第一話 邂逅
「、ッは、……ァ」
『目を覚ますとなぜか泣いていた』なんて、いかにも物語風でありきたり。
後を追うように流れた最後の一筋を拭って、花崎ソラは気怠さを帯びた身体を起こした。
自室。窓からは夜の明るさがじんわりと染み込んできていた。そのはず、時間はもう十一時を過ぎており、電気もつけていないこの部屋はとっぷりと暗色に塗りつぶされている。
「っあ゙ー……だめだ、寝ちゃった」
ソラは呻きと共に、のろのろとベッドを降りた。履いたままだった白のソックスが煩わしくて、親指の辺りをむずがらせながら部屋を見渡す。なんの変哲もない、散らかってばかりの自分の部屋だ。視線を動かせば目に入った姿見で、ようやく彼女は自身の見た目を客観視することになった。
少し捲れ上がったセーラー服の襟。変な状態で敷いていたせいで髪には妙な癖がつき、口端にはほんの二、三ミリ程度だが白い涎の跡がある。起きた直後のもったりとした雰囲気が表情にまで現れており、正直見るに耐えない。ただでさえ普段から仏頂面ばかりと言われるのに。
「……最悪」
頬にくっついた髪を払い、嫌そうな顔で制服を直す。口元を乱雑に拭き、水筒に残っていたお茶を飲んだ。
「起きないので先に食べました。 温めて食べてください」。
机にはそんな書き置きが置いてあった。文字は紛れもなく祖母の字。ソラの祖母はスマホを手にしてからも、こういう細々したことはいちいち紙に書く。
「……LINE使えばいいのに」
そんなことを思いながら髪をかき上げ、ソラはふと目元に触れる。
ひんやりとした指。既にほとんど乾いていて、軽く突っ張る皮膚の感触。
「(──────なんで、泣いてたんだろ)」
夢の内容はもうすっかり霞んで、朧げにしか思い出せない。
誰かと話していた、ような気がする。ソラが覚えているのはその程度だ。
目を覚ますと、決まって夢の記憶は朝靄のごとく消えてしまう。泣くほどだから、きっととんでもない悪夢なのだろうけれど。
こん。
「、?」
何か音がした気がして、ソラは振り返った。しかしあるのは寝乱れたベッドと窓だけで、夜空の明るさがそれらを柔らかく照らし出している。
申し訳程度にかかったカーテンが夜の香りと共に揺れ、遊ぶようにはためいていた。
……はためいている?
「ぁあやっば、……!」
窓がほんの少し開いている。閉め忘れたまま寝落ちたのだ。
まだ春の終わりがけとはいえ今の季節、少しでも窓を開けていたらすぐに蚊が入ってくる。そう思った途端腕や脚がかゆくなってきた気がするのだから、人体とはゲンキンなものである。
すぐにでも階下のリビングへ向かおうとしていたが、方向転換。
ソラはベッドに乗り上げ、窓枠に手をかける。
そうして閉めるため力をこめようとしたとき。
「、ッひ」
息が、止まる。
何かが──────誰かが唐突に、硝子越しにそこに『現れた』。
吐く息の端切れ、身体全体に変な力がこもる。本当に驚いた時、人は声すら出せなくなるものだ。ソラは窓から目を離せないまま、ベッドから転がるように落ちた。
揺れるカーテンの向こう、白いシーツのようなものを被った何かが、窓の前に陣取って蠢いている。薄めなレース生地とはいえカーテン越し、加えて相手が被っている布の生地は不透明な白。ゆえにシルエット程度は伺えても、中が何かまでは見ることができない。まるでハロウィンのおばけの仮装だ。
「ッな、何、誰ッ!?」
一気に混乱を帯びた声で、叫ぶように尋ねる。しかし返事はない。その布の揺らぎに言い知れない不気味さを感じて、ソラは部屋の扉へ駆け寄った。ドアノブにしがみつき、縋るように回す。
しかし。
「!? う、っ嘘、なんで、!?」
何故か、ドアが開かない。
激しくがちゃがちゃとドアノブを回すも、手ごたえがない。壁にドアノブだけぽつんとついている現代アートを、作品と知らずに必死にいじくっているような感覚だ。
「ん゙、んぃ゙いッ、開い、てぇ……!」
片足をかけ引き、今度は押し、ドンドンと力の限り叩いてみるも、変化はない。扉はただしんと押し黙って、動くことなくそこにある。
