第3話


「ネーリ」

 教会に入ると、祭壇の道具を磨いていた神父が振り返った。

 彼とは神聖ローマ帝国駐屯地での礼拝とでも顔を合わせるので、久しぶりではなかったが、この教会に来るのは負傷して以来であり、その前も、駐屯地の方で寝泊まりをし始めていたのでなかなか久しぶりだった。やはり入った瞬間、安心した。小さい教会だけど、初めてここに来た時からなんだか雰囲気が好きだったのだ。天窓から光が射し込んでいる通路を、パタパタと子供のようにネーリが駆けて来ると、神父が笑っている。

「来たのですね。今日は夜の礼拝がありますよ」

 ネーリは頷く。

「僕も参加していいですか? 準備も手伝います」

「もちろん。子供たちも来るから喜びますよ。貴方に会いたがっているから」

「僕もです」

 ネーリは嬉しそうに頷いた。

「絵の制作は進んでいますか?」

「はい! 大分形になりました」

「そうですか。あの子たちにも見せてあげたいですね」

「大きな絵じゃなかったら持って来てあげたいんですけど」

「あの大きさでは動かすのは無理そうですね」

 神父は駐屯地で新作の絵を見たことがあるから巨大さが分かるのだ。

「そうか……描き終わったらどうするかを考えてなかった」

 ネーリは目を瞬かせている。神父は声を出して笑った。

「大きい絵を描きたいなと思っただけで描いちゃったから」

「こういう時、騎士の方々がいらっしゃると心強いですね。老人や子供ばかりでは移動させるのも苦労でしょうが。きっと無事に国に移動させて下さいますよ」

「完成したら、神聖ローマ帝国に移動させる前にみんなに見せてあげたいな……。でも、竜がいるから駐屯地は子供は怖いだろうなあ……」

 ネーリがそう言うと、神父は優しい顔をする。

「それが……そうでもないんですよ」

「?」

 神父は教会の壁にある棚を開いて、何かを取り出した。持って来て、ネーリに見せてくれる。見て、すぐに分かった。

「フェリックスだ」

 何枚もの紙に、竜の絵が描かれているのだ。子供たちが描いたのだろう。何故フェリックスと分かるかというと、フェリックスは竜の中でもかなり珍しい、白っぽい色をしているからなのだ。描かれた竜は白い。子供の描き方は率直だから、真っ白く描かれているものもあって、ネーリは笑った。

「どうしてみんながフェリックスを?」

 竜は王妃に禁じられているのでヴェネツィアの街まで来れないのだ。知らないはずなのに何故子供たちがフェリックスの姿を描けるのか。

「【アクア・アルタ】の時に、竜が街に来たでしょう」

「あ……」

 思い出した。この前の【アクア・アルタ】が起きた時、緊急事態だからと、街を見に行くために、確かにフェルディナントが竜に乗ってヴェネツィアに来たのだ。道が水没してしまって馬では行き来出来なかったので、致し方なかったのである。

 フェルディナントは一般人が竜を怖がることはよく理解していたから、竜の扱いは非常に気にを遣っているのだが、あの時はしょうがなかったと認めながらも、竜を連れて行ったことを反省していた。そういう事情を知っていたので、ネーリは元気いっぱい生き生き描かれた子供たちの絵を、微笑ましそうに見た。

「みんなよく描けてる。すごいなあ。僕は駐屯地にいるから時間をかけて見ながら竜を描けるけど、みんな一瞬見ただけなのに」

「実はあの日、この辺りも水に浸ってしまったんですが、あの大きい竜が……」

 思い出して、神父が笑っている。

「そこの食堂の扉の前に積まれた土嚢が崩れそうだったんですが、扉の前に座って水の侵入を防いでくれたんですよ。水が引くまでじっと大人しくしていて。子供たちが側で見て、絵を描いていました」

「そうなんですか?」

「ええ。それ以来子供たちはあの竜を気に入って、またフェルディナント殿が連れて来てくれないかといつも話しています」

 ネーリは笑った。

「知らなかった。フェリックス、偉いなあ。あの子は海の水も怖くないんですね」

「賢い生き物なんですね。土嚢が崩れたらダメだと思ったのか、じっとしていましたよ」

「……。王妃様が王都の上空の飛行を禁じてるそうです。みんな怖がるからって。確かに普段見ない生き物だから怖がる人も多いから、きっとそれが正しいんだろうけど。こんな風に描いてもらえると、嬉しいですね」

