あまがみ
猫屋ちゃき
あまがみ
仕事終わりの疲れた体で、瑞希は夜の住宅街を歩いていた。
本当ならばもう自宅に着いている頃なのに、回り道をしてしまった結果、まだ帰れていない。
まっすぐ帰るわけにはいかなかったのだ。
『送っていくって。なあ、坂本』
ねっとりした声がまだ耳に残っている気がして、思い出して身震いした。
残業してようやく帰れると思ったのに、駅から自宅に向かおうとしたところに、課長からそんなふうに声をかけられたのだ。
記憶違いでなければ、課長は近所に住んでいない。だからわざわざ、電車か何かで瑞希の近所にやってきて待ち伏せをしていたということである。
それだけでも気持ちが悪いのに、もっと気味が悪いことにこの男が瑞希を自宅まで送ろうとしたのは初めてではなかった。
初めては、確か飲み会の帰りだった。
人付き合いが苦手であっても、社内の人間関係の潤滑剤となり得るイベントに参加するだけの社会性はある。
だが、顔を出すのは当然一次会のみだ。誰にも二次会に誘って来ないし、参加するだけの厚かましさもない。
だから、二次会のために場所を移すとなった段階で帰ろうとしていた。
あまり履き心地のよくないパンプスに疲れとアルコールで浮腫んだ足をどうにかねじ込んで歩いていたのだが、途中で痛くなってしまった。そのため、足の様子を確認するために立ち止まって屈んだところ、声をかけられた。
『お前、転んだのか?』
振り返るより先にゾワッと怖気が立って、瑞希は反射的に「転んでません」と言った。急いで立ち上がって振り返ると、そこには課長がいたのだ。
人受けのいい上司だからきっと、二次会に行ったと思っていたのに。いつの間にか後ろからついてきていたらしい。
それが不気味で、「ああ、やってしまった」と思って、瑞希は警戒心を強めた。
瑞希は昔から、変なものから好かれる。それは瑞希自身が変だからかもしれないと、年頃になると気がついた。
昔から、おかしなものが見えた。
公園の隅でずっと揺れてる黒いビニール袋みたいな人影。線路脇に住んでいるわけではないのに真夜中に窓の向こうを走っていく電車。小学生の集団登校の後ろについて歩き、「ちょっとちょうだい、ちょっとちょうだい」と言う老婆。親戚の葬儀で見かけた、棺に群がる赤い服の小人たち。
まだ幼い頃は、両親や友達に見たものを素直に話していた。だが、成長するにつれそういったものは他の人には見えていないことを知った。
そして、迂闊に他人に話すと「嘘つき」だと言われることも。
見えなくなるのは無理だったから、見えないふりをするようになった。
それは至難の業で、目ざとい人に気づかれないように、視線の動きにすら気を使わねばならなかった。
中学生になる頃には〝普通〟の子がどんなふうに過ごし、どんなものを見ているのか知識としてわかるようになると、〝普通〟のふりが上手になった。
だが、それだけだ。逆に、そうやって〝普通〟にしようと思いつめるあまり人付き合いは苦手になって、いつも集団の中で浮いているような人間に育ってしまっていた。
そのせいか、おかしな人間に目をつけられることも多くなった。
おそらく、課長もその手の人間なのだろう。
周囲に溶け込めず、寄る辺のない者に付け入って支配したいというやつは多い。大学時代に付き合った男がそうだった。
「だからって、最寄り駅までやってきて待ち伏せしなくたっていいのに……」
ずいぶんな回り道をさせられてしまい、瑞希は思わず溜め息まじりに言った。
だが、それよりも深刻なことが起きているのに気づいてしまった。
さっきまであったはずの街灯が消えていた。というより、いつの間にか街灯のない通りまで歩いてきていたようだ。
本来ならば駅を出てそのまま細い住宅地内の道を抜けて自宅マンションへ向かうところを、一度大きな通りに出て、ぐるりと大回りでマンション方面の中道に戻ったはずだったのだ。
それなのに、あたりは真っ暗だ。まんまるな満月が低い位置で光っていなければ、きっと道を見失っていただろう。
まだこのあたりに引っ越して来たばかりの頃、実家の周辺に比べると街灯が少ないなとは思ったのだ。だが、こんなふうに全くないわけではなかったはずである。
おかしい、と気づいたものの、どうすればいいのかわからなかった。
戻ろうと振り返えると、背後も暗かった。これまで歩いてきた道には確かに街灯があったのに。
薄々勘づいてはいたが、どうやらおかしな場所に入り込んでしまったらしい。
今夜はどうやら、とことんツイていないようだ。
どうしようかと考えたとき、何か音が聞こえてきた。笛と太鼓──祭囃子だと思った瞬間、遠くに灯りが見えた。
ここがおかしい場所であるのは間違いないが、それならば明るいほうがマシだろう。
そんなことを思って、瑞希は歩き出した。
しばらく歩いていくと、開けた場所に出た。そしてそこには、提灯を灯した屋台が並んでいる。
遠くに見えた灯りは、提灯だったのだ。
(お祭りだったんだ……)
灯りと人の賑わいに、瑞希はほっとした。
だが、何の祭りだろうかと
文字が、読めなかったのだ。
崩し文字だとか悪筆だとかそういった話ではなく、見たこともない文字だった。漢字でも平仮名でもなく、アルファベットやハングルでもない。AIが出力したイラストの中に紛れ込んだ文字みたいな歪さを感じた。
耳に届くのは聞き慣れた言語のようだが、意味がわかると恐ろしい気がして、意識して聞かないようにした。
判然としないのは、文字だけではなかった。
屋台の店番をしている人物も、そこに並んでいる客も、顔がはっきり見えない。まるでそこだけモザイクがかかったみたいに見えないのだ。
(ここは、おかしい)
わかっていたことだったが、判然としない文字と顔からはっきり理解で来てしまった。
暗がりの中に突然現れた祭りだなんて、まともなわけがないのだ。わかっていたのに、来てしまった。
あのまま暗がりの中で途方に暮れているわけにもいかなかったが、ここに来たのが間違いなのも感じていた。
(……すごい、見られてる)
四方八方から、視線が自分に注がれているのが伝わってくる。ノイズがかかって顔は見えないのに、こちらを見ているのが気配でわかる。
しかもそれは、よくない類の視線だ。
子どものときから、そういったものに見られる経験はあった。見られるだけでなく、声をかけられ、手を引いてどこかへさらわれそうになったこともある。
昔から碌でもないものにばかり好かれるのだ。人間からも、そうでないものからも。
瑞希はとにかく、〝気づいている〟ことを向こうに気づかれないように、俯き加減に歩き続けた。
ここがまずい場所だというのはわかるものの、引き返すわけにはいかない。おかしなことに巻き込まれたときは大抵、進み続けるのがいいのだ。
だから、とにかく歩いてこの祭りの会場から出ようと決めた。
だが、無邪気な声が耳に届いて、肌の表面が恐怖に粟立つ。
「お母さーん、おいしそうな匂いがするよー」
気がつくと、すぐそばまで子どもがやってきていたらしく、スーツのジャケットの裾をギュッと掴まれていた。
背丈や聞こえてきた声から子どもなのだろうとわかるが、恐ろしくて見ることができない。
それに、ジャケットを掴まれたせいで動けなくなってしまった。
(どうしよう……立ち止まっちゃった。無視して歩き続ける? でも、そんなことしてもしこの子どもが転んだりしたら、このおかしな連中に捕まえられてしまう……?)
動けないまま、瑞希は必死に考えた。
「こら、だめよ。確かにおいしそうだけれど、〝印〟がついているじゃない」
「ちぇっ……」
母親と思しき女の声がたしなめると、子どもは瑞希から手を離した。
今のうちに逃げなければと、瑞希は再び歩き出す。
だが、先ほどよりも視線がさらに突き刺さるようになった。
「なあ、印はついてるが、あれ、薄くないか?」
「ありゃあ、印だけつけて逃げられたんだろ」
「てことは、食っちまっても問題ないんじゃねぇか?」
「印がついてるからってなんだ。食っちまえばわかんねぇさ」
顔の見えない異形たちの会話の内容が、不穏さを増してきていた。子どもが無邪気に〝おしいそう〟だと言ってしまったことで、瑞希のことを完全に餌認定したようだ。
(早く、ここから立ち去らないと……そうだ!)
