帰るための距離

ソコニ

第1話 帰るための距離

# 帰るための距離


雨の粒が窓を伝い落ちる様子を、私は三十分ほど眺めていた。スマートフォンの画面には既読がつかない母からのメッセージが並んでいる。「お父さんの様態が急変」という内容に、私は返信の言葉を見つけられないでいた。


「川村さん、資料の確認お願いできますか」

部長の声に、私は慌てて画面を伏せた。

「はい、今確認いたします」


会議室の蛍光灯が、いつもより眩しく感じる。データ分析の数値が踊る画面を前に、私の意識は五年前の病室へと遡っていた。


---


「なあ、由紀。お前はな、いい子に育ったよ」


父はそう言って、痩せこけた顔で微笑んだ。抗がん剤治療の影響で、かつての豪快な笑い声を上げる父の面影はなかった。


「何言ってるの、私まだまだ半人前じゃない」

「いや、十分だ。ただな...」

父は窓の外を見つめた。

「もう少し、素直になってもいいんだぞ」


その時は父の言葉の意味が分からなかった。ただ仕事と家庭の両立に必死で、毎日を過ごしていた。そして奇跡的に回復した父は、私の結婚式に出席することができた。


しかし、それは束の間の希望だった。


---


「川村さん、この数値についてなんですが」

同僚の声に現実に引き戻される。

「申し訳ありません。もう一度お願いできますか」


会議を終えて席に戻ると、新しいメッセージが届いていた。

「お父さんの意識が戻りました。でも...」


私は深いため息をつく。五年前、父が「素直になれ」と言った意味が、今になってようやく分かる気がした。


仕事も大切だ。でも、それ以上に大切なものがある。気づくのが、遅すぎたのかもしれない。


「部長、すみません」

私は立ち上がった。

「家族の急用で、今日は早退させていただきたいのですが」


部長は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しく頷いた。

「そうですか。どうぞ、ご家族を大切に」


電車の中で、私は父との思い出を振り返っていた。

休日に連れて行ってくれた動物園。

宿題を教えてくれた夜更け。

就職が決まった時の誇らしげな表情。


駅から病院までの道のりで、桜が散っていた。


病室のドアを開けると、父は窓の外を見ていた。

五年前と同じ角度で、同じように穏やかな表情を浮かべて。


「お父さん」

振り向いた父の目に、涙が光った。

「由紀...来てくれたのか」


私は父のベッドサイドに駆け寄り、その痩せた手を両手で包み込んだ。

「ごめんなさい。もっと早く来るべきだった」


父は小さく首を振った。

「いいんだ。お前らしく生きていれば、それでいい」


窓の外で、桜の花びらが舞っていた。

父の手の温もりを感じながら、私は思った。

人は誰でも、帰るべき場所があるのだと。

そして、その場所に辿り着くまでの距離は、

人それぞれ違うのだと。


「お父さん」

私は絞り出すように言った。

「これからは、もっと会いに来ます」


父は静かに頷いた。

その瞬間、父の表情が綻びそうに見えた。


病室の窓から差し込む春の光が、

私たち父娘の間に、

新しい距離を描き始めていた。

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