「そうですね……」

 神父は絵を見ているネーリを優しい表情で見守った。

「今日は夜の礼拝をしに来たんですか?」

「あ……そうだった。神父様に聞きたいことがあって……以前、ここによく来られていた、ヴェネツィア聖教会のシュキン・ベルメットさんについて聞きたいんです」

「シュキン……?」

「はい。ヴェネツィア聖教会の……修道士の方で。確かサン・ミケーレの方の教会からいらっしゃっていた……」

 そこまで聞いて、ああ、と神父は思い出したようだ。

「思い出しました。彼も貴方の絵がとても好きでしたね。ここに来ると必ずアトリエを見ていました。彼が何か?」

「少し聞きたいことがあって。あの方は今、どちらでお勤めになっているのでしょうか」

 神父の表情が少し曇った。

「彼は……実はヴェネツィア聖教会を辞めたのです」

「えっ?」

「信心深い修道士だったのですが、何か心に迷いがあったのかもしれませんね。正式な手続きを受けず、突然姿を消してしまったのです。彼は若い修道士でしたから、何か別の生き方をしたいと思ったのかもしれません」

「では、行方不明なんですか?」

「ええ」

 ネーリの表情に、神父は首を傾げる。

「彼が何か……?」

 一瞬迷ったが、ネーリはゆっくりと持って来た鞄から、フェルディナントから預かって来た書類を取り出した。

「申し訳ありません。これを……見ていただいてもよろしいでしょうか?」

「?」

 神父はテーブルの上の礼拝具を一度後ろにどけて、開けてくれた。

「実はヴェネツィアの街で起きた殺人事件の捜査を、フレディたちがしているのですが……」

「ええ。聞いていますよ」

「色々な調べから、この一覧表を手に入れたんです」

「これは……日付と、物品の記述……何かオークションの記録のようですが」

「そうなんです。竜騎兵団の人がその中に僕の名前を見つけてくれて」

 ネーリは自分の名があるところを指差した。

「本当ですね」

「でも僕はオークションに参加して物を競り落としてなんかないんです。だから、この一覧表自体がでたらめじゃないかとフレディ達は考えているんですが、その中に、シュキンさんの名前もあったんです」

 数段下にあったシュキンの名前を指差す。

「それで、この名簿が何か知りたいから、シュキンさんは何か知ってるかと思って。ヴェネツィア聖教会の聖職が、オークションなどに関わることを禁じられていることは僕も知っています。でもこの名簿がフレディ達の手に入ったのは、殺人事件の捜査途上のこと。僕の名前もここにあるから、シュキンさんに何か疑いを掛けているわけではないんです。……神父様?」

「……。……この二人もヴェネツィア聖教会に籍を置いていた修道士ですね」

 じっと名簿を見ていた神父が気付いた。

「えっ?」

「この人と、この人です。……少しいいですか?」

「はい。もちろん」

 書類を手にして、神父が他のページも捲った。

「この人も。……それから、この方は修道士ではないですが、知っています。聖歌隊に属していたことがある」

「どの方ですか?」

「この二人です。……ネーリ。この書類はどこから?」

「あ……、えっと……」

 神父は頷く。

「そうでした。事件の捜査をしていたんでしたね。それも殺人事件の捜査です。いくら貴方が駐屯地に出入りしていても、フェルディナント殿は仔細まで貴方には話していないでしょう。危険に巻き込むことにもなりかねませんから」

「はい……。確かに僕は詳しいことは知りません。この名簿が、でたらめのものである可能性があり、何か他の情報を隠しているものの可能性があるということだけは聞きました。

シュキンさんもオークションに関わっていないことが分かれば、僕のと合わせて、この名簿が架空のオークションのやり取りを記録したものだと分かり、出た所に聞きに行けるかもしれないと」

「そうですか。では、私が自分でフェルディナント殿に説明しに行きましょう。すみませんがネーリ。今日の礼拝のあと、私を神聖ローマ帝国軍の駐屯地に連れて行ってくれますか?」