歩調を速めながら、瑞希はカバンからスマホを取り出した。いくらここが普通の空間とは違うといっても、位置情報くらいわかるだろう。
位置を確認すれば出られるのではと考えて地図アプリを開こうとすると、手元に集中しすぎたせいで体勢を崩しかけた。
そのとき、スマホが着信を知らせて震える。
知らない番号の表示だったが、誰でもいいから現実世界の誰かと話したいと思って受話ボタンを押すと、まず最初に荒い息遣いが耳に入ってきた。
『なあ、送っていってやるって。今、どこにいるんだ?』
「ひっ……!」
着信は、係長からだった。獣のように荒い息を吐きながら、彼はなおも瑞希の所在を探ろうとしている。
おかしなところから逃げ出したいと思ったが、もとの世界に戻ったところで、また係長に追い回されるのだ。
どうしたらいいかわからなくて動けずにいると、電波の向こうで係長が笑った。
『てかお前、転んだよなぁ?』
まるでこちらの姿が見えているかのように、確信を持った声で係長は尋ねてきた。
なぜこの人は瑞希が転んだかどうかにこだわるのだろうか。転んだら、一体何だというのだろうか。
返事をしたくないし、何と答えていいのかわからない。だが、答えないことで係長の息遣いがさらに荒くなってきたような気がして怖くなった。
そんな瑞希の耳に、チリンという涼し気な鈴の音が聞こえた。
その音は、聞き覚えがある音だった。子どもの頃から、たまに聞いていた気がする。
雨の夜、眠れずにいると窓の外から聞こえてきた。たぶん、他の人には聞こえていないようだから、この世のものではなかったのだろう。
だが、何となく悪いものではないと感じていた。
「転んでいない、と言いなさい」
「え……」
すぐ耳元でそう囁かれて、瑞希は驚いた。だが、すぐに言われたとおりにする。
「こ、転んでません!」
言った途端、今度は「立って」と声をかけられた。
「……あ」
立ち上がると、いつの間にか目の前に人が立っていた。
いや、人ではないかもしれない。
その人は、あまりに美しかった。
極端に色素の薄い肌に白髪、そして目が赤い。
それだけならばアルビノかとも思うが、違う。
肌の表面にうっすらと、鱗模様のような光が浮いている。それが、目の前の人物が人ではないことを表していた。
和服姿の美しい男性だが、この人も異形だ。
「──おいで」
男性に声をかけられ、迷った。
だが、迷ったのも一瞬だけだ。
男性の声にあの鈴の音が重なって聞こえたことで、瑞希はこの手を取ることに決めた。
「送り犬に目をつけられ逃げ込んだ先が夜市とは…とことんついていない娘だな」
男性は瑞希の手を引いて歩き出した。
耳慣れない言葉に戸惑うと、それが気配で伝わったのか。男性が少し呆れたように口を開く。
「送り犬は夜道を背後からついてきて、ひとたび転べば食い殺してしまう妖怪だ。夜市は……異形たちが集まる夜の市のこと。そこで何も買ってはいけない。
「送り犬……夜市……そういうことでしたか……」
係長は送り犬という妖怪で、だから瑞希が転んだかどうか気にしていたのだ。もし転んでいたら、食い殺すことができるから。
夜市の解説はいまいちピンと来なかったが……生きた人間である自分にはどのみち関係がない場所というのはわかった。命で対価を支払うか食われるかしかない場所なら、即刻立ち去るのが正解だろう。
だが、提灯のあかりはどこまでも続いている。
「迷いがあるのか? 帰りたいと思わぬと帰れぬよ」
男に問われ、瑞希はハッとした。
ここを抜けなければと思っていたが、抜けたところで……という気持ちがあったことは否めない。
ここから出ても、係長をどうまくのかという問題が残っている。まいても、職場に行けばまた顔を合わせてしまうのだ。
そんなことを考えてしまったから、いつまでもここを抜けられないのだろう。
「俺も力があるわけではないから、本当ならばこんなことはしたくなかったのだが……お前には、恩があるからな」
男は、そう言って瑞希の手を引いて歩く速度を上げる。気がつけば闇が濃くなっていた。きっと、瑞希の感情に引きずられたのだろう。
(この人は、なぜこんなに一生懸命なんだろう。なんで、私のこと助けてくれたんだろう……)
男が瑞希をどうにか助けてくれようとしているのがわかって、不思議な気持ちになる。
