爪先
夢月七海
あとがき
さて、ここから先、しばらくは私個人の体験談となる。非常に個人的な話だが、興味を持った方は、ぜひこのまま読み進めてほしい。
中学生のあの日まで、私は平凡な子供だった。
特に打ち込んでいるものもなく、しかし、不良になるほど世の中に不満もなく、家族関係も友達付き合いもありきたりであった。そのため、このまま自分は、公立の大学に行って、一般的な企業に就職して、ただの会社員として一生を終えていくのだろうな、というような、早めの達観を得ていた。
それが、一つの出会いによって、大きく変わった。きっかけは、H.J.による『爪先立ちしたバレリーナ』の絵である。
これは、H.J.の代表作として、今では三本の指に入るほどの扱いだが、当時はほぼ無名であった。しかし、地元の美術館がJの展覧会を開く際に、目玉の一つとして、その絵をチラシに載せていた。
学校の掲示板で、それを見た時に衝撃が走った。あまりに美しかったのだ。そのバレリーナの爪先が。
予鈴が鳴ったのも気が付かず、教室に向かっていた教師に注意されたくらいに、私はバレリーナの爪先だけを見つめ続けていた。恐らく、学校ではなかったら、一日中、いや、数日間も見惚れていただろう。
当然、その展示会に、小遣いがある限りは何度も赴いた。美術館が開館してから、閉館するまで、一日中、絵を眺めていた。本物の爪先は、チラシとは比べようもなく、その線、白色の濃淡、筆遣いもはっきり目に映り、さらに私を魅了した。
展示会の期間が終わると、私は夢から覚めた気持ちになった。しかし、心にはあの絵の面影が私を捕らえたままである。すぐに、『爪先立ちしたバレリーナ』とH.J.について調べ始めた。
すぐに判明したことだが、H.J.は究極の写実主義と言われている人物であり、彼が書いてきた絵画の人物は、全て実在するということだった。Jの伝記や研究書を読むと、そのモデルたちの写真もともに登場する。
しかし、唯一『爪先立ちしたバレリーナ』だけが、モデル不明の絵であった。私は落胆するどころか、むしろ奮い立った。このモデルのバレリーナを見つけ出すことが、私の使命なのだと。
それから私は、芸術の歴史について勉強し、大学でもそれを専門的に学び、博士号を取ってから、芸術学の教授となった。写実主義、主にJに関する研究者として、この『H.J.全画集』の編集長を務めた。
だが、ここまでJの研究を極めた私だが、未だに『爪先立ちしたバレリーナ』のモデルは見つけられていない。あの絵が描かれた時代、Jが暮らしていた地域にも足繫く通い、彼の交流関係を洗い出してみたのだが、何一つ手掛かりが出てこないのも、事実だ。
私は、時々夢を見る。あの、床に触れているのかいないのか、ギリギリのバランスを保っている爪先に、私がキスをしている夢。あるいは、あの爪先が、私に触れず、代わりに動いて生まれる風の軌道で、私の体を愛撫してくれる夢を。
「彼女は、Jの絵で唯一モデルのいない人物だ」——研究者の間では、そんな説も唱えられている。それでも、時間や空間や性別も越えて、私を捕らえた爪先が、この世界にいたことを、私は信じている。それが、執念と妄想の果てで貫いている、狂信だったとしても。
爪先 夢月七海 @yumetuki-773
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
箇条書き日記/夢月七海
★31 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1,681話
ぐうたら旅行記・仙台編/夢月七海
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 2話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます