信長の遺言
片岡マキ
覚醒
古都の寺町通りはひっそりとしていた。5月のさわやかな風が、緑の木々を揺らしながら通り過ぎていく。その静寂の中、江副信一は阿弥陀寺の門前で立ち尽くしていた。目の前の門に掲げられた垂れ幕には、大きく「織田信長公大法要」と書かれている。どこか厳粛な空気を放つその文字に、なぜか信一は強く惹かれていた。
「なぜここに来たのだろう……?」
2日前にちょうど50歳の誕生日を迎えたばかりの信一は、寺町通りの阿弥陀寺の門前でなぜか動けなくなったのだ。偶然通りかかっただけのはずだった。いつも通る通勤路が通行止めで、たまたま阿弥陀寺の前に出てきてしまったに過ぎない。
そして、信長公法要の垂れ幕を見ているうちに、信一の頭の中で30年前の忘れ去られていた記憶が走馬灯のように蘇ってきたのだった。
それは信一が二十歳の頃、京都の大学に合格し、母親とともに下宿先を探しに京都に訪れた帰りだった。河原町三条通りにあるロイヤルホテル地下の京料理の店で夕食をとった後、店を出て階段を上がる途中、薄暗いランプの光に照らされた占いのテーブルを見つけた。そこには、古めかしい和服をまとった初老の男性が座り、その前で一人の若い女性が泣きそうな顔で席を立つところだった。
「占い師にひどいことを言われたのかしら……」と母親が呟いた。しかし、普段そういったものに興味のない母親がその夜は少し酔っていたせいか、「試しに占ってもらおうか」と言い出したのだ。
占い師は母親の手相を見て、生年月日を確認すると静かにこう語った。
「もしあなたが男性なら、一国一城の主になれるような、非常な強運をお持ちです。金運、仕事運、すべてに恵まれています。女性の方でこのような手相は珍しいです」
さっきの女性への占いとは違う様子に、信一は内心ほっとした。そして占い師はなぜか信一の方を見て謎めいた笑いを浮かべて、こう続けた。
「息子さんもぜひ見させていただけませんか?」
信一は躊躇しつつも、促されるまま手を差し出した。占い師は手相をじっくりと見てから信一の生年月日を聞き、しばらく天井を仰ぐように目を閉じていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「あなたもお母様以上に強い運勢をお持ちです。平和な時代よりも乱世でこそ、その運と力を発揮する運勢です。争いや戦いにおいては絶対に負けない強さを持っています」そして占い師は、しばらく間をおいて「驚かれるかもしれませんが……あなたの前世は織田信長ですよ」
その意外な言葉に信一は思わず笑いそうになった。しかし占い師は真剣な眼差しを向けて続けた。
「ただし、一つだけ注意してください。50歳を迎えたときにお墓を立てなさい。それですべてが安定し、運が益々開けます」
当時二十歳だった信一は、その話を半信半疑で聞き流した。織田信長は昔から確かに好きな武将だったが、その生まれ変わりだなんて荒唐無稽だと思ったし、墓を立てるなどまだ二十歳の信一には現実味のない話だと思った。そしてその後の楽しく充実した大学生活に忙殺され、その言葉は次第に記憶の片隅へと追いやられていった。大学を無事4年で卒業できた信一は、当時人気で競争率が高かった大手商社に幸運にも就職することができた。配属も住み慣れた京都の支店になった。よくよく京都には縁があるのだと、信一は単純に考えていた。M商事に入社し、京都支店に配属されたことは決して偶然でも幸運でもなく必然であったとはこの時の信一は夢にも思っていなかった。入社後、約10年で独立し自分の会社を設立することができた。その事務所が偶然にも阿弥陀寺のすぐ近くだったのだ。大学に入学して占い師に会ったあの日からあっという間に30年の月日が過ぎ去っていた。
信一は、何か見えない力に引かれるように、ふらふらと阿弥陀寺の境内に足を踏み入れた。頭の中では「こんなことをしてどうするんだ?」という声が聞こえるのに、体がそれを拒むように進んでいく。そして、気づけば本堂の横にある住居のような建物の前に立っていた。
恐る恐る引き戸を開けると、一段上がったところに受付らしきカウンターがあり、そこには和服を着た年配の女性が座っていた。女性は突然の見知らぬ来訪者に少し怪訝そうな表情を向けた。「何かご用でしょうか?」
唐突に問われ、信一は一瞬言葉に詰まったが、まさか「織田信長の生まれ変わりだと言われ、こちらでお墓を建てたい」などと正直に話すわけにはいかない。
「えっと……和尚さんにお会いしたいのですが」
それが精一杯だった。女性は困ったように首を傾げた。
「和尚は、法要の準備で忙しいのですが……お会いになる理由は?」
信一はさらに言葉を失いそうになったが、なんとか引き下がるわけにはいかないという思いで、しどろもどろに話を続けた。
「どうしてもお話ししたいことがありまして……」
女性はため息をつき、渋々奥の部屋へ下がっていった。しばらくして戻ってくると、意外な言葉を口にした。
「和尚が、少しだけお時間をいただけるそうです。こちらへどうぞ」
信一は案内されるまま、応接間に入った。そこには落ち着いた感じで和尚が待っており、穏やかな笑みを浮かべて信一を迎え入れた。
「どうぞお座りください」
信一が勧められたソファに腰を下ろすと、和尚は静かに尋ねた。
「何かお話があるそうですね」
信一は、まず自分の名前を「江副信一」と名乗った後、30年前の占い師との出来事を正直に話し始めた。自分が織田信長の生まれ変わりだと言われ、五十歳になったらお墓を立てるようにと言われたこと。そして五十歳になって2日後の今日偶然寺の前で信長公の法要を知って……。その奇妙な話を、信じてもらえないだろうと思いつつも一生懸命伝えた。
話を聞き終わると、和尚は驚く様子もなく、しばらく考えるように目を閉じた。そして静かに話し始めた。江副さん、申し訳ありませんがこの阿弥陀寺は織田家の菩提寺ですので基本的には外部の方のお墓は受け付けていないのですが、今お話を聞いているうちになにか不思議な縁を感じています。
「江副さん、今お住まいはどちらですか?」突然和尚が質問してきた。
「堀川の一条です」信一が答えると、和尚は少し驚いたような表情を見せた。
「お仕事は?」
「今はこのお寺の近くで貿易の仕事をしています。以前は四条烏丸のM商事に勤めていました」
和尚はしばし黙り込むと、後ろの棚から古い書物を取り出し、ページをめくり始めた。その姿に信一は何かが動き出す予感を感じていた。やがて和尚は顔を上げ、信一の方をじっと見つめてこう言った。
「江副さん……私は今、驚きとともに寒気を覚えています。実はあなたの住んでいる堀川一条は、本能寺の変が起こったときに阿弥陀寺があった場所です。そして、以前お勤めだった四条烏丸のM商事のビルの地下近辺は、当時堀川四条にあった本能寺から織田信長公が脱出を試みた際に、不測の事態で命を落とされた場所だと寺の古文書に記されています」
信一は思わず息を呑んだ。
「……それはどういうことですか?」
和尚は頷きながら話を続けた。
「本能寺の変で信長公の遺体が見つからなかった理由は、阿弥陀寺の初代住職、つまり信長公の義理の弟である清玉上人がその遺体を本能寺の抜け穴から運び出したからだと古文書に記されています。その経路は四条烏丸から堀川沿いを通り、当時の阿弥陀寺があった堀川一条までの道だったのです。つまり、江副さんが毎日通勤していた経路は信長公の遺体を運んだ道なのです」
和尚のその言葉を聞いて信一の体は震えた。その驚きをさらに押し広げるように、和尚は話を続けた。
「そしてもう一つ驚くべきことは、今日、あなたが突然この寺に来られる前に信長公のお墓が崩れたのです。阿弥陀寺創建以来の初めての出来事です」
信一は言葉を失った。偶然では済まされない何かが、自分をこの場所に導いたという確信が胸の内に広がっていた。
和尚が古いお墓の区画図を片手に「とにかく墓の方に行きましょう」と立ち上がったとき、信一もその言葉に引き寄せられるように立ち上がった。先ほどの話を聞いてから胸の奥に妙な高揚感と不安が入り混じり、足元がふわふわと浮いているような感覚だった。
墓地の門をくぐると、静かな空気が信一を包み込んだ。墓石が並ぶ中、正面に堂々と立つ織田信長公と信忠公の墓が目に入った。400年の長い年月風雨にさらされた黒く苔むした墓石が、信長公の存在感とともにその歴史の重みを物語っていた。その周辺には信長公の側近だった森蘭丸兄弟をはじめ、最期をともにした家臣たちの墓が並んでいる。信一はその光景に圧倒され、思わず息を呑んだ。
「ご覧ください、信長公の墓の灯篭が崩れてしまっています」
和尚がそう言うと、信一は目を凝らした。灯篭の上部が崩れ、丸い石の球体が墓石の横に転がっている。傍らでは石屋が修復作業をしており、手際よく道具を使って破損部分を点検していた。
「……やはり不思議なことですね」和尚はつぶやきながら区画図を見直した。そしてふと目を止め、首をかしげた。
「おや?こんな場所に空地があったかな……」
和尚の指が示す場所には、灯篭が崩れて石の球体が転がっていた。そこは信長公の墓のすぐ横で、約1.5メートル四方ほどの空き区画がぽっかりと広がっていた。区画図によれば、その場所には別の家臣の墓があるはずだったが、現実には何もない。ただ雑草が伸びているだけの未使用地だった。
和尚は区画図を見比べながら小さく笑い、「信長公がここにしなさい、とおっしゃっているようですね」と信一の方を見た。その言葉に、信一は思わず聞き返した。
「本当にこんな……この場所でいいんですか?」
和尚はにっこりと笑みを浮かべながら答えた。
「あなたは信長さんでしょう?そういうご縁があるということです」
信一は息を飲んだ。その冗談のような言葉に、なぜか否定する気持ちにはなれなかった。それどころか、不思議なほどしっくりと胸に響いた。
「ちょうど石屋さんもいますし、今のうちに工事をお願いしてみてはいかがですか?」和尚がさらりと言う。
信一はしばらく考えた後、持っていた名刺を取り出し、修復作業をしていた石屋に渡した。そして、空き地に自分の墓を作る工事を依頼した。石屋は少し驚いた様子だったが、すぐに真剣な表情で信一の意図を汲み取り、「お任せください」と力強く頷いた。
その日はそれで話がまとまり、信一は阿弥陀寺を後にした。たった1時間ほどの出来事だとは信じられないほど濃密な時間を過ごした気がする。まるで何日もここに留まっていたようだった。
「本当に信長公のお墓の横に自分の墓を建てることになるなんて……」
信一は呟きながら寺町通りを歩いた。三日後の6月2日、四百年前に本能寺の変が起きた日、織田信長公の大法要が執り行われる日だ。信一は再び阿弥陀寺に足を運んでいた。阿弥陀寺を初めて訪問した翌日、和尚から「法要にも参列してほしい」と連絡があったのだ。
境内に足を踏み入れると、全国から集まった信長ファンで埋め尽くされていた。信長公の肖像が描かれた旗や関連グッズを持った人々が列をなし、その熱気は、信一に改めて信長という人物の絶大な人気を実感させた。
「これが四百年以上前の人物だなんて信じられないな……」
そんなことを考えながら、人波をかき分けて関係者用の入り口へ向かった。そこでは案内係のお坊さんが待っていて、信一を本堂へと通した。本堂の中は厳かな空気に包まれており、木の香りと淡い香煙が漂っていた。
「こちらへどうぞ。」
お坊さんに案内され、信一は最前列の席へと促された。そこは特別な席であり、横には織田家の一族か縁者とおぼしき人々が並んでいた。目の前には堂々たる阿弥陀如来像が鎮座していた。その黄金に輝く姿は、3メートル以上の高さがあり、荘厳な存在感で本堂全体を包み込んでいる。その阿弥陀如来像の両脇には、どこかで見覚えのある像が置かれていた。
「これは……信長公と信忠公の像……?」
信一は息を呑んだ。その木像は、教科書や歴史番組で見たことがあるような、織田信長公とその嫡男、織田信忠公を模した座像だった。黒く変色した信長公の像は、長い年月の経過を感じさせるとともに威厳ある姿で、彼の生涯を象徴するような力強さを感じさせる。信一の胸には言葉にはできない感情が湧き上がってきた。信長公の像を見つめるうちに、まるでその目が自分を見返しているかのような錯覚さえ覚えた。