おそらく、余裕綽々でここにいるわけではないだろうに。特段、強いわけでもないだろうに。彼は自分を助けてくれようとしているのだと思うと、助からねばという心境に変わる。
「帰りたい、です」
口にすると、その思いが強くなった。
それに応えるように、瑞希の手を握る男の手にも力がこもる。
そのとき、チリンと鈴が鳴った。
「そうか。では、帰ろう」
気配で、男が嬉しそうにしたのがわかった。
自分の本当の気持ちはわからないが、彼が〝助かってほしい〟と思ってくれているならば、助かりたいと思ったのだ。
それだけでも、もとの世界に戻るには十分な感情だったらしい。
見知った空気が、音が、気配が、近づいてくるのがわかった。もとの世界に戻りつつあるらしい。
「あ、あの……お礼は?」
きっともとの世界に戻ったら彼はいなくなってしまう──そんな予感がしたから、瑞希は慌てて尋ねた。
すると彼は、立ち止まった。そして、とても柔らかく微笑んだ。
「あの日と同じように、卵焼きを。とびきり甘いやつを頼む」
そう言われて、瑞希は何かを思い出しかけた。だが、記憶の端を掴む前に、男に突然距離を詰められた。そして、あっと思ったときには首筋を噛まれていた。
「あのときはお前のためだと我慢したが、放っておいてもためにならん。守ってやるために、印をつけた。お前はあちらのものに好かれるからな」
そう言って、男は瑞希を離した。
「へ……?」
気がつくと、どこかの道にいた。
虫の声がうるさい。いかにも山を切り開いた道路に、まばらに街灯が立っている。
目が慣れてくると、それが実家の近所だと気がついた。
今住んでいるところから電車で小一時間ほどかかる、郊外の町だ。
「……帰ってきた?」
夢でも見ていたのだろうかと思ったが、首筋に触れるとそこはじんわりと熱を持っていた。指先でなぞると、小さな二つのくぼみがある。
その噛み跡から、先ほどの出来事が夢ではないとわかる。
「あ、これ……」
本当に実家の近くに帰ってきてしまったのか確かめるために周囲を見回していると、見覚えのある小さな祠を見つけた。
瑞希が子どもの頃見つけて、こっそりお世話をしていた祠だ。
お世話といっても、時々やってきて鎮座している置物のヘビを磨いてあげて、卵焼きを供えるだけだが。何となく寂しい気がして、キーホルダーの鈴もつけてやったことがある。
「まだ残っててよかった。……そうか」
思い出の祠が残っていてよかったとほっこりしたと同時に、なぜ自分がここにいるのか理解した。
そして、助けてくれたあの男が誰だったのかも。
「神様、だったのか。じゃあ、ちゃんとお礼しないと……今は、これでご勘弁を」
瑞希はカバンを漁って、夕飯用に買っていたコンビニのフレンチトーストを取り出した。卵焼きではないが、卵たっぷりだ。
「今日は、助けてくださってありがとうございました。無事に帰れたので、仕事辞めます。……やっぱり、辞めたくないなぁ。係長がいなくなればいいのに」
祠に手を合わせ、お礼と共に決意表明をしたものの、迷いが出た。
激務で大変ではあるものの、仕事は嫌いではないのだ。問題があるとすれば、上司である係長だけ。それがポロッと口から出てしまっていた。
「明日、卵焼き持ってきますね。……さて、帰ろ」
不思議な体験をしたばかりでふわふわしているが、ひとまず帰宅しなければならない。
今から独り暮らしの家に帰るのも大変だから、今夜は突然実家に押しかけるしかなさそうだ。
不仲ではないが、実家にはなかなか足が向かない。おかしなものが見える瑞希を、両親が持て余していたのを知っているからだ。
だが、これからはそうも言っていられないだろう。
神様に恩ができてしまったから。
恩を返すために、これからは定期的に卵焼きを供えねばならない。
瑞希が歩き出すと、チリンと鈴の音がした。
(ずっと、守ってくれてたんだなぁ)
その音を聞きながら、温かな気持ちになった。
鈴の音は瑞希が実家に帰っても、一晩中鳴り続けていた。
守られているのを実感して、その夜は眠りについたのだった。
翌日。
さらに神様の大きな愛を知ることになる。
出社すると、係長は跡形もなく消えていた。
それ以来、瑞希は毎週末卵焼きを持って祠を訪れるのを欠かさなくなった。
あまがみ 猫屋ちゃき @neko_chaki
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