神龍軒に先代は帰る
月見 夕
故人からの手紙
二番テーブルの上に置かれた茶封筒を睨み、俺たち兄弟は揃って沈黙していた。
ライブ終わりの兄貴が帰ってくるまで中身を見ないでおこうと、こうして夜が更けるまで大人しく待っていたのだ。
「……兄貴はどう思う?」
「どうもこうも。本物だろ」
「何かの間違いじゃねぇよな。誰かの悪戯とか……」
「いや、見間違えねぇだろ、この字」
「だよな……」
表には神龍軒の宛書き。そして裏にしたためられた差出人の文字には見覚えがある。その名もまた、俺たちにとって無関係とは決して言えなかった。
「神田龍明」はここ神龍軒の先代店主であり――一昨年に死んだ俺たちの親父だったからだ。
ただ封筒を睨み続けていても埒が明かない。
意を決した俺は封筒を手に取り封を切った。
折り畳まれた白い便箋を開き、咳払いをひとつしてゆっくりと読み上げる。
『
龍樹は兄貴の名前だ。つまりこの手紙は間違いなく兄貴と俺宛のものということだろう。
『この手紙が届く頃、俺は死んでいるだろう。それが一週間前なのか一年前なのかは俺には分からんが、これを書いている今は二〇二三年の八月だ。さっき医者にもう長くないと言われたので、これを書いている。察してくれ』
ちなみに親父が突然倒れて亡くなったのは一昨年――二〇二三年の十二月だ。この手紙を書いて半年足らずで死んだことになる。
そんな予感はしていたが、やはり遺書だったか。
『今お前らを取り巻く状況は最悪かもしれん。いや、案外上手くいってるか? 俺が何もかも放り出して死んだ後かもな。もしそうならすまない。契約のことは小難しくて俺には分からん。あと二年もないが……お前らに任せるから、後は頼んだぞ。二人で仲良くやっていってくれたら、それでいい。大事にしろよ』
手紙はそこで終わっていた。一枚しかない便箋を透かしてみたが、店内の照明越しにそれ以上の文言が浮かび上がることはなかった。
首を捻り、兄貴は口を開く。
「この「契約」ってのがな……」
「何か心当たりあるか?」
「いや全く」
「一昨年の八月から二年足らずのうちに何かあるってことか? だとしたらもうすぐじゃん」
「……大事にしろって何を?」
「ちゃんと書いとけよ親父……」
謎が謎を呼び、兄弟揃って顔を渋くする。
手紙という形で久しぶりに帰ってきた親父は相変わらず寡黙で、大切なことは何も言わずに俺たちの頭を悩ませた。
翌日、通常営業に戻った俺はいつものように中華鍋を振る。頭の端には昨日の手紙が引っかかったままだったが、忙しさにかまけてそれ以上考えるのをやめていた。
「龍之介ー、五番に回鍋肉定食とチャーハンセットな」
「おー」
昼過ぎということもあり、それなりに店内には客入りがある。ありがたいことだ。突然店を引き継いで約一年経ったが、少しずつ客足は戻りつつある。
先代の頃とは客層が異なり若者が多いが、これも定期的にやってる奇抜な新メニューのお陰か、それとも若者の食事の選択肢に「町中華」が定着したのもあるのか。どちらにせよ、今が頑張り時だ。
よそったばかりの杏仁豆腐を兄貴に手渡すと、番台の黒電話が鳴った。
「はーい神龍軒です」
「ご機嫌よう。注文よろしいかしら」
ざわついた店内とは打って変わり、病棟の静けさを背景に鈴が転がったような声がした。もはや常連客となった気まぐれな出前専門の令嬢、城之崎さんだ。
「あら、今日はお兄さんじゃないのね」
「兄貴、今手が離せなくてな。今日は何にする?」
いつもより掛けてくる時間が早いのは良いことだが、こう忙しい時間と被るのは正直辛いところがある。
内心恐る恐る聞いた俺に、城之崎さんは幾らか悩むように「うーん」と声を漏らした。
「……そうね、ケーキにしましょ。白くてふわふわしたのが良いわ。三時に持ってきて頂戴」
受話器を抱えたまま壁時計を仰ぐと、一時半。どんなケーキにするのか、ヒントも何もない状態から一時間以内か。今日もなかなかハードな注文だ。
「まーたそんなざっくりした注文をタイトな納期で……うちは中華屋なんだけど」
「これは試験なんだから諦めなさい。恨むなら――」
「何て?」
「……いえ、何もないわ。じゃ、よろしく頼むわね――私を太らせてくれるんでしょう?」
言うだけ言って切られ、俺はしばらく物言わぬ受話器を見つめてしまった。
……そうでしたね、俺が格好付けてそんなこと言いましたね、昨日。
思わず耳まで赤くなりそうなのを咳払いで誤魔化して、急いで厨房に戻った。早く五番テーブルの注文を作ってしまわないと、ケーキにも取りかかれない。
いつもの倍速で回鍋肉定食とチャーハンセットを仕上げるため、俺は頭に巻いた手拭いを縛り直した。
ランチ客が落ち着いたのは、それから三十分後のことだった。あと一時間で完成させ、届けなければならない。買い出しに行く暇なんてない。