最前列に座る織田家の面々は、それぞれ端正な顔立ちで、どことなく威厳を感じさせる雰囲気をまとっていた。隣の初老の男性が一瞬信一の方に目を向けたが、軽く会釈をするだけで特に何も話しかけてはこなかった。
やがて、多くのお坊さんたちが並び、本堂全体にお経が響き渡り始めた。その声は重厚で、時に低く、時に力強い。信一はその音に耳を傾けながら、奇妙な落ち着きと緊張が入り混じる感覚に包まれていた。
「自分はここにいていいのだろうか……?」
何度もそう思いながらも、信一の心には、目に見えない何かに導かれているような感覚があった。まるでこの場所にいることが運命づけられていたかのように。そしてふと気づくと、胸の鼓動が次第に速くなり、お経の響きとともに何かが呼び覚まされるような気がしていた。
法要が終わった後、織田信長関連で著名な小説家が登壇し、「世界史の中の織田信長」というテーマで講演が行なわれた。
「織田信長という人物は、単に日本史だけに留まらず、今や世界史的にも注目されています。織田軍の当時の戦力は鉄砲の数は世界一で戦いを繰り返していた戦国時代の兵士の質も世界的に最強だったと言われ、特に信長による海軍の進化が驚異的でした。村上水軍や九鬼水軍など当時日本を代表する水軍がその柱となり、驚くべきは信長が世界で初めて鉄製の軍艦を構想し、毛利水軍との実戦でも使われています。それは、西洋が鉄製の艦船を用いるよりも200年も早いものでした」
聴衆たちは改めて織田信長の卓越した能力を知って興奮しながら耳を傾けている。
「もし信長が本能寺の変で命を落とさなければ、彼は間違いなく朝鮮半島から中国大陸へ進軍してまたたくまにユーラシア大陸を征服し、海軍はインド洋を渡り、ヨーロッパに到達し、もしかするとイギリスの海洋王国の台頭を阻み、陸ではかつてのモンゴル帝国を凌ぎ、海でもイギリスとスペインを凌ぐ歴史上最大の帝国が築かれていたかもしれません。世界の歴史は大きく変わっていたでしょう。その一方で、信長の想像を超える脅威は宣教師を通して本国のポルトガルやスペインに伝わり、ヨーロッパの国々は大きな危機感を持ち、それが本能寺の変につながった要因とも考えられています」
その壮大な仮説に、信一も思わず息を呑んだ。信長が日本史だけでなく世界史においても大きな可能性を秘めた存在であったという話は、まるで新たな物語を聞いているようだった。信長、いや日本国の可能性を消してしまった本能寺の変とそれを起こした明智光秀という人間に対して怒りとともに何か悲しみの入り混じった不思議な感情がわいてきた。
講演を聞き終えた後、信一は興奮しながら本堂の展示スペースに戻り、本能寺の変にまつわる資料や物品を改めて見て回った。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)や明智光秀から信長に宛てた書状が、ガラスケースの中に整然と並んでいる。いずれも達筆で、力強い筆跡からそれぞれの個性が滲み出ていた。光秀からの書状には、表面上は敬意を示しつつも、どこか張り詰めた感情が感じられる言葉が記されており、信一はそれをじっと見つめた。
さらに目を引いたのは、信長が本能寺の変で応戦した際に使用していたとされる皮の手袋だった。革は年季が入り黒ずんでいたが、掌の部分には火花や武器との接触による擦れた跡が残っており、激戦の一端を物語っていた。
「この手袋で明智軍に向けて弓を引いたのか……」
信一はガラスケース越しに手袋を見つめながら、信長が戦場で見たであろう光景を想像していた。弓を引き絞る感覚、熱気と煙の中で放たれる矢の軌道、信一はその情景をまるで自分が体験したかのように感じ、思わず目を閉じた。
展示物を一通り見終わると、信一は信長公の墓を訪れ、静かに手を合わせた。そして、その日は平静を装いながら帰途に就いたが、法要に参列して以来、何かが変わったという感覚を抱いていた。
