海に沈むジグラート36
七海ポルカ
第1話
ふわぁ。
ラファエルが欠伸をしながら寝室から出てきた。
「おはようございます、ラファエル様」
「おはよう。ああ、今日もいい香りだね」
淹れられた紅茶を嬉しそうに飲みつつも、いつになく眠そうだった。
ラファエルは普段は少しの隙も無い大貴族を演じているのだが、外では多忙な人なので、家では案外ソファでゴロゴロしていて、意外と、どこでもかしこでも寝ていることがある。
この前など妙にラファエルがいないと思ったら庭先で寝転んでいてさすがにアデライードはギョッとした。
その時に聞いたことは、ラファエルがそんな風になったのは、実は最近のことらしく、小さい頃は家族の目が気になって、その辺に寝こけたり出来なかったらしい。
無力だった時はその辺でごろ寝するような余裕もなく、一日中緊張していたようだ。
それでも幼い頃、ジィナイース・テラと出会った時、彼は大貴族の血筋だというのにどこでも寝転んで昼寝をする子供で、最初はそんな所で寝たりしたら危ないよジィナイース、とラファエルは大層心配したのだが、庭の草の上でも眠くなったらぱた……と横になって彼が寝るので、ある時ぽかぽか陽気と本当に気持ち良さそうに眠るジィナイースの顔を見ていると、自分も眠くなってしまって、庭先で寝てしまったらしい。普段なら、両親や城の者や、兄弟たちに何というはしたない格好をしてるのだと叱責されるはずだというのに、誰にも邪魔をされず、数時間好きな場所に転がってみると、存外幸せでたまらないことに気付いたのだという。
大人になるまでそういう機会は得られなかったらしいが、フランス王の信頼を得て、公爵位を授かり、家族に認められると、恐れるものがなくなって、自分の家を持つなり、家にいる時は寝たい時に寝るようになったらしい。
ジィナイースという青年は、ラファエルと共に暮らしていたのは少年時代の短い間のことだというが、その短い間にラファエルに多大な影響を及ぼしていた。
彼女はまだ一度しかジィナイースと会ったことが無いが、それでも、その一度でも強く印象に残っている。
「昨夜は眠れませんでしたか?」
そんなわけで、寝たい時に寝るが信条になったラファエルがいつになく眠たげだったので、アデライードは小首を傾げて尋ねてみた。ラファエルは微笑む。
「だって昨日すごい風だったんだもの。君は眠れた?」
「わたくし、海辺の修道院で育ちましたから風の音には慣れていますの。嵐の夜など窓どころか建物全体がミシミシ鳴っていましたから、昨夜なんて全然平気ですですわ」
ラファエルは感心した。
「君はそういう所はとても豪気だねえ。そういえばヴェネトに来る船も全く恐れてなかったようだし」
「来る時は海が穏やかでしたから。恵まれましたわ」
「僕の時もそんなに酷い荒れ狂う海ってわけじゃなかったけど……。あの揺れはダメだったなあ。ギギギギ……っていうあの木の軋む音も壊れるんじゃないかって心配になったし」
「船に乗るのは初めてでしたけど、楽しかったです」
妹がそんな風に言った。
ラファエルがアデライードを可愛がるのは、自分の父親が生ませたくせに存在も知らない哀れな妹ということも確かにあったし、彼にとっては憂鬱な自分の少年時代に関わっていない唯一の家族ということもあり、まっさらな状態で兄妹として出会えたことが嬉しい、ということもあったが、貴族の血を引いても修道院育ちの彼女は何でも自分の身の回りのことは自分でやる教育を受けていて、可憐な外見からは想像出来ないほど、豪気な所があるからだった。
ジィナイースにもそういう所がある。
可憐な姿をしていたが、彼は周囲の大人たちに交じってなんでも覚えて育って来たから、器用になんでも出来た。大らかだが、何にも動じることがなく、非常に堂々としている。
もしかしたらこの妹が少し貴族じみていないジィナイースに似たところがあるから一緒にいられるのかもしれない、と思った。
「君は頼もしいことを言うなあ」
ラファエルが腕を組んで、楽しそうに言った。アデライードは微笑んで、一緒にテーブルに座り紅茶を飲む。
「アデライード。君に話しておくことがあるんだ」
「はい」
「僕のヴェネトにおける状況が少し変わって来た。当分僕は王宮の方で寝泊まりすることになりそうなんだ」
心積もりはしていたのだろう。アデライードは特に不安げな顔をすることもなく、はい、と静かに頷いた。
「だからといって、君が何か生活を変えないといけないということはない。今まで通り、ここで日々を過ごしていればいいからね。僕も時々は顔を出すよ。僕としてはこの家が好きだけど、神聖ローマ帝国軍はヴェネツィアの街で民衆の信任を得ているし、スペイン艦隊の総司令は王太子付きの近衛団を率いることになった。僕は妃殿下の信頼を得ているけど、このあたりでもう一度、他の二国と我がフランスは明確に違うということを、世にも示しておきたいんだ。だからしばらく集中して、城で公務に着こうと思う」
「分かりました」
「こういうと不安に聞こえるかもしれないが、心配はしなくていい。僕は現時点で、他の二国の総司令が知らない情報を、王妃から知らされている。内容は話せないが、それは君を信じていないからではなく、妃殿下への義理だ。現時点で、僕以外にその情報を知る者がいても、意味がないと思ってのこと」
「以前仰ってた、外交上の失態は……許していただけたのでしょうか?」
ラファエルは頷く。
「それは安心していい。僕は失態だと思っていたけど、妃殿下はそうは思わなかったようだね。許すも何も、怒ってもないと優しく笑って下さったよ」