出られない。
その事実にざっと脳天から冷たい汗をかいて、ソラはおそるおそる振り返った。
『誰か』は変わらずそこに居て、きょとん、と首を傾げて、それからまた窓をノックした。その音にソラの肩はびくりと震える。ふわふわと揺れるマリアベールの波間から、ほっそりとした白い手が見えた。
形状からして、ちゃんと『人間』ではあるようだ。
まともかどうかは、ともかくとして。
「ッ、〜〜〜〜〜〜……!」
ソラは辺りを見渡す。
窓は謎の不審者がいる場所以外ない。扉は何故か施錠済み。出られそうなところは見当たらないし、スマホは真っ暗な画面のまま起動しなくなっていた。
万事休す、背水の陣。
ソラは幾度か深呼吸をした。
鳥肌が立った心臓は幾らか平静を取り戻す。
そうしてやっと覚悟を決めて、窓に向き直り歩き出す。相手の行動に対応できるよう、警戒心はMAXのまま。
息を殺して中腰で窓に近づき、ベッドに乗り上げる。スプリングが微かに軋み、心臓の鼓動をはやらせた。
窓枠に改めて手をかけ、力を込める。
「(──────ん? あれ、?)」
この部屋、ベランダどころか掴まれるものも何もない、三階なんだけど。
そう気づいた時には、窓はすでに開け放たれていた。
「ッぅぶ、わっ、!?」
飛び込む突風。適当に置いていたプリントが部屋中を舞った。カーテンが大きくはためき、一瞬ソラの身体をすっかり覆い隠す。
目の前の『誰か』はその風の中、プールから上がるようにぐいっと部屋の内へと乗り上げた。
ぐわ、と顔が近づいて、ベールの奥の何かにソラの鼻先が触れる。気圧されるようにソラは転んだ。ベッドから転がり落ち、床にしたたかに腰を打ち付ける。
「ッ、たぁ……!」
ソラはうつ向いたまま、床に座り込んだ。
一瞬の春嵐と腰の痛みで、恐怖心も一時的に薄れている。
なんなんだ一体、と視線をやると、ぴかぴかしたローファーが床へと降り立った。
もはや呆然としてソラが見つめるその先で、『誰か』はあっさりとベールを脱ぎ捨てる。
「ッ、ぅわ、……え……?」
ベールの下に隠れていたのは、一人の少年だった。
ほっそりとした身体を、白の柔らかそうなブラウスが覆っている。コルセットにソックスガーター、ハーフパンツ。歳は大体十歳程度だろうか、そのシルエットは性の分化前を思わせる。
細い首の上に乗る顔だって嘘みたいに小さい。そのくせ緩やかに波打つプラチナブロンドの下、星屑をまぶしたような紫の瞳は華やかに大きかった。
「は、──────……」
ソラは目と口をあんぐりと開いて、目の前の存在をただ見つめていた。
ここまで視認し黙考した上で、未だに事態が飲み込めていなかったのだ。
それは勿論、浮世離れした美貌や突飛な現状への放心もあるのだが、しかしこれは、どう見たって、
「(宙に、浮いてる……!?)」
「はじめまして」
少年はそう言って薄く笑みを浮かべた。完璧な声と笑み。月光に白くなぞられた頬が、見たこともないような芸術だった。
人間が得られる美じゃない。返事の代わりにソラの頭に浮かんだのはそんな感想だけ。
「僕はルクバト。 君に会いに来たんだ」
「は、ぇ」
ルクバトと名乗る少年は、ソラの目の前でぷかぷかと浮かびながら、するりと手を差し出した。
白い手だ。肉感をまだ忘れきっていない、ほっそりとした手。皺の一筋も見当たらなくて、よく磨き上げた石膏や象牙にすら見える。
その腕のラインを伝うように視線を上げると、星空の瞳に縫い留められた。
柔らかそうな薄い唇が再び開かれる。
「僕と一緒に、『星』を集めてくれないかな」
ソラはただ、何も言えずに息を飲んだ。
いいことかどうかはわからない。少なくとも、今はまだ。
ただ、日常が壊れる音がした。その瞬間わかったのは、たったそれだけだった。
エンドロール・ゴースト ひと夏 夕間 @twilight_summer
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