息子のカケル
浅井一行
息子のカケル
私にはひとり息子がいた。
息子のカケルは生き物が好きなのか、本屋に行けば図鑑を欲しがり、公園に行けば虫の虜になる。最初の頃は、子どもは好奇心が旺盛ですごいなと思う程度だったが、いずれそうも言っていられなくなった。
ある日、家の前で幼稚園バスを降りたカケルは、満面の笑みで私を見つめていた。初めはぐずって幼稚園を嫌がるので、私はイライラすることも多かった。その笑みが慣れの現れに感じられ、自分も一人前に母親をやれていると嬉しくなった。
「あたらしいおともだちでもできたの?」
「ううん。これ」
間違えた、その言葉が瞬間的に視界を埋め尽くす。
紺色ズボンのポケットから取り出されたカケルの掌には、黒い点の群衆が広がっていた。悍ましいほどのダンゴムシ。生死もわからない丸まったままの個体、久しぶりの酸素に歓喜したかのように動く個体。手からこぼれ落ちるそれで全てとは思えない。おそらく10を超える虫が、今もまだポケットの中で蠢いているのだろう。
品の良い制服が汚されてしまったこと、私と夫が遅くまで働いて買った制服で遊ばれたこと。眠い目を擦り、全部を我慢して育てた子が虫を私に突き出してきたこと。それなのに無邪気な笑顔を向けてくること。それらが舌の上に積み上げられたが、言葉にはせず飲み込んだ。
沢山捕まえたね、とだけカケルに伝え、玄関に置いてある空の虫カゴを渡した。カケルは満足げに掌をひっくり返して、虫カゴの中に虫を落としていく。念のためポケットを裏返しにさせると、ぼろぼろとダンゴムシが出てきた。
大方、私に見せたかっただけなのだろう。そそくさと家の中に入るカケルを見送ると、私は虫カゴの蓋を開けたままにして、その場を後にした。
夜に帰宅した夫を出迎えると、カケルは虫カゴを指さして夫に自慢しようとしたが、泣き出してしまう。それもそのはずで、虫カゴの中はほとんど空に近かったのだ。カケルは自分が嘘をついていないと必死に訴え、私に支持を求めてきた。
夫はカゴの中に数匹だけ残っているダンゴムシを見て、大袈裟に褒めまくる。夫から撫でられ頭がくしゃくしゃになるたびに、カケルの泣き顔が治まっていった。
カケルを寝室に運び終えた夫は、温めなおしたおかずをつつきながら、発泡酒をあおる。出会った頃は高いカジュアルジャケットでスマートにしていた夫も、今ではYシャツのボタンをだらしなく開けた姿を晒している。
襟も伸び、生地も薄れた肌着が見え、気分が下がる。夫は特段体型が崩れたわけでも、髪が薄くなったわけでもない。おそらく世の中のお父さんよりは、マシを保っているだろう。
それでも、風呂を済ます前に晩酌を始めるところを見ると、電車で見かける落ちたオジサンと結婚した気になってしまう。そのたびに、間違えた、と思ってしまうのだ。
「カケルが可哀想だろ」
また始まった。
夫は決めつけが酷く、カケルのことになるといつも私を責める。
小さい子どもは泣くものだ。母に問題がなくとも父が原因で泣くし、親に問題がなくとも幼稚園が原因で泣くし、何にも問題がなくとも勝手に泣く。そういう風にできている。
自分も育休をたっぷりと取っていたのに、夫は未だに"頑張れば"子育ては上手くいくと勘違いしているのだ。
SNSでも、ショッピングモールで親に怒られ泣いている子どもを見て、"優しく言ってあげればいいのに"と書かれた投稿がバズる。わからないのだ。イヤイヤ期の子どもは言ってもわからない。そして、そんなことすら周りはわからない。
「虫カゴの蓋を閉め忘れただけじゃない」
「そうじゃないだろう」
何がそうじゃないのか。こうなると後はいつも同じ流れだ。夫は自分の推論をつらつらと並べ、どうすべきかを話す。私が反論してもそれは夫の論理の肥やしになるだけで、こちらに利することはない。
べき論でコトが進むのなら、私だってそうしたい。会社は私を原則残業させるべきではないし、私の仕事が遅れていないかも管理職が管理するべき。でも、実際はそうなっていない。
だったら、子育てだって、論理や法則を持ち込んでも意味はないはずだ。
「お前、わざと蓋を閉めなかっただろう」
「どうして、勝手に決めつけないでよ」
「なら、どうしてカケルが泣いているときに、何も言ってあげなかったんだ」
「だって、あんな虫、気持ちが悪いじゃない」
「なら、自然に戻してあげるよう、カケルに言ってあげればいいじゃないか」
