回帰の家

ぴのこ

回帰の家

 …無性に、子どもの頃に戻りたくなる時ってありませんか?

 仕事でいっぱいいっぱいになった時。恋人の顔色を窺って過ごす生活に嫌気がさした時。人生がもうどうにも行かなくなって、将来が見えなくなった時。


 何もしないでも良かったあの頃。親に無償の愛を注がれていたあの頃。可能性に満ち溢れていたあの頃。

 あの素晴らしい安寧が、ひどく眩しく感じられる。そんな瞬間って、ありませんか。


 私は、あの日の夕方がそうでした。

 あの日…彼氏の家を後にした私はもう何もかもが嫌になって、夕闇の中をふらふらと歩いていました。自分の人生全てが誤りのように思えて、どこから間違えたんだろうって、そんな気持ちでした。

 やり直したい。戻りたい。あの頃に。そう願いながら歩いていた時…聞こえたんです。


 夕焼け小焼けの、あの懐かしいチャイムが。


 私は夕方放送の無い横浜で育ちましたし、あそこも夕方のチャイムが鳴る地域ではありませんでした。そんなチャイムを懐かしく思うはずも、そもそも聞こえるはずも無いのです。

 けれども、その時の私の耳には確かに聞こえました。ひどく懐かしく思えました。

 私はそのチャイムに導かれるように、自然と歩を進めていったのです。どの道を行けばいいか案内されているようでした。


 住宅街を染め上げる夕焼け。どこかの家から漂うカレーの匂い。家に帰る子どもたちの楽しげな笑い声。石焼き芋を売るトラックの音。手を繋いで歩く母親と小さな子の後ろ姿。猫の鳴き声。頬を撫でる涼しげな風。騒がしく飛び回るカラスの声。森林のざわめき。自然の香り。木の根の硬さ。落ち葉の絨毯の感触。土の匂い。

 その全てが、暴力的なまでの懐かしさを私の胸に呼び起こしました。いえ、よくよく考えてみれば子どもの頃に森に入った経験など無かったはずなのですが。そもそもあそこの付近に森は存在しなかったはずなのですが。私は何の疑問も抱かず、郷愁に焦がれて森の中を歩いていきました。

 いつしかすっかり夜の帳が下り、私は早く帰らなければと森の奥へと急ぎ足で進みました。そしてある時、ついに見えたのです。樹冠の隙間から差し込む月明かりが、森の奥の家を微かに照らしていました。


 そうして辿り着いたのがこの家です。

 

 この家に足を踏み入れた時…実家に帰った時を凌ぐほどの安心感を抱きました。もちろん、私の実家はこんな土でできた家ではありませんよ。

 でも、不思議と安心したんです。壁も床も屋根も何もかもが土で固められたこんな家が、実家よりもずっと安心感に満ち溢れていたんです。

 この薄暗さも、家じゅうに染みついた腐臭も、全てが不思議と心地良かったんです。ええ、わかってくれますよね。

 そうだ。ここは私の家なんだ。ここが私の帰る場所なんだ。私は本能的に、そう理解しました。


 私はごろりと床に寝転がりました。

 土の布団は、おそろしく寝心地が良かった。ふんわりと包み込まれるようで、掛け布団も無いのに暖かくて、実家のベッドを思い出しました。

 いいえ、それどころかもっとですね。そう、例えば…赤ん坊の頃に母の胸に抱かれていた時のような、絶対的な安心感のある心地良さ。


 あまりに気持ち良くて、うつらうつらとし始めた時です。

 とぷんと、私の足のかかとが土の中に沈み始めました。土が突然柔らかくなったようでした。

 私は足を持ち上げようとしましたが、かかとは土に飲み込まれたままぴくりとも動かせません。

 まあ、別にいいか。私はその程度の反応でした。だって、土の中はとても暖かくて、心地良かったのですから。

 侵食はじわりじわりと進み、かかとから始まって足のつま先、膝、腰、胸、そして今では首のすぐ下までもが埋まりました。だから、こんな首だけの状態でお話しさせていただいているんです。すみません。

 もうじき、頭も土に飲み込まれるでしょう。でも恐怖はありませんよ。今だって、全身を包み込まれて…とても暖かな気持ちなんです。お母さんの胎内に戻ったみたいで、全身を飲み込まれる時が待ち遠しいほど。


 でも驚いたのは、あなたが現れたこと。家に誰かが入って来たと思ったら、まさか見知った顔だったとは。

 あなたも家に招かれたんですね。


 …家に招かれる条件は、何なのでしょうね。

 夕方に出歩くこと?そんなわけないか。

 過ぎ去った過去を懐かしむこと…いや、それは今までにも何度もあった。それだけじゃない。

 とすれば、きっと。


 人を殺すこと。

 

 私はあの日、彼に強く殴られて…カッとなってしまったんです。衝動的に灰皿を掴んで彼の頭に叩きつけたら、彼は動かなくなりました。

 その後、呆然としたまま街を彷徨っていたらここに辿り着いたわけですが…いったいこの家は何なのでしょう。

 人生を間違えた者への救いの場なのか、人殺しへの裁きの場なのか。


 確かなことはひとつだけ。

 私たちは、ここで土に還ること。


 家には抗えない。この心地良さには逆らえない。私の姿を見ながらも、あなたが床に寝そべったのがその証拠。

 ねえ、最後にひとつ聞いていいですか?


 あなた、誰を殺したんです?


 とぷん。

 

 

 

 

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