となり、金色に輝いた。


 流動する金色は美しかったに違いない。


 オイル時計の容器が割れ、中の液体が飛び散ったのは、そうやって見惚れた時だったようだ。


 原子番号55のセシウムは融点が28.4度と低く、常温付近で液体になる金属だ。反応性に富み自然発火する。また、水と反応すれば爆発を起こす。


 彼の躰にセシウムが付着した瞬間、発火した。


 瞬く間に広がった炎が彼の躰を包み込んだに違いない。振り払おうと手を動かしても、その勢いは増し続けたことだろう。


 数分後には彼の活動は停止したと推測される。床にうつ伏せになっても、躰は燃え続けたようだ。見つかった時には床の一部まで焼け焦げ、真っ黒に染まった彼の遺体があったという。


 ……これら六つの殺人事件をたった一人で実行したのが、床下にいる九九だ。


 そして、その事件の捜査を担当することになったのが床の上にいる熊野御堂だった。


 捜査が進むにつれ、被害者らが集団暴行の加害者でもある事が判明して注目された。


 同時に疑われたのが集団暴行の被害者だった蓮見光一の家族だ。光一は両親と姉の四人家族だった。


 光一の姉である九九は国立大学法人O大学で教壇に立っていた。年齢は二十歳。若過ぎる講師だ。


 まず熊野御堂は九九の現状を確認する為にその講義に参加することにした。


 事件の発覚後も九九が毎日講義を行っている事は事前に調査済みだった。熊野御堂が講義に訪れた際も学生たち相手に多忙そうにしていた。


 講義室に入った熊野御堂は人の多さに驚く事になった。


「男ばっかりだな……」


 と、呟いてしまうほど学生の殆どが男性だった。


「工学部だからか?」


 熊野御堂はその時はそう思っていた。けれど、他の学部から潜り込んでいる男子学生が居たからだと後に知ることになる。


 九九の容姿は整っていた。


 身長は165センチメートルといった所で均整のとれた体型をしている。セミロングの髪はゆるくパーマがかかっているのか、ふわふわしていた。


 そして、全体的に色が薄い。肌は白く、髪の毛の色は茶色だ。服装は白いパンツに明るいピンク色のトップスだった。


 その言動も事件を起こした人間には見えなかった。


 講義の内容は人工知能の基礎に関してだ。熊野御堂にはその内容がさっぱり分からなかったが、学生達は集中している様子だった。


 その講義も終わり学生達が講義の余韻に浸っている中、熊野御堂は九九が居る部屋に向かうことにした。


 人工知能研究室の奥にある小部屋が九九に割り当てられていた。熊野御堂はノックする。


「はい。どうぞ」


 と、短い返事がした。


「失礼します」


「……困り果てました」


 立ったまま右手の指先で顎に触れている姿が熊野御堂の視界に入った。


「どうかされました?」


「それが携帯電話をどこかに忘れてしまったようでして。ああ、ほんとうに困ったわ」


 九九が眉毛を八の字にしている。


「携帯電話ですか……?」


 すこし観察した後に熊野御堂は言うべきか迷ってから言った。


「……あの、間違っていたら申し訳ないのですが。左手に持っているのはどなたの携帯電話ですか?」


「あら! こんな所に!」


 と、九九が左手で握っている携帯電話を顔の前に持ってきて、大きな目を見開く。そして、嬉しそうに整った笑顔を見せた。


「すっかり忘れていました。灯台下暗しですね。えへへ」


 その後、また眉毛を八の字にして九九が小首を傾げた。


「えっと、どちら様でしょうか? あ、変質者さん?」


 熊野御堂は警察手帳を取り出して九九に見せる。


「大分県警の熊野御堂といいます。お話を伺いたいのですが宜しいでしょうか?」


「……あら。警察の方でしたか。意外と遅かったですね」


 と、九九。


「それはどういう……」


 そう言いかけた所で言葉を遮られた。


「ちょっと待っていてくださいね。準備しますから」


 九九がそう言って白いマフラーを巻き、もこもこしたファーコートを羽織る。


 ふわふわした髪にもこもこした物が追加されて、何とも柔らかそうだな、と熊野御堂は考えてしまった。