「そもそも、ポケットに虫を入れて帰ってくるのがおかしいじゃない」
私はそこまで相手をしていたが、何だか会社の上司から詰められている気分になり、食卓を離れた。
**
私が社会人1年目か2年目の頃、私の仕事が遅れていることに気づいた上司から詰められたことがあった。遅れそうな時はもう少し早めに報告すること、何をすればいいかや進め方がわからない時はその都度質問すること、初めての作業で進捗の塩梅がわからない時はその時点で相談すること。
私は今日何をやったかを毎日報告していたのに。
新人のうちは何がどうだと大丈夫じゃないのか、そんなのわかるわけないじゃない。
私は納得がいかず、社会の理不尽さ、上司のべき論に苦しくなった。私は気分を落ち着けたくて、オフィスから抜け出し、建物の外を泣きながら彷徨った。
とにかく誰かに味方してもらいたくて、当時付き合っていた人に電話をかけた。電話越しの彼は相槌を打ちながら私の話を聞いてくれた。それなのに、ひととおり話し終わった私にかけられた言葉は、あんまりなものだった。
――会社の人も心配しているだろうから、ひとまずオフィスに戻った方がいいよ。
どうすべきかの話で苦しんでいる私に対して選ぶ言葉がコレ。あまり良い大学を出ていない彼は、いつも話がずれていた。
たしかに、オフィスには戻らないといけない。カバンだって置きっぱなしだ。
ただ、今はまだ定時前。オフィスには人がいるし、上司だっている。そこに戻れば当然上司と鉢合わせるし、またさっきの話の続きをされるに決まっている。
どうしてそれがわからないのだろうか。
定時が過ぎて上司がオフィスを離れた後に戻ると伝えたが、彼の言うことは変わらなかった。物事を感情でしか考えられないのだろう。
しかし、彼へのイラつきのせいか涙も引いたため、私はオフィスへ戻ることにした。ただし、電話は切らなかった。
通話を繋いだままスマホをポケットに入れ、上司と鉢合わせた場合はその会話を在宅勤務中の彼へ聞いてもらおうと考えたのだ。別にパワハラの証拠を残そうと思ったのではない。そういう意図なら録音した方がいい。ただ、上司とひとりで相対するのが嫌だったのと、上司の理不尽さを直接聞かせて彼にもわかってほしかった。
オフィスに戻るとすぐに上司が駆け寄ってきた。ほら来たぞ、と思った私は緊張してポケット越しにスマホを握りこむ。
しかし、上司の口から出た言葉は、予想と違っていた。急にいなくなったから心配していたこと、遅れていた仕事は他の社員達にカバーの依頼をしたこと、心配せず定時内で進めてくれればいいということだった。
私からすれば、そもそも仕事が遅れないよう事前に管理するのが管理職の仕事だし、定時が原則で残業は例外なのだと思った。
とにかく、思っていた展開と違ったので、私は1度廊下に出て電話先の彼に一言二言伝えて、通話を切った。その彼とは数年後に別れた。
**
私にはひとり息子がいた。
息子のカケルとはうまくいかなかった。
夫には歩み寄ることができていたが、カケルとはうまくいかなくなった。
最初は"小さい子ども"だったので幼い頃の私とあまり変わらず、頭で理解することも心で共感することもできた。
しかし、日に日に成長していくと、カケルは小さな男になっていく。それは私にとってわからないモノでしかない。
子どもだと思って接すれば、意地の悪い男の上司のように屁理屈を返す。
大人のナリカケとして尊重すれば、3歳児のように駄々をこねる。
カケルが女の子だったら、上手くやれたのかもしれない。ホントかどうかは知らないが、女の子の方が早く発達すると聞く。その通りであれば、カケルと違って理性的に会話をしてくれたかもしれない。
そうであれば、"そうじゃないだろ"と横からつつくのは、夫ではなく私がやれたかもしれない。
「君は自分を大切にした方がいい」
夫からあの日に言われたその言葉だって、私が突き付ける側に立てたかもしれない。
カケルを産んだことを後悔しているわけではない。カケルが男の子だったことを責めているわけでもない。ただ、そうであったら、事実はそうなっていただろうと言っているだけだ。
**
私にはひとり息子がいた。
息子のカケルは、今はもう小学6年生になっただろう。
息子のカケル 浅井一行 @HitoyukiAsai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます