クチナシが咲く
九十九樹
第1話
七五三悠馬はあまり夏を好きになれなかった。
嫌いというか、夏になると頭の奥で何かが弾けるような感覚に襲われるのだ。
小学校一年生のとき、市民プールから家に帰ると警察官が数人いて、
大きな地震が来た後のように家じゅうの物が床に散らかっており、
割れたグラスは母の泣き顔を反射させていた。
母が覚醒剤を使っていたことを知ったのはもっと後だ。
自分の生活がどうしてこうなったのか説明されることもなく、
児童養護施設に放り込まれた。
その1週間後、庭で一人でボールを投げていると、
高学年の少年に後ろから殴られた。
「それ、俺のだ」と言われ、謝る間もなく腹を蹴られた。
以降、悠馬は施設のいじめのターゲットになった。
3日かけて作った紙粘土の壺は、
美術の宿題に出すこともできずにトイレに流された事。
なぜか自分のランドセルに同じ施設の女の子のスクール水着が押し込まれている事。
どれ一つとっても悠馬がいじめの被害者である事を示すには申し分なかった。
施設の職員はこう言った。
「ここには自立した子供たちがたくさんいます。」
でもそれは、放任の言い換えでしかなかった。
悠馬にとっての夏は、そういう季節だ。
半分残った煙草を足元で踏み消すと、
路肩に停めてあるボロい車に向かい、助手席のドアを開ける。
運転席に座る拓海が悠馬をちらりと見る。
「エンジン消しとけって言ったろ」
悠馬が言うと、拓海はわざとらしく肩をすくめた。
「職質なんてそうそう来ませんって。やりすぎだよ、悠馬さん」
悠馬は答えず、スマホを取り出し、画面に集中する。
短いメッセージを組織に送ると、車の振動が静かに広がっていくのを感じた。
窓の外では住宅街の景色が通り過ぎ、新宿のネオンと雑多な人混みが現れる。
「てか悠馬さん、猫ミームって知ってますか?俺最近めっちゃ好きなんすよアレ」
「そんなものばかり見ているから半年たっても1人で配達すらできねーんだよ」
くだらない話と車内の埃っぽい匂いが二人を目的の場所へと運ぶ。
「なんかあったら連絡しろ」
車が停まると悠馬はコンビニの袋から
チョコレートの箱を1つ手に取り車から降りていく。
クラブの中へ入ると、
汗と香水の匂いが混ざり合った空間に流行りの海外音楽が鳴り響いている。
酔っぱらった若者たちが音楽に合わせて体を揺らしているのを横目に
悠馬は奥のVIPルームへと群衆をすり抜けていく。
扉の前に立つと、無表情のセキュリティが目に入る。
悠馬は手にしたチョコレートの箱を無言で掲げた。
男は表情を変えず、静かに一歩退いた。
扉をあけると、むせ返るような草の匂いが鼻を突く。
照明は暗く、数人の微かな笑い声と喘ぎ声が部屋の隅々まで満ちていて、
その中で不規則に動く男女の影が見える。
誰もこちらを気にしてなどいない。
「佐々木さん、例の物、ここに置いておきますから」
机の上にはウィスキーのボトル、グラス、注射器、穴の開いた空き缶が乱雑に散らばっている。
悠馬は腕を伸ばし、それらを無造作に押しのけてスペースを作る。
音を立ててチョコレートの箱を置くと、一瞬だけ部屋の音が飲み込まれたように静かになり、またすぐに元の喧騒に戻った。
すばやく部屋から退室しようと扉に手をかけた瞬間にソファの男が口を開く。
「悠馬、今日の仕事はもう終わりか?」
男の声は低く、湿った空気に溶け込むようだった。
薄暗い部屋の明かりが、腕から首にかけて彫られた蛇の刺青を鋭く映し出す。
「お前もたまにはストレス発散してけよ」
その言葉には強制にも近い響きがあった。
声に反応するように、扉の近くに座っていた裸の女が立ち上がり、
細い腕を悠馬の肩に蛇のように絡ませる。
その腕には無数の注射跡が刻まれ、ところどころ青紫色の痣が浮いていた。
「まだ配達残ってるんで、すみませんが遠慮しときます」
「なんだよ、お前、やっぱりゲイなんじゃないか?」
「冗談きついっすよ、佐々木さん。またよろしくお願いします」
悠馬はそれだけ言うと、女の腕を静かに振りほどき、振り返らずに部屋を出ていった。
クチナシが咲く 九十九樹 @TsukumoITUKI
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