「では、行きましょうか」


「どちらに?」


 熊野御堂は更に戸惑ってしまった。


「ふふ。お散歩です」


 と、九九が微笑んでいる。


 九九に連れられて熊野御堂が向かったのは大学に隣接する雑木林だった。九九の後ろに熊野御堂が続く。


 雑木林は手入れが行き届いているのか、木の陰があるものの薄暗くはなかった。きっと人工的なものなのだろう。


 枯れた小枝を踏む音が心地良かった。童心に戻れるなら駆け抜けてみたかったほどだ。


「……考え事がある時はここを歩くんです」


 九九が背中を向けたまま話し始める。


「憧れだったんですよ」


 と、愛の告知でもするように続けて言った。


「憧れですか?」


 熊野御堂は冷静にこたえる。


「映画とかドラマでありますよね? 犯人の自白」


 補足するように振り返って微笑みながら続けた。


「私、ミステリーとかサスペンスが大好きなんです。刑事さんと二人で自然の中で対決することを、一度やってみたかったんですよ。流石に崖はありませんが……。森の方が画数が多いので良しとしましょう


「……あの」


 熊野御堂はこの状況に困惑しつつ、訊いた。


「もしかして、これから自白するんですか?」


「そう言っているつもりなのですが?」


 小さな顔を傾げて九九が言う。


「すみません。ちょっと話についていけなくて。その、何の?」


「決まっているじゃありませんか。集団暴行した六名の殺害についてですよ」


 九九が大きな瞳を更に見開く。熊野御堂はその表情を確かめて気を引き締めた。


「冗談ではありませんよね?」


「それ以外に警察の方が私の所に来る理由がありまして? では自白の時間にしましょう」


 九九が自爆スイッチでも押すかのように人差し指を一本立てて目尻を触れた。


 白樺の枝で休んでいた小鳥が鳴きながら飛び立つ。


 熊野御堂はコートのポケットに仕舞っているボイスレコーダーのスイッチを気づかれないように入れた。


「蓮見九九さん。あなたが起こした事件について教えて頂けますか?」


「ええ、喜んで」


 と、九九が満面の笑みで応える。


 二人は再び歩き始めた。九九が望む映画やドラマの場面のように。


「では始めさせていただきますね」


 九九が咳払いする。


「……弟は素直で良い子だったんです。私の家は両親と私、弟の四人家族です。父はサラリーマン、母は専業主婦。弟とはすこし年が離れていますがとても仲が良かった。普通の一般的な家庭です」


「その弟が集団暴行に遭った?」


 と、熊野御堂。


「はい。そんな事に自分の家族が巻き込まれるなんて、想像していませんでした。健康に生きているだけで幸せだったのに。人生は何が起こるか分からないものですね」


 九九が手を顔に持っていく。その細い背中越しからは泣いているかどうか、熊野御堂には分からなかった。


「想像できますか? 動いていた人間が冷たくなって横たわっているんです。もう笑ったりしないんです」


 熊野御堂はこの時点でも半信半疑だった。


 六件もの殺人をこの華奢な女性がたった一人で行ったとは到底思えなかったからだ。誰かを庇っているのではないか? そう勘繰ってしまう。


「だから、あなたが一人で復讐したと?」


 熊野御堂は訊いてみた。


「まだ疑われています? こういう時は関係者しか知らない情報を言えば良いかしら?」


 そう言った九九が振り返り、こめかみを人差し指で押さえている。


 そこに記憶のスイッチでもあるかのようだ。


「これならどうでしょうか? 六人の被害者に贈られたのは黒い正方形の箱で緑色と赤色のリボンで飾られています。それぞれ中身が違っていて……」


 それを聞いて熊野御堂は確信する。黒い正方形の箱、そして、緑色と赤色のリボンの件は報道されていない情報だ。


 少なくともこの女性は事件に関与している……。


 九九が話を続けていた。


「六つの贈り物には、それぞれ違う元素が使われています。原子番号65のテルビウム、76のオスミウム、81のタリウム、60のネオジム、84のポロニウム、そして、55のセシウム」