日常生活に戻ってからも、信一の中には漠然とした違和感が残っていた。それは、法要以前の自分とはどこか異なるように感じる自分自身だった。だがその一方で、自分の変化がどこから来ているのか説明できない不思議な感覚を持て余していた。
数日後、石屋から電話が入った。
「江副さん、お墓の基礎工事を開始しますが、かなり深く掘り起こす作業になりますので、立ち会っていただいても構いませんが、工事の様子は写真でも残しておきますので、ご安心ください。また後日改めてご連絡いたします。」
丁寧な言葉に、信一は安心して工事を任せた。ところが、その後1か月経っても石屋からの連絡はなかった。不安になった信一が石屋に電話をすると、担当者はあっさりと答えた。
「工事はもう終了しています」
「え?写真のことはどうなっていますか?」
「申し訳ありません。手違いで写真は撮影できませんでした」担当者の声はどこか事務的で、信一は妙な違和感を感じた。
翌日、信一は阿弥陀寺を訪れた。墓地の門をくぐり、自分の墓があるはずの場所へ向かうと、そこには御影石で整えられた外枠が完成していた。仕上がり自体には問題はなく、美しく整えられていたが、それでも信一の心には釈然としないものが残っていた。
「あれほど立ち会いや写真撮影について念を押していたのに、なぜ何の連絡もなく終わってしまったんだろう……」
墓の外枠の仕上がりを見ても、工事が丁寧に行われたことは一目で分かる。しかし、その基礎部分の工事がどのように行われたのか、自分の目で確認していないという事実が信一の心をざわつかせていた。
墓の周囲を歩きながら、信一はふと足を止めた。その場所が信長公の墓のすぐ隣だという事実が、再び胸に重くのしかかってきた。
「本当に、ここでよかったのだろうか……?」
疑念とともに、何かが引き寄せられるような感覚が信一の中に広がっていった。
それから1年が過ぎ、また6月2日が近づいてきた。法要の1週間ほど前に阿弥陀寺から信長公法要の案内状が届いた。
法要当日、久しぶりに信一は阿弥陀寺に足を運んだ。昨年、信一が墓の基礎工事の完成を確認して以来、阿弥陀寺を訪れるのはこれが初めてとなる。寺の門には昨年と同じように垂れ幕がかかっていたが、今回は少し控えめな装飾だった。しかし、それでも多くの人々が集まっており、信長人気の根強さを示していた。
本堂に案内された信一は、またしても前列の特別席に座ることになった。法要は厳かに始まり、僧侶たちの読経が堂内を満たした。昨年よりも規模は小さいものの、来場者の熱意は変わらず、その数はむしろ増えているように思えた。
法要が終わると、信一はまた本堂の展示スペースを訪れた。そこには昨年見た信長の資料や遺物が並んでおり、彼はそれを一つひとつ改めて見て回った。だが、その中で昨年にはなかったものが突然目に飛び込んできた。
それは、まるで血が酸化して赤黒く変色した槍先だった。途中で折れた木の先に金属の槍先が残っている。その異様な雰囲気に、信一は思わず立ち止まった。
次の瞬間、頭から背中にかけて電流が走るような感覚が信一を襲った。気がつくと、信一は燃え盛る建物の中にいた。周囲には煙が立ち込め、木造の柱が崩れ落ちてくる音が響いている。彼の手には槍が握られており、その先には火が燃え移ったように赤黒く焦げた跡があった。
「ここは……本能寺か……?」
信一の意識は混乱していたが、体は勝手に動き出していた。寺の奥へと駆け込み、狭い洞窟のような空間に閉じ込められた。そこには土が積み上がっており、信一は必死に槍で掘り進めた。だが、槍の木の部分が耐えきれずに折れ、その場に崩れ落ちた。
「これが……終わりなのか……」
信一の胸には、絶望とともに、自分の意思のすべてを何かに託したいという強い思いが湧き上がった。折れた槍先を握りしめ、その鋭利な刃を首元に当てる。
「この槍に、すべてを込める……!」
最後の瞬間、強烈な痛みとともに視界が白く染まり、その後再び信一は阿弥陀寺の展示スペースに戻っていた。
信一は槍先をじっと見つめた。呼吸が荒く、体中に冷や汗をかいていた。だが、彼の中には確信があった。この槍先には、信長のすべてが込められていたのだ。絶望、希望、そして未来への願い。そのすべてが、この小さな金属片に託されていた。
