第2話
「ネーリ」
絵を描いていたネーリは呼ばれて我に返った。入り口にフェルディナントの姿がある。
「すまない、仕事中に」
ネーリは大きく伸びをして笑った。
「ううん、いいんだよー。そろそろ休憩しようと思ってたから」
座る脚立の上にいるネーリを、抱えるようにして下に下ろしてやる。子供みたいなことをしてもらって、ネーリが楽しそうに笑った。
「昨日ヴェネツィアの街で、アトリエの捜索をしたんだが」
「そうだったね。何か分かった……?」
それなんだが、とフェルディナントが資料を出す。
「ここ使っていいよ」
ネーリが小さいテーブルの上を片付けてくれた。
「ありがとう。アトリエでは主に貴族とのつながりなどを調べて、警邏隊を私兵団のように扱ってる貴族に繋がる何か証拠が分かればと思って、帳簿とか、顧客表なんかを調べたんだが……」
フェルディナントは一冊の資料を広げた。
「これは画廊で行われてるオークションの記録を録った一覧表らしいんだ」
どれ? と覗き込んで、すぐネーリは気づいた。
「ここの画廊知ってる。あの通りに面した大きい所だよね?」
ここに来る前にフェルディナントも店を見てきたが、立派な外観の画廊で、それはヴェネツィアに住まう者ならば知っているだろうと思うような場所だった。
ネーリもそうだったらしい。
「よく行く?」
彼は笑って首を振った。
「場所は知ってるけど僕は行かないよ。だってあそこ飾ってる絵全部高そうなんだもの。僕には手が届かないだろうし、入ったことはないの」
聞こうと思っていた答えを、早くもネーリがくれた。
「入ったことはないんだな?」
「うん」
「オークションも定期的に開いてるみたいなんだが……」
「そうみたいだね。すごく高価なものも取引されてるって聞いたことある。美術品だけじゃなくて宝石とかも競売に掛けられてるらしいし」
「ネーリが以前オークションで絵を売ろうとしたって言ってたけど」
「うん。あれは画廊じゃなくて、街の庁舎で行われたオークションだよ。絵画だけじゃなくて、色んなものが出品されるの」
「そうか……あの画廊のオークションの記録の中に、トロイがお前の名前を見つけたんだ」
ネーリは小首を傾げる。
「ぼくの? 僕、オークションに出品はしたけど売れなかったし、ものを買ったことはないよ」
「それが聞きたかったんだ。でも購入した記録として残ってる」
フェルディナントが一覧表を見せてくれた。
確かにそこに自分の名があり、骨董の首飾りを買ったことになっている。ネーリは首を改めて振った。
「こんなの買ってないよ。でもほんとだ……僕の名前がある……。なんでだろう?」
「お前が一切関わりがないということは、この一覧表自体がでたらめの可能性がある。
単なるでたらめならいいんだが、表面上はでたらめに見せて別の情報を隠してるのかも」
「トロイさんよく気付いたね?」
「実は、別の名前を探してた。覚えてるか? 前に街でお前に話しかけてきた貴族の馬車を」
「女性が乗ってたやつだよね? あの水鳥の紋章の……」
「ああ。あれはヴェネトでも有力貴族のシャルタナ家の紋章らしい」
「シャルタナ……?」
「ヴェネト周辺諸島にも領地を持つ、かなりの大貴族だ」
「そんな人だったんだ」
ネーリの問いかけはあどけなかった。そんな彼を、フェルディナントは優しい表情で見る。普通、実力ある画家ほど、有力貴族とは繋がりが深いものだ。だがネーリは優れた画家だが、絵を売っておらず、教会や小さな干潟の家の中で描き続けていたからこそ、そういう貴族社会の暗部のような部分と、関わりがない。奇跡的に、無垢なまま、聖堂の中に残されている。そういう存在だった。
決してこの先も、そういったものに彼を関わらせてはならないと思う。
国に連れ帰ったら宮廷画家として、皇帝には挨拶を済ませることにはなるけれど、変な貴族が関わって来ないよう、それは彼を社交界に連れ出した責任として、見守ってやらなければ。
「……あの貴族が、少し気になっている。単なる俺の思い過ごしかもしれないんだが。それをトロイの耳には入れておいたから、シャルタナの名を探していたんだよ。その時、偶然お前の名前を見つけたんだ。
ネーリ……その……、お前が刺された時……そのことと、こういう美術界のことだとか、貴族だとか、そういう関わりはないかな……」