 そこで勿体振るように九九が言葉を切ってから言った。


「実はその原子番号にも秘密の暗号を隠していて……」


「暗号ですか?」


 と、熊野御堂はその続きを期待してしまう。


 捜査本部でもそのような話題は出ていなかった。


「それぞれを元素記号にすると、『Tb』『Os』『TI』『Nd』『Po』『Cs』となりますね。これをアナグラムのようにアルファベットを並び替えて、『Don’t stop bsc』となります」


「bsc?」


 熊野御堂は聞き慣れない言葉をつい声にしてしまう。


「best supportive careの略語です。……最善の対症療法。医療の言葉かと思います。がんに対して積極的な治療を行わずに、症状緩和の治療のみを行う事。ここでいう積極的な治療とは外科治療や化学療法、免疫療法、放射線治療、遺伝子治療の事です」


「対処療法……」


「これは私や家族の悲しみに対する最善の対処療法なんです……」


 そう言った九九が目尻を指先で触れていた。


「……あの、待ってください。一文字足りないような? 『TI』の『I』が使われていない」


「ふふ。バレてしまいました? 実はたったいま思いついたの。えへへ」


 と、九九が舌を出す。


「ふざけているんですか?」


 熊野御堂は眉間に皺を寄せた。


「そんなつもりはなかったんですが……。一度しか経験できない状況にすこし興奮してしまったようです。六人も殺したら死刑でしょう?」


「情状酌量とはいかないかもしれません」


「では、これが最初で最後の経験になりますね」


 そこから落ち着きを取り戻したのか、九九が淡々と話し始めた。


 どうやって被害者たちのことを調べたのか、どうやって準備をしたのか……。


 熊野御堂は九九の話が一通り終えるのを待って、こう訊いた。


「最初から自首するつもりだったんですか?」


 熊野御堂がそう考えたのは、九九の話す準備の内容があまりにも雑だったからだ。


 隠すつもりなど最初からなかったかのように。


 証拠品として残された数々の物証には、多くの指紋が残されていた。九九の供述では、危険物を扱う時以外は手袋をしていなかったらしい。


 九九の元を訪れた目的はその様子を確認する以外にもあった。……その指紋を採取する為だ。


 熊野御堂の問いに対して九九が驚いた顔をしていた。


「自首は当たり前です。復讐とはいえ人の命を奪ったんですよ? 許される筈がありませんし、逃れるつもりもありません」


「そうですか……」


 と、それを聞いて熊野御堂は応えた。


 二人は雑木林の中で立ち止まっていた。白樺に二羽の小鳥が羽を休めに訪れ、小枝を揺らす。


 熊野御堂は隠し持っていたボイスレコーダーを取り出して、九九に掲げて見せた。


「やはり、録音されていましたか?」


 と、九九。そのスイッチを切る。


「後悔していないのですか?」


 九九が小首を傾げながら細い指先で顎に触れた。


「ここからはオフレコなのかしら? ……そうですね。刑務所に入ったら頭の中でしか研究ができません。後悔するとしたら、それぐらいかしら」


 九九の表情を観察しながら熊野御堂は考えていた。


 ……氷のように冷たく透き通った殺意だ。


 法として殺人を罪だと認識しつつも被害者達の死に責任を感じることもなく、自身の悦びは貫こうとする。


 この先も九九が被害者の家族に謝罪することはないだろう。そもそも悪いとは思っていないだろうから。


 手に入れておいて損はしないな。


 熊野御堂は口角を上げた。


 犯罪者を捕らえるには手段を選ぶべきではない、という方針を熊野御堂は持っていた。


 その為には悪も必要だ、と。


 これまでも盗撮犯を見逃し、掏摸を生業とする者や詐欺の常習犯を協力者にして役立てていた。


 ……殺人犯は初めてだな。


 熊野御堂がいま必要としているのは頭脳を担当する者だった。知識の絶対量が個人では不足している。


 九九が聡明なのは理解できる。こちらの条件を飲めるなら、適しているのではないか? そう考え始めていた。


 そこで熊野御堂はこう訊いていた。


「あの。姥捨山ってご存知ですか?」


 それは民話の一つだ。


「昔、ある国のお殿様が、高齢の親を山に捨てるように、というお触れを出しました。けれど、ある息子は親を捨てられず床の下に匿ってしまう。その結果、息子は親の知恵に助けられる。そんな物語なのですが……」


