M子
強い西日が照り付ける駅のホームで、額に浮かぶ汗をハンカチで拭う。今日一日の非生産的な業務に思いを巡らせていると、シルバーとオレンジ色の見慣れた車列が目の前に滑り込んできた。
エアコンが程よく効いた車内にすっかり気が緩み、目の前の吊り革をぐいっと掴む。もう片方の手でホールドしたスマートフォンの画面を意味もなく眺めながら、今日も二本の電車を乗り継いで自宅のあるマンションへ帰ってきた。
今日の夕食は途中のコンビニで購入した惣菜とレトルトカレー。出社前にセットしておいた炊飯ジャーの米を炊きあげる匂いが、手狭な部屋の空気を支配しつつ、独り身の俺を出迎えてくれた。
「ただいま」とわざとらしく呟いてみる、馬鹿らしさ。
夕食の入ったコンビニ袋を無造作にローテーブルの上に置く。がさ、という音を耳で追いながら食事の前のシャワーへと向かった。
生乾きの髪のまま食事の支度を整えて、レトルトにしては上品な味付けのカレーと惣菜で空腹を満たし、渇いた喉を冷えた発泡酒で潤した。さっと食べてはさっと片付けるいつもの習慣、夕食に要した時間は三十分にも満たない。
食後のひととき、今日も俺はスマートフォンで戸塚のSNSを確認する。アカウントがとっくに部署内に特定されているのを知ってか知らでか、あいつは今日もSNS上で撮影機材や縄に関する持論を得意げに呟き、新たに撮影した緊縛写真を投稿し続けていた。
諭旨解雇の扱いだから、退職金はそれなりの額が支払われたのだろう。再就職はせず、その金を食い潰しながら緊縛写真家としての活動を本業として精を出す様子がSNSからは伺えた。その界隈ではそれなりに有名になりつつあるらしく、池袋や上野の小さなギャラリーで個展を開催する告知までもが、何度か掲載された。
退職後の戸塚の活動には変化が見られた。一回の撮影料を五万円から七万円に値上がりさせて、風俗のキャストを相手にしたプロフィール写真の撮影や、拘束具や調教用道具などのSM用品を扱うショップの商品撮影なども手掛け始めていた。
ごく限られた範囲ではあるが、あいつのカメラマンとしての才能が認知されつつあるこの状況は決して愉快ではないが、別に不愉快でもない。あいつの勝手にすればいい。
ただ、戸塚のSNSには見逃せぬ大きな変化があった。あいつのSNSから、M子が消えた。過去の投稿を遡ってみても、M子に関する全ての投稿は削除されて、その姿をSNS上で拝むことはもうできない。
これは俺にとっては歓迎すべき状況だ。戸塚とM子の関係を引き剥がすことができたのならグッジョブ、俺の目的は達成されたといえる。
すでにM子の画像はすべてダウンロードして、手元に所有している。これでようやく彼女を独り占めできたのだと、ひとりにやけて悦に浸り、俺は満たされた。
M子に関する俺の唯一の心残り、それはM子が撮った俺の緊縛画像だ。会社の食堂で、M子のスマートフォンの画面で一度見ただけのあの画像、俺はあの画像が欲しい。俺の所有物として自らの手中に収めたい。あの画像が欲しくて、欲しくてたまらない。M子があの緊縛画像をちらつかせて復讐を仕掛けてくるというのなら、俺はそれを歓迎する。ウエルカムだ。さあ、来い、来てくれ、今すぐ俺の元へ。
向かいの本棚に目をやれば、会社の抽斗から持ち帰った茶色い紙袋がそこにある。紙袋の中には、朱い麻縄がある。M子が縛られたかもしれぬ縄、俺を縛ったかもしれぬ朱い縄。
この縄が俺の体をじりじりと締め上げるさまを想像する。ほどよく引き締まった体脂肪の低いこの肉体にあの縄が触れ、そして一気にぴんと張られた縄が俺の筋肉にめり込んでいく。麻縄の繊維のざらりとした感触とともに皮脂の表層部が削り取られ、ひりひりとした刺激が体を襲う。体の自由を奪われて身動きができず、ただただ被虐と屈辱に満ちた時が過ぎていく。
ああM子、お前はいま何処にいる? 何をしている? この縄で、俺をもう一度縛ってはくれないか?
俺はいつでも、お前が再び俺の前に現れるのを待っている。頼む、もう一度縛ってくれ。俺に、快楽という名の施しを与えてくれ。
従順なシュナウザーのような DEE @MISAKINGKOCHINE
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