「これは……俺の……いや、信長の槍だ……」
信一は呟きながら、その場で膝をつきそうになった。そのとき、ふと背後に視線を感じた。振り返ると、そこには和尚が立っていた。
和尚は信一の顔を見つめ、何も言わずに静かに頷いた。その目は、すべてを理解しているかのようだった。
信長は最後に槍先で自害し、遺体は槍先とともに地中深く埋葬されたのだ。信一はその考えにたどり着いた。信長公記や寺の古文書にも秀吉が信長の跡目を狙って信長の遺体を探して阿弥陀寺をすべて掘り起こしたが、見つけることができずに埋葬場所を最後まで教えなかった住職を責め殺したと記されている。秀吉も清玉上人が信長の遺体を阿弥陀寺に持ちかえり埋葬したことを知っていたのだ。秀吉はしかたなく木造の信長の遺体を造り大徳寺で法要を行ったことは有名な史実である。執拗な秀吉の捜索にも関わらず、信長の遺体を埋めた場所は謎のままだったのだ。昨年、灯篭が崩れた際に信一の墓の場所が示されたあの空き地こそ、信長の遺骨が眠る場所だったのではないか。そして、その標として槍先が一緒に埋められていた。
「だから石屋と和尚さんは黙って処理をしたんだ……」
信一はすべてを悟った。この槍先の意味を発表すれば歴史的な発見として世間を大きく揺るがすことになる。だが、それは信長の遺志に反することだ。信長が望んだのは、自らの存在が未来への力となることであり、世間の好奇心や議論の対象になることではない。和尚が黙って頷いたのは、その覚悟を信一に伝えたのだ。
「これで十分だ。これまでの50年の人生のすべてはこの瞬間のためにあったんだ」
信長の死が四十九歳であったのは、決して偶然ではない。五十歳でお墓を立てるという意味は「信一の人生から信長への新たな生」だったのだ。そして、信一がその「新たな生」を受け継ぎ、現代で実現していくことが求められている。
「信長が現代に生きていたら、何をするだろうか……」
信一の頭の中には、信長が当時の日本を超え、世界を見据えていた姿が浮かんでいた。国内の統一だけでなく、海を越えた世界の舞台で戦い、築こうとした大きな未来。それを思うと、信一の胸には熱いものがこみ上げてきた。信一の中に、揺るぎない使命感が芽生えた。それは、ただの思いつきではなく、信長の遺志そのものが託されたものであると確信できるものだった。
謎がすべて解けたと感じたその瞬間、ふと一つの考えが頭をよぎった。
「信長が生まれ変わっているのなら、光秀はどうだろうか?」
明智光秀、本能寺の変で信長を討った男。信長とは一番因縁が深い人間だと言ってもよいであろう。もし彼も転生しているのなら、その存在が自分の近くにいる可能性はないだろうか。
信一は、自分の誕生日にまつわる話を思い出した。5月28日に生まれた自分は、幼い頃から予定日よりも4日か5日早く生まれてきたと母親から聞かされていた。もし予定日通りなら自分の誕生日は6月2日、本能寺の変が起きた日だったかもしれない。
「光秀が死亡したのは……本能寺の変の10日後京都山科で……つまり6月12日頃か……」
信一は息を呑んだ。すぐに身近にいる人間で6月12日の誕生日を持つ者がすぐに一人頭に浮かんだ。信一は思わず声を上げてしまった。
「あっ……!」
その瞬間、背後から声がした。
「あなた、そろそろ帰りましょうか?」
振り返ると、そこには妻の珠恵が立っていた。穏やかな笑みを浮かべた妻の姿を見たとき、信一は言葉を失った。珠恵は不思議そうに首をかしげた。信一の胸の中に、さまざまな感情が渦巻いていた。この驚くべき因縁は偶然に過ぎないのか、それとも何か意味があるのか。
阿弥陀寺を後にする道すがら、信一は妻と並んで歩きながら、頭の中でこれからの自分の役割を考え続けていた。信長公の遺志を現代にどう生かすのか。そして、妻の存在がこの運命の中でどのような意味を持つのか。
信長の遺言 片岡マキ @atlas900
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