それでも……中華鍋を振る最中でもオーブンは予熱済みだし、今ある食材で何を作ろうか、手順はどうするかは既に頭の中にあった。もう無茶な注文に振り回されるだけの俺ではないのだ。
「兄貴。こっち来て手伝え」
「えー」
番台でのほほんとテレビを見ていた看板息子を招集し、厨房に立たせる。渋々、といった顔で手を洗った兄貴の目の前に、ボウルと生クリームを用意した。
「で、何すんの俺」
「生クリーム泡立てて。角が立つくらい固めにな」
「うわめっちゃ面倒臭いやつ」
苦情の返事に黙って泡立て器を持たせ、計量した生クリームと砂糖をボウルに流し入れる。情けない声を上げながら、兄貴はちゃかちゃかと音を立てながら泡立てに入った。
さて俺は俺の作業だ。
冷蔵庫から大量の卵を用意し、兄貴とは別のボウルに割り開ける。この時卵白だけを取り出し、卵黄は別皿に分けていく。今回使うのは卵白の方。これで城之崎さんのいう「白いケーキ」の条件をクリアする算段だ。
透明の卵白に砂糖を加え、菜箸五本持ちでちゃかちゃかと混ぜ合わせる。泡立て器は兄貴に貸した一本しかないから仕方がない。ここは中華屋だ。
手元のボウルが白いメレンゲで満たされる頃、兄貴を振り返る。
「生クリーム、立った?」
「いやー、まだ緩いな」
「これ入れるから、引き続き頼んだ」
「えぇまだかよ……」
言うが早いか、兄貴のボウルに白い粉を投入した。これが今回の秘密兵器。乳製品とはまた違う独特の甘い香りが鼻先を撫でていく。
同じ粉を卵白のボウルにも投入し、さらに牛乳と油を加えて混ぜる。そこへ薄力粉をふるい、さっくりと混ぜ合わせて生地の準備は完了だ。
型紙を敷いたオーブンの天板に生地を流し入れ、予熱しておいた庫内へ。窓を覗くと、赤々と照らされた白い生地がふるりと揺れていた。
さて十五分後。
焼けた生地を取り出すと、およそ中華屋の店内とは思えない甘くて香ばしい匂いが立ち込めた。良かった、昼下がりで誰もいなくて。
白くふわふわに仕上がった生地の粗熱を取る間、兄貴を振り返る。ヘロヘロになりながら混ぜていた生クリームは、固めの角が立つほどしっかり泡立てられていた。
「お疲れー、あとは生地が冷めるまで冷蔵庫入れといて」
「疲れたわ……あとで俺にも半分くれ」
ほうほうの体の兄貴はよろよろと番台へ戻っていった。サンキュー兄貴。今日は役に立ったぞ。
残り時間はあと三十分。生地が冷めたらあとは生クリームを巻き込んで完成……なのだが冷ます時間が惜しい。
鍋つかみで天板を抱えたまま、玄関を出る。一月の刺すような冷気が吹き抜ける。積もりはしないだろうが、雪でも降りそうな寒さだ。ほかほかと湯気を上げていた生地はすぐに大人しくなった。
十分程そうして、充分に冷めた生地を再び厨房に持ち戻ってきた。
冷蔵庫で待機していたクリームを片面にたっぷり塗りたくり、端から慎重に、次第に大胆に巻き込んでいく。完成したそれを覗き込んだ兄貴が歓声を上げる。
「すげぇ! 真っ白なロールケーキか!」
「おう。切るからさっさと持って行ってくれ」
「人遣いが荒いんだよお前は……」
「たまには働け」
さっとケーキを切り分け、手早く持ち帰り容器に詰める。それをおかもちに突っ込むや、嫌々立ち上がる兄貴の手に押し付けた。
半ば叩き出すように見送ると、店内にはロールケーキの切れ端と俺だけが取り残された。
ほんのり甘い香りに誘われ、白い切れ端を口に運ぶ。うん、ふわりと上品な甘さが鼻を抜ける。いい出来だ。
「杏仁ロールケーキ、お気に召すかな……」
そう、クリームにも生地にも使用していた謎の白い粉の正体は、杏仁豆腐の原料である
ほぼ表情を変えずに食べる城之崎さんも、これには頷いてくれるだろうか。兄貴が帰ってきたら聞いてみよう。
残る切れ端を兄のために皿によそっていると、スーツの男が玄関を潜った。壁時計は三時を過ぎている。こんな時間に客だろうか。
「いらっしゃいませ……すいません、ランチはもう終わってて」
申し訳なさを前面に出してそう謝ると、来客は訝しむように俺に目を遣った。年若の商売人を蔑むような、嫌な目だ。
「神田龍明氏は、ご不在か」
「親父は……死にました。一昨年に」
不快を隠しながら、簡潔にそう答える。この男は親父に用向きだったようだ。死んだのを知らないあたり親密な相手という訳でもなさそうで、当然俺も面識はない。葬式で顔を見た覚えもなかった。
スーツの男は短く溜息を吐く。
「用は手短に済ませよう。単刀直入に言う――一ヶ月以内にここから立ち退いてくれ。そういう契約だったはずだ」
ぽかんとした俺に、スーツの内ポケットから一枚の紙を取り出して見せる。
警察が捜査令状を提示するかのように突き出されたその書類の末尾には、見慣れた親父の筆跡でサインが書き残されていた。
神龍軒に先代は帰る 月見 夕 @tsukimi0518
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