「は、はい。勿論構いません。……あ、でも……フレディが……フェルディナント将軍が、礼拝が終わった後、こちらに迎えに来てくれることになっていますから、多分、お会いになれると思います」

 少し表情を強張らせていた神父は、ネーリがそんな風に言うと、表情を和らげた。

「そうでしたか。ではその時にお話し出来ますね。貴方のことを心配して下さったのでしょう。貴方が大切にされていることが分かって、私は安心ですよ」

 ネーリは穏やかに微笑む。

「はい。フェルディナント将軍だけじゃなく、トロイさんも、他の竜騎兵の方たちも、とても親切にしてくださいます」

「不思議ですね。貴方はヴェネトの子ですが、長い間家族を持たず、この国を放浪していました。それが、他国から来たあの方たちとの間に深い縁が出来ている。元々は、フェルディナント将軍が貴方の絵をこの教会で見つけられ、足しげく見に通われたことから始まったことです。全ては神の思し召しなのでしょう」

「……はい……。神父さま、お聞きしてもいいでしょうか? あの名簿に載っていた修道士の方々は……神父様と親しい方ですか?」

 神父は書類を閉じると、振り返り、壁に寄り添うように立つ聖母を見上げた。

「親しい方と、そうでない方がいます。知っている程度の方も。……ですが、少し気掛かりなことが」

「……なんでしょうか?」

「あそこに記載されて、私が名を分かる方は、皆すでにヴェネツィア聖教会に籍を置いていません。突然行方知れずになった方なのです」

 ネーリは息を飲んだ。

「シュキンもその一人です。……けれど、彼は非常に信心深い修道士でした。教会において権勢を誇り、修道士たちを束ねる立場を望むような方もおりますが、シュキンは出世欲とは無縁の人間でした。彼は街の人間や、信仰を持たない方に、それに触れる機会を与える、そういう役目を果たすことの方が自分にとって意義があると思っていました。ですから私などの意見を聞きに、よくここを訪れていたのです。ヴェネツィア聖教会において出世を望む若者は、私の許などを訪れません。シュキンはそういう意味では変わっていました。若くして、人の為に人生を捧げる心積もりが出来ているように私は感じました。ですから彼が突然姿を消した時、きっと何かやりたいことが他に出来たのだと、そう思おうとしましたが、どこか釈然としなかったのです。

 不思議だ、と思いました。

 人の人生だからと、それで納得していましたが。……ネーリ。私はフェルディナント将軍に、この名簿に載る、他の方の現状も調べた方がいいと助言するつもりです」

 ぱら……、と名簿を見る。

 そこに確かに描かれた自分の名前。単なる何かの間違いだろうと気にしていなかったことが、意味を持つ。ネーリは名簿をもう一度、見てみた。自分の名があるページしか見ていなかったが、他のページを捲っている時、ネーリも知っている名前が他にあることに気付いた。


 ――ヴェネトの夜に暗躍するようになって……どれくらい時間が経っただろう?


 警邏隊の動きを追いながら、それを私兵団のように飼う、有力貴族の存在に、ネーリも気付いていた。

 フェルディナントが言っていた、シャルタナ家の名は今まで彼の捜査上には現われてなかったが、ヴェネトの貴族が、自分の目を付けた娼婦を警邏隊に攫わせていることを、彼は知っていた。

 何人かの娼婦は助け、

 何人かの娼婦は助けられなかった。

 攫われた後、日時が過ぎて、ヴェネトの街で遺体となって発見された彼女達を知っている。

 その、何人かと同じ名前があったのだ。


(この名簿は……)


 人間が、人間を物のように買う。

 痛めつけ、不要になれば殺して捨てる。

 ネーリはかつて、祖父のユリウスに、ヴェネトはこの世界で一番美しい国だと聞いた。

 その国の為に在ったことを、誇りに思っていると。

 だからその国で、そんなことは起こらないだろうと、どこかで信じ切っていたのだ。

(信じたいんだ)

 ヴェネトは美しい国だと。

 祖父の護り続けてきた理想は、彼が亡くなった後も決して失われたりしないと。



【終】


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