ネーリは瞳を瞬かせた。少し聞き難そうに尋ねてきたフェルディナントの優しさに、気を遣わせてしまったなあと心が痛む。全ては話せないけど。
「フレディ。僕が刺されたことと、他の画家とか、貴族とかは関わりはないよ。ぼく、そういう付き合いがあるほど、他の画家とは交流はないし、貴族も知らないんだ。あのね……きっと、刺した相手は僕のこと、僕だって知らないと思う。完全に事故、だったんだ」
「そうなのか……?」
「うん。だから、二度と同じことはないよって言えるの。……ごめんね、フレディたちは王都の殺人事件の捜査してくれてるのに、僕が詳細を話さないから、混乱するよね。でも、全然関係ないと僕は思ってる」
フェルディナントはじっとこっちを見て来るネーリを見返した。それから数秒して、表情を和らげる。ネーリをゆっくり抱き寄せた。
「いいんだ。そのことは分かった。いや、俺だってお前が誰かに憎まれて狙われる人間だと思っては無いんだ。完全な事故だというのなら、かえって理解出来る。まあ……だからってお前は刺されたんだから、事故だから許せるということではないが……。でも事故だから相手をこれ以上追求しないでやってくれとお前がそういうなら、そうするよ。今のは単なる確認だから気にしないでいい。お前が美術界や貴族と深い関わりが無いなら、そこに怨恨なんかも存在はしないんだから。唯一、俺たちに関わってることでお前が狙われてないかは心配だったけど……」
「それも違うよ。フレディたち気づいてないと思うけど、王都の人達は竜騎兵団の人達のことホントに信頼するようになってるよ。警邏隊の人達が街をうろついていた時、本当に街の人たちが怯えてるのを感じた。今、そういうのがないんだ。前のヴェネツィアに、少しだけ戻ってきた感じ。竜騎兵団の軍服見ると、前は街の人緊張してたけど、今はそんなことないと思うよ。自分たちを守ってくれる人だって、きっと分かってる」
「そうだといいんだけどな」
フェルディナントが小さく笑んで、ネーリの背を撫でた。
軽く、フェルディナントの肩に頬を預けて、ふと彼は気付いた。
「このひと知ってる」
ネーリは一覧表を指差した。フェルディナントが振り返る。
「シュキン・ベルメット……知り合いか?」
「親しい友達ってわけじゃないけど、知ってる。僕の絵を見に来てくれた時に、挨拶されたから覚えてる。神父様の所に用事で、教会に出入りしてたから、僕の絵見てくれてたみたい」
「神父に用事って……僧侶か?」
「うん。ヴェネツィア聖教会のひと。まだ若い人だった。でもヴェネツィア聖教会はオークションとか禁じてたはず。禁を破る感じの人じゃなかったけど……」
「今どこにいるか分かるか?」
「そういえばいつからか顔を見なくなったなあ……神父様なら知ってると思うよ。教会はヴェネト中にあるから、多分どこか遠くの教区を任されたのかなって思ってたんだけど。
良かったら僕、午後になったら教会に聞きに行ってみようか? 教会の方に行こうと思ってたし。今日丁度夜の礼拝があるはずだから。久しぶりに顔出してみる」
「いいのか?」
「もちろんだよ」
「そうか……悪いな、お前は民間人なのにこんなことを頼んで。その人のことと、他に誰か知ってる人がいないか、聞いてみてくれるか? なんの一覧表かは言わないでもいいから」
「うん分かった」
「夜の礼拝に出るなら、帰りに迎えに行くよ。俺もこのあと街の守備隊本部に行くから」
ネーリが刺されてから、フェルディナントは陽が落ちてからの独り歩きを心配してくれる。申し訳ない気持ちはあったが、断わった方が彼を心配させることは分かったので、断わらなかった。
「ありがとうフレディ。教会で待ってるね」
予想した通り、ネーリがそう伝えると、フェルディナントは嬉しそうな顔をした。
そういえば最近、フェルディナントはこの顔をよく見せてくれるようになった気がする。
優しく微笑んでくれるのだ。この顔を見れると、ネーリは心が温かくなる。
遠くで鐘が鳴った。
眠っていたフェリックスが目を覚まし、ふわぁと欠伸をしていた。
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