第2話
今日はなんてついてる日なんだろう。
半之丞は心から思った。
石榴口をかがんで通り抜けると、もう、入り口の向こうは白煙で見えない。
みんながぶつからないように声を掛け合い、半之丞は、兵馬から離れないよう、声と姿を追いかけていった。人の空いている場所があり、二人はそちらの湯の中に入った。
熱めの湯で腹の辺りほどまで浸かると、ほっと息が漏れた。
「いい湯だねー、半之丞」
「うん……」
忠弥さんは、もういらっしゃらないか。
半之丞は見渡せる範囲を探して見たが、忠弥の姿はなかった。
そりゃあ、あんまり長湯したらあたるだろうし。
半之丞は、内心がっかりもしたが、半分安堵していた。
今日は顔を見られたし、声もきけたし、これ以上云うことはない。
忠弥がここの湯屋を利用していると知っただけでも儲けものだ。
ゆっくり湯に浸かり、兵馬と共に湯から上がった。
久しぶりの湯屋に満足して二階へ上がると、忠弥がのんびりと外の景色を眺めているところだった。
半之丞はまたもやドキリとした。
兵馬は顔を明るくさせると、いそいそと忠弥のそばに行った。
「いい湯でしたね」
「ああ」
半之丞はここでも心の準備をしていなかったため、先程と同じように喉がカラカラになってしまっていた。
声を出さなきゃ、と思うのだが、いつもと違う状況に緊張する。
すると、忠弥の方が気を利かせたのか、半之丞に隣に座れと声をかけてきた。
「お主、まさか、まだ俺に慣れぬのか?」
率直な物云いが忠弥らしい。
呆れたような顔をしていたが、怒っている風ではない。
半之丞は、咄嗟に謝りかけて言葉を探した。
いやいやここで、謝ってはいけない。
「仕方がないですよ。半之丞は幼い頃からずっとあなたに憧れてますからね。忠弥さんだって覚えがあるでしょう」
「は? なんの話だ?」
兵馬が横から口を挟んできたが、要領を得ない。半之丞は胸が暗くなった。
知らなかった。
忠弥さんに誰かいい人がいたのだろうか。
「ほら、堀内道場のお嬢様」
「ああ……!」
忠弥が思い出したように膝を叩いた。
「昔の話だ。もう、何年になるかな。カナ子様は五つ年上で、俺が門弟になった頃には皆伝を貰っていた」
忠弥が笑っている。半之丞はその笑顔に見惚れた。
「ん? それと同じか? まあ、確かに、俺もあの頃はカナ子様を目にすると緊張したな」
「そ、その方は美しかったのですか?」
「ん?」
忠弥が、突然声を上げた半之丞を見た。
「そうだな。体の線もほっそりしていて、小柄だったが、剣の速さは誰もついていくことができなかったな」
美しさの答えではなかったが、忠弥にとっての憧れだったのだろう。
話ぶりからそれが感じられた。
相手は女性、自分は男。
忠弥が憧れた相手が女性であったのは意外であったが、どう転んでも半之丞には勝てる見込みはない。
「そ、そうでしたか……。よほど美しい方だったのですね」
「あら? そうだったの?」
突然、半之丞の背後から声がして、一同は声のする方を見た。
かなり恰幅のよい、いい感じに横に広がった武家の女性が、後ろに風呂敷つつみを抱えた女中を従えて立っている。年は、忠弥よりも五つほど上に見える。
「おお、カナ子殿かっ」
忠弥の顔が見たこともないほど
「今、
「ここに、ちゃんと共の者がおりますよ」
「この時刻に
「あら、わたくしはもっと早くから来ていたのです」
二人はトントンと弾むように会話している。
「聞きましたぞ。カナ子殿のご息女も剣の腕が立つとの噂が」
「唐突ですのね。どこからそのような噂が? それに成沢様らしくありませぬ」
「俺らしくないとは?」
「そのような噂を信じるようには思えません。そもそも、わたくしの娘どころかまだ生まれてもございませぬが」
「そうか、それはすまんかった」
とすまないと思ってないように豪快に笑った。
そばで話を聞いていた半之丞は、忠弥が珍しくよく話をすると思い、胸がツキンと痛んだ。
そもそも、忠弥は女好きである。茶屋にはなじみの女、お染だっているのだ。
焼き餅を焼く資格もない。
「では、成沢様、もし、わたくしのお子が産まれたら、男でも女でもあなたの弟子にしてくださいますか?」
「え?」
一瞬、カナ子の頬が染まった気がした。半之丞は、忠弥がどのように答えるかハラハラしながら見守った。
すると、忠弥は、頭を掻きながら困ったように答えた。
「ああ、それは難しいな」
「……え?」
カナ子は断られると思わなかったのだろう、きょとんとした。
「すまぬが、今はこいつのことで手がいっぱいでな」
と、半之丞の腕を取る。
「男にすると約束をしたのだが、これこの通り軟弱すぎていつになるやら分からん」
半之丞は取られた手のたくましさにドキドキした。
風呂上がりで火照った体がさらに熱い。
「も、申し訳ありません……」
小声で謝ると、カナ子がこちらを射抜くように見た。
「カナ子様はお背中流してもらいに来たのですか?」
「は? 一体何のこと?」
突然、横から兵馬が間抜けな事を云いだす。
「三助じゃなくても、こちらの湯屋であれば、きっと湯女でも運気が上がる効果はあるんじゃないですかね」
「お主ら、それが目的か」
「そんなの出鱈目でしょ」
カナ子が鼻で笑った。
「いえ!」
突如、半之丞が声を出した。忠弥もびっくりする。
「真実ですよ。だって、俺……。ここに来ただけでこんなに……」
恥ずかしくて次が云えない。忠弥が苦笑している。
「そう言えばお主、以前に俺の背中を流したいと申しておったな」
「は、はい」
「ならば、今度頼むぞ。その時もまだ、軟弱なままでは許さんからな」
「は、はいっ」
半之丞は答えながら、もうこのままでもいい、と思った(いや、駄目だろ)。
カナ子はふんとそのまま階下へ降りていき、兵馬はニコニコしながらいつものように、よかったな、俺のおかげだなと半之丞の背中を叩いた。
初めて、兵馬が友達で本当に良かった、と半之丞は思った。
そして湯屋へ来てよかった、と心から笑った。
終わり
そうだ! 湯屋へ行こう。 春野 セイ @harunosei
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