 九九が細い指先で唇に触れてから言った。


「それでも罪は償えるかしら?」


 それは法としてなのだろう。


 そして、たった一言で九九が理解しているのだ、と熊野御堂は悟る。


「監禁になるかは分かりませんが、拘束するつもりはありません。部屋は割り当てますし、ご自由に研究すれば良い。もし出て行きたくなったら出て行くのも自由です。俺から警察に突き出すようなことはしない。ただ、条件が一つだけ。居る間は俺の捜査に協力して貰いたい」


 双眸を瞑った九九が空に顔を向ける。


「三食昼寝つき?」


 と、その姿勢のまま一言だけ呟いた。


 熊野御堂は口角をあげる。


「……お望みならデザートも」


 その日の夜からだ。熊野御堂が暮らす家の地下一階で九九が暮らし始めたのは。


 改めて熊野御堂は透き通っている床下を見ていた。


 そこで九九が奇妙な動きを始める。


『とり天たべたら もう 夢チュー!』


 と、唇をアヒルのように突き出しながら口ずさんでいた。


 熊野御堂は、『好きだっちゃ! とり天』という歌だと気がつく。大分県のソウルフードである『とり天』を全国に発信する為の歌だ。


『とり とり にわとり てん ててん てんぷら さいこーだっちゃ!!』


 と、唄いながら両腕をボクシングでもするように構えて両脇を開けたり閉めたり動かしていた。


 ひょっとしたらあの奇妙な動きはダンスなのかもしれない。


 ……そして、厚いガラスが熊野御堂と九九の間にある。


 熊野御堂にとってはガラスの床。


 九九にとってはガラスの天井だ。


 そのガラスは普段は透明になっていて、お互いの姿がよく見える。けれど、スイッチを切り替えると瞬時に不透明に変わる瞬間調光ガラスが使われていた。


 そうやって個人の時間は守れるようになっている。


「しかし、いつ見ても悪趣味だな」


 熊野御堂は指先で頬を掻いた。


 この家は資産家の父親から引き継いだ物だ。どんな目的でこんなガラスを採用したのか、熊野御堂には見当もつかない。


 熊野御堂は十人兄弟の次男だ。そして、十人はそれぞれ母親が異なっている。父親は様々な女性との間に子供を授かり、認知していた。


 不思議と兄弟同士の仲は良い。それがなによりも救いだ。


 九九がこの家に来た夜。その第一声を熊野御堂は思い出してしまう。


「……動物園みたい。なんだか楽しそうですね」


 九九自身が動物という意味なのか、熊野御堂が見世物という意味なのか? どちらなのかは不明だけれど喜んでくれているようだった。


 そして、いまに至っている。


 一曲唄い終わって満足したのか、九九が椅子に座って本を読み始めた。どうやら洋書のようだ。


 地下一階の部屋は、バスルーム、トイレ、キッチンから洗面台まで生活に必要な物は完備している。食料や消耗品さえあれば、部屋から出ることなく生きていけるだろう。


 バスルームとトイレの天井だけはガラスではない。


 九九が腰掛けているのはデスクトップ型のパーソナルコンピュータが置かれている机の前だ。パーソナルコンピュータはインターネットにも接続されている。


 熊野御堂はその真上から少し離れた革張りのソファに腰掛けた。ソファの前にはローテーブルが置かれている。


 用意していたコーヒーを一口だけ含む。


 斜め上から九九を見下ろすような状態でどう話しかけるべきか、熊野御堂は考えていた。


 結果、素直に言うことにする。


「相談しても良いでしょうか? 一昨日の夜に起きた事件の事なんですが……」


 九九が読んでいた本を閉じ、机の上に置く。


 代わりに机の上に置いていた眼鏡を手に取った。九九が眼鏡をかけて椅子をくるりと回転させる。


 その行為が九九にとって知性のスイッチだったように、澄んだ表情をしていた。


 夜空に浮かぶ三日月でも見上げるように、熊野御堂に視線を送る。そして、一言だけ発して口角を上げた。


「お役に立てれば幸いです」


 先日起きたばかりの密室殺人事件について、熊野御堂は床下の相棒に話し始めた……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

セブンス・ヘブン 坂本 大太郎 @daitarou_sakamoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画