アデライードは安心したようだ。
「そうですか。安堵しました」
「うん。――僕が思うに……、」
ゆっくりと頬杖をついて、ラファエルは窓の遠くを見遣った。
「……ヴェネト王妃は、訳もなく【シビュラの塔】を撃ち、世界を恐怖により制したいという、殺戮者というわけではないのだと思う。ただ、……彼女の抱える怒りや憎しみは、まだ底知れない所がある」
「……怒り……」
「妃殿下の中にはその怒りを恐れる気持ちも、多分あるんだと思う。自分の醜さをね。ただ、人間の怒りや憎しみとは本来、出したいと思って出すものではなく、どうにもならずに外に流れ出すものだ。彼女の場合、そういうものが外に流れ出した時に、側に【シビュラの塔】という、あの古代兵器がある。そういう意味では非常に危険な状態にある人なんだ」
「……ヴェネトの国王陛下は、妃殿下に安定をもたらす存在にならないのでしょうか?」
ラファエルは瞳を伏せた。
「恐らく、成りえないだろう」
穏やかで静かな言い方ではあったが、いつになくはっきりとそう言った兄に、アデライードは目を留める。
「僕はしばらく城での公務に専念するが、いずれそこで得た情報をまとめられれば、君には話してあげよう。でもそれは、君が必ずしも、フランスという国に命を捧げた存在ではないからなんだ。アデライード。例えばルゴーは非常に有能な補佐官だけど、彼は完全に軍人寄りの考え方だ。僕は貴族的な考え方をするから、あまり破壊的な考え方は好みじゃない。情報というものは、得るものによってもらたすものが違う。情報を得て、それを武器に使おうとまず考えようとする者もいれば、情報を得ても、必要なものとそうでないものを冷静に振り分けて、決して滅びの為にそれを使わない者もいる。だから、僕が君に話す情報は、君だけに話すものだ。ルゴーが知っているものも、彼が聞くべきことだけ話す。
フランス王は良い主で、良き友だ。彼の治める国には友人がいるし、僕の母国だ。
一夜で吹っ飛ばされてほしいとは決して願わないけれど、僕の場合、フランスが世界の覇者になることには、そんなに興味はない」
真剣な表情で聞いていたアデライードは少しだけ表情を緩めた。
ラファエルは優しい性格をしている。例え他国だろうと、人が争い、殺し合うようなことは嫌なのだ。彼女はちゃんと理解していた。ヴェネトにいる限り、ラファエルは世界の平穏の為に、尽力をするだろう。それは、フランスだけがそこに在れば良いのだ、という考え方とは、ある意味相容れないこともある。つまりラファエルは、それをアデライードに理解してほしいと言っているのだ。
フランス艦隊が知れば、フランスが覇権を得るために情報を使う可能性がある。
そういうことはしたくないから、ルゴーには知らせないが、自分には知らせる情報があるということだ。
「僕の願いは、この世界において、想い合う人たちが気兼ねなく国を行き来し、いつでも会いに行くことが出来て、未来を脅かされず幸せに暮らせることだ。僕はその為に、ヴェネトで力を尽くそうと思ってる」
「わたしは……政も、社交界のことも知りません。でも、お兄さまの願いは、忘れず心に留めておきます。そして、少しでもお兄さまのお力になりたいと思っています」
ラファエルは微笑む。妹の頭を優しく撫でた。
「それでいいんだよ。アデライード。僕が君をここに呼んだのは、君が国や、一族や、名に縛られていない、自由な人だからなんだ。そして僕を理解し、力になろうとしてくれる、そういう人だからここに呼んだ。僕はしばらく城に行くけれど、君はそれだけは理解し、何かあるまでは安心して穏やかにこの地で過ごしてほしい。信頼しているよ」
「心得ました、ラファエル様」
「うん。それで……早速なんだけれど、力になってくれるかな。城に行く前に、ジィナイースと一度話したいんだ。彼は今、主に神聖ローマ帝国の駐屯地にいるけれど、僕があそこを訪ねて行くのはあんまりよろしくない。立場上ね。だから僕の代わりに、彼と連絡を取って欲しいんだ。教会にいるかもしれないから、まずそちらに行って、いなければ駐屯地にまで行ってもらわないといけないけれど。出来れば近日中に会いたいんだ」
「分かりました。まず教会に顔を出して、もしいらっしゃらなければ駐屯地を訪ねてみます」
「嫌な役目を任せてしまって、悪いね」
「? まあ、嫌な役目なんてそんなことありませんわ。お兄さまが他国の駐屯地を無駄に訪ねない方がいいのは理解してますし、わたくし、ジィナイース様にお会いできるのも楽しみにしていますもの」
ラファエルがきょとんとした。
「いや。その心配は全くしてないけど……。アデライード知らないの? あいつらの駐屯地、あの竜とかいう怪獣みたいなのが山ほどいるんだよ。お嬢さんには怖いだろう」
紫がかった瞳を、妹はぱちぱちさせた。そんなことすっかり忘れていた、という顔だ。
しかし、彼女は明るく笑った。
「大丈夫ですわ。私修道院では大きな馬の世話もしていましたから、大きな動物の世話には慣れてますの」
「うーん……。でも馬が大丈夫だからといって竜が大丈夫とは限らないからなあ」
「それにわたくし、竜など絵本でしか見たことありません。一度でいいから実物の竜というものを見てみたいと常々思っていましたから、楽しみです」
そうなの? という顔をしてから、ラファエルは声を出して笑った。
「まったく、勇敢な妹で恐れ入るね。ちなみに僕は、あんな怪獣みたいな動物の側に行くのぜったいヤダ」
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